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その次の日、アルディオン公爵邸には、総司様が仰っていたとおり、ヴァルモンから仕立て屋が訪れた。
午前中に奥様方の仕立てを済ませ、午後から私の部屋に来てくださるらしい。
朝食を終えた私は、仕立て屋が来るまでの間、庭園で散歩でもしようと部屋の中で身支度を整えていた。


「昨晩は閣下とどうでしたか?」


エイミーが私の髪を梳かしながら、鏡越しに尋ねてくる。


『楽しかったよ。総司様とね、お友達になったの』

「お友達……ですか?でも、今までも親しかったですよね」

『そうなんだけど、改めてお友達になったって言えばいいのかな』


他の人には、総司様と私の過去を気安く話すことは出来ない。
だから、昨晩どんな話をしたのか、どうして総司様が私に優しくしてくださるのか、その理由をエイミーに話すことは出来なかった。
でも、総司様が私に優しくしてくださる理由を知ることが出来たことも、私との過去をそれなりに大切なものとして覚えていてくださったことも嬉しかった。


「そうなんですね。楽しかったなら良かったです」

『うん。しかもね、総司様は私のあげた人形をちゃんと腰につけててくれたの』


私が二週間かけて作った小さな人形を、総司様はちゃんと身につけてくれていた。
そのことが純粋に嬉しかった


「ふふ、使用人の間でも何人か騒めいていましたよ。朝、閣下が人形をぶら下げているって。お嬢様からの贈り物だとは、皆知らないようですけどね」

『総司様が人形をぶら下げて歩くなんて、想像出来ないもんね。さすがに、あれで外出はしないとは思うけど』


そう言いながら、私は少しだけ苦笑した。
小さな人形を腰に下げて歩いている姿を見たら、周りの人が驚くのも無理はない。
変な噂になってしまったら困ると思う一方で、総司様がそれを身につけてくれていたことが嬉しかった。
そんなことを考えているうちに身支度が整い、私はエイミーと並んで庭園に出た。


『今日は奥まで歩いてもいい?』

「もちろんです」


昨日、総司様と座ったガーデンスイングをもう一度見てみたくて、私はいつもより先まで足を延ばした。
だけど探しても探しても、あのガーデンスイングは見つからない。
結局、私はいつものお気に入りの場所まで戻ってくると、ついにその足を止めた。


「お嬢様、何か探されてるんですか?」

『ううん。ただ、この庭園の中には水辺はないのかなって思っただけだよ』

「私が見た限りは、なさそうですけどね」

『そうだよね……』


エイミーに昨日の場所のことを話してしまったら、どうやってそこまで行ったのかと不思議に思われてしまうだろう。
だから、詳しいことは何も話せない。
私は曖昧に笑って、咲いている花にそっと指を伸ばした。

柔らかな花びらを撫でながら、昨晩のことを思い出す。
総司様と並んで座ったことや、昔のことを話したこと。
そして、今まで知らなかった総司様の気持ちを知ったこと。
とても優しい時間だったから、思い出すたびに心が弾んだ。
またいつか、あの場所に行けたらいいな。
そう思いながら、私はただ花びらを撫で、昨晩の温かな記憶を大切に胸の中にしまっていた。


『沢山歩いたし、そろそろ戻ろうか』

「そうですね」


帝国はアストリアよりも早く冬が訪れる。
庭園を歩いているうちに少しずつ冷気が増してきて、私は眺めていた花から名残惜しく視線を離した。


『少し寒くなってきたね』


そう言ってその場を離れようとした、その時だった。


「あっ……動かないで」


不意に掛けられた声に驚いて、私は思わず足を止めた。
辺りを見回してみると、いつの間にそこにいたのだろう。
少し離れた場所に、ひとりの男性が立っている。
淡い色の髪を後ろで緩く束ね、手にした鉛筆を動かしながら、こちらを真剣な眼差しで見つめていた。
その人とは以前、一度だけご挨拶を交わしたことがある。
リーシェ様と親しくされているという、シャルル様だった。


「呼び止めてしまい、申し訳ありません。先程のように、そちらの花に触れていただけませんか?」

『こう……でしょうか?』

「はい。あと少しで描き上がりますので、どうかそのままで」


エイミーと顔を見合わせる。
一度迷いはしたものの、目の前であれほど真剣な表情をして絵を描いている方の言葉を聞かずに立ち去ることは出来なかった。


『わかりました』


私は言われたとおり、先程と同じように花にそっと指を添えた。
花びらの柔らかな感触を感じながら、静かにその場に立っていると、鉛筆が紙の上を走る音だけが聞こえてくる。
少し緊張してしながらも、目の前の花を眺めることに集中することにした。
それから暫くして鉛筆の音が止まると、再び彼が話しかけてきた。


「ご協力いただきありがとうございます。無事、描き上がりました。もう楽にしていただいて大丈夫ですよ」


ほっとして手を下ろすと、シャルル様は嬉しそうに顔を上げ、そのまま私の前まで歩いてくると、丁寧に一礼した。


「先程は不躾にお声を掛けてしまい、大変失礼いたしました。セラお嬢様、ご機嫌よう」

『シャルル様、ご機嫌よう。またお会いしましたね』

「あなたにお会い出来て幸運でした。久しぶりに、描きたいと思えるものに出会えたので」


そう言って、シャルル様は手にしていた素描帳を私に差し出した。


『わあ、凄い……』


そっと覗き込んだ私は、思わず息を呑んだ。
そこには、先程まで花を眺めていた私の姿が描かれていた。
鉛筆だけで描かれているというのに、花の柔らかな輪郭も、風に揺れる髪も、私が花に触れていた指先までもが細やかに描かれている。
何より、絵の中の私は、自分では気付いていなかったほど穏やかな微笑みを浮かべていた。


『とても素敵です。今の時間だけで、この絵を描いたんですか?』

「はい。僕はあまり人物画を描かないのですが、お嬢様を拝見したら、どうしても描かずにはいられなくなりまして。無断で描いてしまったご無礼を、どうかお許しください」

『いえ、こんなに綺麗に描いていただけて嬉しいです』


シャルル様が名のある画家だということは、貴族の間でも有名だった。
けれど、実際にこうして目の前で絵を見せてもらうと、その評判が決して大げさなものではないことがよくわかる。
僅かな時間、花を眺めていただけなのに、その瞬間をこんなにも優しく、美しいものとして残せるなんて。
私はもう一度、素描帳の中の自分を眺めた。
そこに描かれた私は、どこか知らない人のようでもあったけど、それでも不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ自分では気付けなかった穏やかな一瞬を、シャルル様が見つけてくれたような気がして、心が温かくなった。


「僕はありのまま紙に写し取っただけですよ。セラお嬢様が花を見つめる姿には、ただ美しいというだけではないものを感じました。花そのものよりも、花を見つめるあなたの心まで描き留めたくなったのです。あれほど優しい眼差しで花をご覧になる方は、そういらっしゃいませんから」


シャルル様はそう言って、少しだけ目を細めた。


「それに、あなたが花を眺めていると、まるで花と静かに言葉を交わしているように見えました。そういう一瞬は、画家にとって見過ごし難いものなんです。花がとてもお好きなんですね」


会ったばかりなのに、私が花を好きだということまで見事に言い当てられてしまい、私は少し驚きながらも素直に頷いた。


『はい、花が大好きです。よくおわかりになりますね』

「花を見つめるあなたの表情が、あまりにも愛おしげでしたから。好きでなければ、あんなふうにはご覧にならないでしょう」


そう言われると、なんだか少し照れくさくなってしまう。
自分ではいつも通り花を眺めていただけなのに、そんなところまで見られていたのかと思うと、急に自分の仕草が恥ずかしくなった。


「以前もこの庭園でお会いしましたが、よくこちらにいらっしゃるんですか?」

『はい。ここ最近は、毎日庭園を散歩しています。いつもは午後に行くことが多いですか』

「そうですか。僕も午前中は別の場所にいることが多いので、今日あなたとお会いできたのは幸運だったということですね」


シャルル様はそう言って、手元の素描帳に一度視線を落とした。
その横顔には、先程まで絵を描いていた時と同じ、どこか夢中になっているような静かな表情が浮かんでいる。
すると、隣にいたエイミーが私の様子を窺いながら、そっと声を掛けてきた。


「お嬢様、そろそろ戻りましょう。昼食のお時間が近くなりました」

『そうだね。シャルル様、素敵な絵を見せてくださってありがとうございました』


名残惜しく思いながら素描帳から視線を離すと、シャルル様は僅かに眉を下げた。


「もうお戻りになるのですね」


その声音にほんの少しだけ寂しそうな響きが混じっているような気がしたけど、シャルル様はすぐに穏やかな笑みを浮かべ直すと言葉を続けた。


「戻られる前に、一つだけ宜しいですか?セラお嬢様にお渡ししたいものがあります」

『私に、ですか?』

「はい。今日、絵を描かせていただいたお礼です」

『でも、お礼なんて……。私のほうこそ、こんなに素敵な絵を描いていただいたのに』

「それでも、僕が差し上げたいんです」


シャルル様は穏やかに微笑むと、肩に掛けていた鞄を開いた。
中には何冊もの素描帳や絵筆、色鉛筆らしきものが丁寧に収められている。
その隙間から小さな箱を取り出すと、シャルル様は蓋を開いた。


『これは……?』

「どうぞ、手に取ってみてください」


私はそっと中から取り出した。
それは、細い金属の軸に透明なガラスの花が飾られた、小さな栞だった。
花びらは淡い青紫色で、光を受けるたびに薄く輝いている。
宝石のような華やかさはないけど、どこか素朴で、それがかえって可愛らしかった。


『綺麗ですね』

「気に入っていただけましたか?」

『はい。とても素敵です。これは何ですか?』

「栞ですよ。南の国で作ってもらったものです。僕が旅をしていた頃に立ち寄った、小さな港町がありましてね。そこの職人が作っていたものなんです」


シャルル様は栞のガラスの花を眺めながら、懐かしそうに微笑んだ。


「本物の花を持ち帰ることは出来ませんから、せめて形だけでも残しておきたくて」

『シャルル様が、この花を選ばれたんですか?』

「ええ。旅先で見た花を描いていたら、その職人が僕の絵を気に入ってくれまして。お礼にいくつか作ってくれたんです。僕は色々な国を渡り歩いて絵を描いてきましたから、旅先で出会った人からいただいたものが少しずつ増えていったんですよ」


私はシャルル様の話を聞きながら、遠い国の景色を想像した。
自分がまだ知らない世界が、シャルル様の中にはたくさんあるのだと思うと、羨ましい気持ちになる。


『素敵ですね。私、異国のお話を聞くのが好きなんです』

「それなら、これを差し上げて正解でした」

『ありがとうございます。ですが……この栞はいただけません。リーシェ様にも申し訳ないので』


シャルル様の笑みが一度止まったけど、すぐに事情を察したように静かに頷いた。


「そうですね。あなたがお気遣いになることも、よくわかります」

『ごめんなさい。せっかく選んでくださったのに』

「謝らないでください。セラお嬢様が悪いわけではありませんから」


シャルル様はそう言いながら、私の手元にある栞をじっと見つめた。


「僕自身は、誰に贈ろうと構わないと思っていたんです。けれど……リーシェ様が知れば、確かに良い気持ちはされないでしょうね。軽率な振る舞いをお許しください」

『いいえ、謝っていただくことではありません。お心遣いに感謝致します』

「それはこちらの台詞です。あなたが喜んでくださると思ったら、つい渡したくなってしまったんですよ。残念ですが、これは僕が持って帰ることにします。ですが、せめて今日描いた絵をを受け取っていただけませんか?」


シャルル様はそう言ったあと、何かを思い出したように素描帳へ視線を落とし、先程の絵を私の前に差し出した。


『ですが、これはシャルル様が描かれた大切な絵ですよね』

「ええ。だからこそ、セラお嬢様に持っていてほしいんです。この絵なら、リーシェ様が知っても何も問題はないでしょう。僕が今日、庭園で出会った方を描いた、それだけですから。それに……」


シャルル様は絵の中の私を見つめながら、柔らかく笑った。 


「この絵を描かせてもらったのは僕です。でも、そこに描かれているあなたは、あなた自身のものです。なので、受け取っていただけませんか?」


そこまで懸命にお願いされると断りにくい。
何よりこの絵を頂けることは、嬉しく思えた。


『はい、ありがとうございます』


シャルル様はほっとしたように微笑むと、紙の端を丁寧に確認した。


「ただ、このままでは持ち歩きにくいですね。素描帳から綺麗に切り離しましょう」

『そんなことまでしていただいていいんですか?』

「もちろんです。せっかく差し上げるのですから、折れたり傷んだりしないようにしたいんです」


シャルル様は持っていた小さな刃物を取り出した。
紙を傷つけないよう、何度も端を確かめながら、ゆっくりと刃を走らせていく。
その手つきは絵筆を扱う時と同じくらい丁寧で、私は息を潜めて見つめていた。
やがて紙が綺麗に切り離されると、端を指先で整えてから、両手で私に差し出した。


「どうぞ」

『ありがとうございます。この絵、大切に致しますね』

「お礼を言うのは僕の方です。僕にとっても、今日は良い一日になりましたから」


シャルル様は優しく微笑みを浮かべて、私を見つめた。


「故郷から遠く離れた場所で、何かとご苦労もおありでしょう。僕には想像することしか出来ませんが……もしご迷惑でなければ、またこちらの庭園でお目にかかれたら嬉しく思います」

『お心遣い、ありがとうございます。私も、またお会い出来たら嬉しいです』


そう答えると、シャルル様は安心したように微笑んだ。
私はエイミーと並んで歩き出し、何度か振り返りながら庭園を後にする。
腕の中には、シャルル様が描いてくださった私の姿が残っていた。
自分では気付かなかった穏やかな顔。
花を見つめていた、ほんのひとときの私。
故郷から遠く離れたこの場所でも、私の境遇をさりげなく気遣ってくれている人がいる。
その小さな出来事が、一輪の花のように優しく心に残っていた。


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