8
部屋に運ばれてきた今晩の夕食は、いつも以上に華やかだった。
銀の蓋を開けると、香草と白葡萄酒で丁寧に蒸し上げられた舌平目に、焦がしバターの香り豊かなソースが添えられている。
付け合わせには、甘く煮た人参や蕪、緑鮮やかなアスパラガスが彩りよく並び、焼き立ての小さな丸パンからは小麦の香ばしい香りが漂っていた。
エイミーが部屋を出ると、控えめな食器の音だけが静かな部屋に響く。
『んん、おいしい。本当にこのお屋敷のお料理は、初めて食べるものばかりで新鮮』
一人で呟きながら、ふとアストリアの食卓を思い出す。
お父様や山南さん、時間が合えば山崎さんや伊庭君とも食事の席を囲むことが多かったあの時。
学院では、クラスの友人は勿論、薫様や千鶴様、平助君とも昼食をとりながらいつも楽しく食事をしていた。
誰かと一緒に食事することが当たり前だったから、そのありがたみなんて一度も考えたことがなかった。
でもこうして毎日一人で食事をしていると、途中でフォークを持つ手が止まってしまう。
淋しいと……そう感じてしまうことが嫌で、また直ぐに口に料理を運ぶけど、いくらおいしくても心は満たされなかった。
『でも、こうしておいしいご飯を食べられるだけで幸せなんだよね』
世の中には日々の食事すら満足にできない人もいる。
私もこのお屋敷に来たばかりの頃は、満足に食べることすら出来なかったから、飢える苦しみは嫌というほどわかっているつもりだ。
あの頃に比べたら、守られた場所で安全な食事をお腹いっぱい食べられるだけで十分幸せなことに思える。
だけど、今夜こうして気持ちが沈んでしまうのは、今頃一階の食堂で楽しく食卓を囲む総司様と奥様方の姿を想像してしまったからかもしれない。
自分の居場所が定まらず、今後の見通しも立たない私にとって、笑い合える家族が傍にいることが羨ましく感じられた。
「お嬢様、戻りました。遅くなってしまい、申し訳ありません」
『エイミー、お帰りなさい』
エイミーはいつも給仕を終えた後も、忙しくしていることが多い。
なんでも食卓で食事をされている奥様方の注文を聞いていると、他の使用人達の手が回らないことが多く、新人のエイミーがあれこれ頼まれてしまうらしい。
彼女が戻ってきてくれたことが嬉しくて微笑むと、彼女は笑顔で私の前にカットされたケーキを差し出してくれた。
「こちら、本日のデザートです」
『わあ、ケーキ?フルーツもたっぷりでおいしそう』
「今日は、ご側室のニコラ様のお誕生日のようですね」
『そうだったんだ。今度お会いしたら、お祝いのお言葉をお伝えしないと』
そっか。
ニコラ様のお誕生日だったから、総司様も早めに仕事を切り上げて晩餐に出席されたんだ。
そう思いながら、目の前に置かれた大きなケーキをぼんやり眺める。
真っ白な生クリームに艶やかな苺や葡萄が飾られた、とても綺麗な一切れ。
きっと今頃、一階では大きなケーキを囲んで皆が笑っているのだろう。
その光景を想像したら、また胸の奥が小さく締め付けられた。
どうしてだろう。
ここ最近は、誰かに冷たくされたわけでもない。
それなのに、心だけがぽっかりと空いてしまったようで、理由のわからない淋しさが静かに広がっていく。
今日はお祝いの日だから。
皆が笑っている日だから。
その輪の外にいる自分を、無意識に感じてしまったのかもしれない。
私は小さく息を吐き、心に広がるその気持ちを追い払うように顔を上げた。
『ありがとう、エイミー。すごくおいしそう』
そう言って微笑むと、エイミーもほっとしたように優しく笑い返してくれた。
『エイミー、あのね。お願いがあるんだけど』
「なんでしょう?」
『ケーキ、大きいから半分こにして一緒に食べてくれない?エイミーと一緒に食べたいの』
私がそう誘うと、エイミーは少し照れたように目を細めた。
お屋敷に来たばかりの頃は、「使用人が主人と食事をするなんて」と何度お願いしても首を横に振っていた彼女だったけど、最近では私の気持ちを受け取ってくれるようになり、今日も素直に頷いてくれる。
丁寧にケーキを半分ずつ切り分け、お皿に盛り直すと、エイミーは遠慮がちに私の隣に腰を下ろした。
「こんなことを何度もしていたら、そのうちお叱りを受けてしまいそうですね」
『大丈夫だよ。私がお願いして食べてもらってるんだから』
「ふふ、ありがとうございます。お嬢様のおかげで、普段なら口にすることもないような高級なお菓子の味を、すっかり覚えてしまいました。このままでは私の舌が贅沢になってしまいます」
『ふふ、ここのお食事はおいしいもんね。一緒に贅沢な舌になっちゃおうよ』
良かった、エイミーが戻ってきてくれて。
同じものを同じ時間に味わい、他愛のない話をしながら笑い合える相手がいる。
それだけで、さっきまで心を覆っていた淋しさが少しずつ薄れていく気がした。
どんなに豪華なお食事でも、一人きりで食べるより、誰かと囲む食卓の方がずっと温かく、おいしく感じられる。
『おいしいケーキだね。食堂はお誕生日のお祝いで盛り上がってた?』
「はい。私が少しだけ様子を見た時には、ちょうど閣下がニコラ様に贈り物をお渡しになっていました」
『わあ、素敵だね。どんな贈り物?』
「とても立派なルビーのネックレスです。あんな大きな宝石、私は初めて見ました」
『そうなんだ。ニコラ様、とても喜ばれたでしょうね』
「はい。嬉しそうに閣下に抱きついていらっしゃいましたし、閣下もニコラ様の髪をとても優しく撫でていらっしゃいました。あのようなお姿は初めて拝見したので、少し驚いてしまいました」
『ふふ、エイミーは総司様のことを少し怖がっていたもんね』
昼間、お茶をご一緒した時の総司様は、奥様方との結婚について、どこか満足していないようにも聞こえた。
だからこそ、エイミーの話を聞いて少し安心する。
口では色々仰っていても、総司様はちゃんと奥様方を大切になさっているのだ。
それなのに、その安堵と同時に、胸の奥を細い針でそっと突かれたような痛みが走る。
嬉しいはずなのに、心のどこかが静かにもやを抱えてしまう自分が嫌で、無理矢理微笑んでその気持ちを飲み込んだ。
「閣下も十分恐ろしいですが……このお屋敷の奥様方も、少し怖くありませんか?」
『そう?』
「はい。お嬢様とはまるで違います。なんと言えばいいのでしょう……目が合うだけで背筋が冷たくなるような、まるで虫けらでも見るような目を向けられている気がしてしまうんです」
その例えがおかしくて、思わずくすくすと笑ってしまう。
けれど、エイミーがそんな思いをしているのは、きっと私が原因なんだろう。
笑みが少しだけ曇り、私は申し訳なさそうに彼女を見つめた。
『ごめんね、エイミー』
「え?どうしてお嬢様が謝るんですか?」
『エイミーがそう感じるのは、私の専属侍女だからだと思うの。ほら……私の立場って、奥様方から見たら複雑でしょう?だから、エイミーにまで気を遣わせてしまっているのかなって』
エイミーは驚いたように目を丸くしたあと、心配そうに眉を寄せた。
「お嬢様のご事情は、それとなく閣下からうかがっています。やはり、お嬢様は奥様方から酷い仕打ちを受けていらしたのですか?」
『ううん、全然。ただ少し、うまく関係を築けなかっただけだよ。でも、それは私にも至らないところがあったからいけなかったの』
このお屋敷に来たばかりの頃は、自分の置かれた状況を受け止めるだけで精一杯で、周囲の人達の気持ちまで思い至る余裕なんてなかった。
今になって思えば、たとえ総司様のお心遣いだったとしても、あれほど沢山のドレスや装飾品を受け取るべきではなかったのだと思う。
あの場で辞退するか、奥様方にお譲りすると申し出るべきだった。
きっと私は、自分ではそんなつもりがなくても、あの方達には身の程を知らない娘に映ってしまったのだろう。
あの日の振る舞いを思い返すたび後悔が胸をよぎるから、次の夜会で着る新しいドレスを仕立てる話にも、どうしても素直に喜べなかった。
「ですが、その腕の傷はその時につけられたものですよね。お嬢様が酷い仕打ちを受けたというのに、閣下は奥様方をお咎めにならなかったのですか?」
『そこまでしてもらうようなことじゃないよ。それに、いつものお薬のお陰で傷もかなり目立たなくなったし』
あのお薬を塗り始めてから、火傷や切り傷の痕は日に日に薄くなり、中には跡形もなく消えてたものもある。
まだ腕や肩には淡い痕が残っているけど、薄暗い場所なら気付かれないくらいには薄くなっていた。
「……私は、やっぱり閣下が何を考えていらっしゃるのかわかりません」
エイミーは伏し目がちに呟き、小さく呟いた。
「ただ怖い方なら、私も今まで何度もお会いしてきました。でも閣下の場合は、またそれとは少し違います。私はあの方が見せるお顔のうち、どのお姿が本当の閣下なのか、いまいちよく分からないんです」
その問いを聞いて脳裏に浮かんだのは、時折ひどく冷えた光を宿す総司様の瞳だった。
普段は穏やかなエメラルド色の瞳が、一瞬ですべての温もりを消し去ってしまう、あの静かな眼差し。
以前、はじめも危惧していた総司様の本質。
帝国に連れて来られてからというもの、私も何度となく、総司様はどんな方なのだろうと考え続けてきた。
そして、何度考えても辿り着く答えは変わらなかった。
優しい総司様も、冷たい総司様も、そのどちらも総司様なのだと思う。
婚約していた頃の私は、優しさだけを向けられていたから気付かなかった。
けれど今ならわかる。
総司様の中には、迷いなく人を切り捨てられるほど冷徹な一面が確かに存在している。
それでも、その冷たさだけが総司様ではないことも、私は知っていた。
『どのお顔が本当かというより、全部本当の総司様なんじゃないかな。優しいところも、ときどき冷たく見えるところも、そのどちらも総司様だと思うの』
「私が申し上げたいのは、その優しさが本心からのものなのかということです」
『え?私は、本物だと思うけど』
「そうでしょうか。私には、どうもそうは見えないんです。さっき食堂で拝見したお姿も、どこか作り物みたいに感じてしまって。でも……」
そこまで言うと、エイミーは私の顔をじっと見つめた。
何か言いたげな様子だったのに、不意に大きく目を見開き、青ざめた顔で慌て始める。
「お、お嬢様……?私が閣下について色々申し上げたことを、絶対に閣下には内緒にしてくださいね?」
その慌てぶりがおかしくて、私は思わず笑みをこぼした。
『ふふ、もちろん言わないよ。エイミーと私だけの秘密のお話だもん』
その言葉を聞くなり、エイミーは胸をなで下ろし、大きく安堵の息を漏らした。
本当に総司様が怖いんだな、と微笑ましく思ってしまう。
帝国では帝国の剣として名を馳せる総司様の噂は、私が思っている以上に恐ろしいものばかりらしい。
そんな話を聞いてしまえば、エイミーが怯えてしまうのも、無理はないのかもしれない。
『エイミーは気になるよね。このお屋敷で、この先も暮らしていくことになるから。でも私は、自分がいつまでここにいるのかもわからないでしょう?だから最近は、あまり深く考えすぎないようにしているの』
そう言って微笑みながらも、自分の胸にそっと手を当てる。
『来月にはもう、このお屋敷にはいないかもしれないし、まったく違う場所で暮らしているかもしれないよね』
「え……?」
『ほら、私の処遇はまだ正式には決まっていないから。ここは、それまでの一時期的な預かり場所なの』
その言葉に、エイミーは目を丸くしたまま固まってしまう。
何度か瞬きを繰り返したあと、突然立ち上がると、私の肩を両手でしっかり掴んだ。
「えええっ!?そうなのですか!?知りませんでした!そんなお話、私は一度も聞いていません!」
『総司様から聞いてなかったの?』
「私は、お嬢様は東部からお迎えした大切なお客様だとしか聞いていませんでした。それに、長くお仕えするつもりでしっかり奉公しなさい、と仰っていましたし……」
困ったように眉を下げるエイミーを見て、私は苦笑しながら頷いた。
『そうだったんだ。でも私がアルディオン公爵家で暮らすのは、アストリアが講和を誠実に守っていると帝国が判断するまでの間だけなの。陛下がお認めになれば、そのあと私は帝国で新しい役目を与えられるんだと思う』
以前、総司様は「君にはもう役割が考えられている」と仰っていた。
だから本当は何も決まっていないわけじゃなく、公表する時期を待っているだけなのか、それともいくつかある候補から最終的な結論を出そうとしているだけなのだろう。
「帝国での新しいお役目ということは……帝国の貴族の方に嫁がれる可能性が高い、ということですか?」
『立場辛い、多分そうなるんじゃないかなって思ってるよ』
「お嬢様は、それで宜しいのですか?」
『仕方のないことだから、受け入れるしかないよね。でも、今みたいに行き先もわからないまま毎日を過ごすより、ちゃんと役割を頂けた方が私は嬉しいの』
私は少しだけ考えてから、微笑んだ。
『目標があれば、そのために努力できるでしょう?私、何もしないまま毎日を過ごすのは苦手なの。せっかく生きているんだもん。少しでも誰かのお役に立てるように頑張りたいし、自分も成長していきたい。私、今から帝国でどんな役割を頂けるのか、少し楽しみにもしてるんだ』
総司様に買って頂いた本のお陰で、帝国の歴史や文化は少しずつ学べている。
けれど、それだけでは足りない。
アストリアにいた頃は、将来に備えて様々な学問を学び、多くの土地を訪れ、色々な人達と出会いながら経験を積んできた。
忙しい毎日だったけど、努力できる環境が当たり前のようにあったことは、とても恵まれたことだったのだと今ならわかる。
だから帝国でも、これまで学んできたことを少しでも役立てながら生きていけたらと思っている。
「……そうだったんですね」
エイミーはゆっくりと私の肩から手を離し、淋しそうに俯いた。
「私は、お嬢様に末永くお仕えできるものだとばかり思っていました」
その落ち込んだ様子を見ていると、胸がきゅっと締め付けられる。
私だって、エイミーと離れたくない。
ようやく心から笑い合える友達のような存在に出会えたのに、いつか離れる日が来ると思うと、とても淋しかった。
でも、そんな空気のままで終わりたくなくて、私は立ち上がると、ベッドの上に座っていた真っ白なテディベアを抱き上げた。
『総司様がね、私がこの子を気に入ったことをご存じになって、別の場所で暮らすことになったら一緒に連れて行っていいよって仰ってくださったの』
そう言ってエイミーに渡すと、彼女は大切な宝物でも抱くように、そっと腕の中に迎え入れた。
『本やドレスを買って頂いた時も、こんなに沢山はいりませんって申し上げたんだけど、いつかこのお屋敷を出る日が来ても、その時に持って行けば無駄にはならないでしょって言ってくださって』
もちろん、そのお心遣いに甘えすぎるつもりはない。
本も、ドレスも、装飾品も、本当に必要なものだけ頂ければ十分だと思っている。
それでも、その言葉は今も心の奥を優しく温めてくれていた。
私は少しいたずらっぽく笑うと、エイミーの顔を覗き込んだ。
『もし私がこのお屋敷を出ることになったら、その時は総司様にお願いしてみようかな。エイミーも一緒に連れて行ってもいいですか?って』
冗談みたいに笑って言ったけど、その言葉には本音も半分混ざっていた。
こんなに優しくて、いつも明るく寄り添ってくれるエイミーと、できることならこれからも一緒にいたい。
エイミーは潤んだ瞳で私を見つめ、ぎゅっとテディベアを抱きしめた。
「その時は……私も閣下にお願いしてみます。お嬢様のお傍で、ずっとお仕えしたいですから」
そう言ってくれたエイミーの瞳には迷いがなく、その言葉が心からのものだと伝わってきた。
『ありがとう。エイミーの雇い主は総司様だもん、お願いしてみたら、本当に叶うかもしれないね』
私が冗談交じりに笑うと、エイミーは一瞬だけ肩をぴくりと震わせた。
その笑顔はすぐに消え、何か思い詰めたように唇を引き結ぶ。
「……そうでした。私の雇い主は閣下でしたね」
小さく呟いた声には、どこか引っ掛かるものが混じっていた。
「そう考えると……その願いは、案外難しいのかもしれません」
『どうして?』
「いえ、なんとなく?」
『じゃあ、そうなった時は前にエイミーが言っていたやり方で、二人で可愛く総司様にお願いしてみよっか』
その言葉に、エイミーは一瞬きょとんと目を丸くしたあと、思い出したようにくすくすと笑い始めた。
「ふふっ、そうでした。二人でお願いしたら、閣下も断れないかもしれませんね」
『でしょう?エイミーの笑顔はとっても可愛いから、きっと私より効果があると思うな』
「そんなことありません。お嬢様も一緒だからですよ」
笑い合ううちに、さっきまで部屋に漂っていた少ししんみりした空気は、いつの間にか優しい温もりに変わっていた。
未来がどうなるのかは、まだ誰にもわからない。
このお屋敷で過ごす時間がどれほどかもわからない。
それでも今、この場所には私の隣で笑ってくれる人がいる。
その事実だけで十分幸せなのだと、改めて思えた。
『その時が来たら、一緒に頑張ろうね』
「はい、お嬢様」
エイミーは柔らかく微笑み、私もつられて笑みを浮かべる。
穏やかな時間はゆっくりと流れ、その笑い声だけが部屋を優しく満たしていた。
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