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向かいの席に座るセラ嬢はまるで夜空から舞い降りた天使のようだった。
いつもなら薄い前髪に隠れている形の良い額も、今夜はすっきりと露わになっていて、その愛らしい顔立ちがいつも以上によく見える。
伏し目になるたびに影を落とす長いまつ毛も、緊張のせいか少し潤んで見える瞳も、すっと通った鼻筋も、月明かりを受けて艶めく唇も、何もかもが淡く美しい。
選んだ白いドレスは彼女の持つ清純な雰囲気によく似合っていて、馬車の窓から差し込む月光まで重なれば、いつまでも目を逸らせなくなりそうだった。
その横顔を眺めていると、そんな僕の視線に気付いたのか、不意にセラ嬢がこちらを向いた。


『今夜はとても綺麗な夜ですね。月もこんなに明るいですし、夜会にはぴったりの夜だと思います』


そう言って微笑んだものの、その表情の奥には隠しきれない緊張が滲んでいる。
儚げな様子を目にしてしまえば、胸の奥が勝手に騒ぎ出すんだから、我ながら困ったものだ。


「そうだね。今夜なら皇宮の庭園も、きっといつも以上に綺麗に見えるんじゃないかな」

『楽しみです。総司様は夜会にはよく出席されるのですか?』

「まあ、それなりにはね。立場上、欠席できないものには出ているかな。夜会なんて僕にとっては似たような顔と話を繰り返すだけの退屈な時間だけど」


アルディオン公爵家の当主として出席することもあれば、妻たちの伴侶として振る舞わなければならないこともある。
帝国の剣と呼ばれる立場柄、顔を見せるだけで意味を持つ夜会も少なくない。
役目が変わるたびに求められる振る舞いも変わるけど、結局こういった場所から逃げるわけにはいかなかった。
でも、いつもならただ面倒なだけの夜会も、今夜ばかりは違う。
こうしてセラ嬢を隣に連れて華やかな夜会に出られることが嬉しかった。
幼い頃の僕がぼんやりと思い描いていたものが、ひとつ現実になったような気がしていた。


『それなら、夜会にはもう慣れているのですね。緊張することもないのですか?』

「緊張なんて、最初からしないよ。今さら大勢の貴族に囲まれたくらいでなんともないかな」

『そうなんですね、羨ましいです』

「セラ嬢は、さっきから随分と不安そうだけど。そんなに緊張するもの?」

『少しだけ。自分が粗相をしてしまわないか心配ではあります。言葉一つ取っても、失礼がないように気をつけなければならない気がして……』

「そんなに気を張らなくても大丈夫だよ。夜会に集まる連中なんて、結局は目に映るものと相手の肩書きくらいしか見ていないからね。少しくらい言葉を間違えたところで、誰も本気で気にしないし」


僕だって、相手と心から親しくなりたいと思って話しているわけじゃない。
公爵家の当主として必要な言葉を交わし、最低限の礼節さえ守っていれば、それで相手は満足する。
本心なんて見せなくても、貴族社会ではそれらしい微笑みと立場に見合った言葉があれば、案外どうにでもなるものだ。


『総司様は立っているだけでも素敵ですし……その、オーラというのでしょうか。さすがはアルディオン公爵家を束ねる当主様だと思わせるような威厳があります。ご自身がご立派だから、緊張されないのかもしれませんね』


思いがけない言葉に、僕は少しだけ目を瞬いた。
さらりと褒められてしまったけど、どう考えても人の目を引くのは僕じゃない。
今夜だって、馬車の中でこうして静かに座っているだけなのに、セラ嬢から目を離すのが惜しいくらいだ。


「今日は随分と褒めてくれるね。もしかして、何か買ってほしいものでもあるの?」


わざと軽い調子でそう言って、からかうように笑ってみせる。
するとセラ嬢は驚いたようにぱちりと目を瞬かせ、それから小さく笑った。


『そんなつもりではありません。ただ、本当にそう思ったんです。それなのに、そんなことを仰るなんて今夜の総司様は少し意地悪ですね』

「そうかな。僕はいつもこんな感じだと思うけど?」

『そう言われると、いつも意地悪をしている人みたいに聞こえてしまいますよ』


くすくすと笑う彼女を見ながら、僕もつられて口元を緩めた。
さっきまで張り詰めていた表情が柔らかくなっている。
少なくとも僕の隣にいる間だけは、余計なことを考えずに笑っていて欲しかった。


「それは心外だな。でも冗談抜きで、欲しいものがあるならお兄さんに言ってごらん」

『ふふ、お兄さん?』

「なんで笑うのかな。君より年上なんだし、お兄さんで問題ないと思うよ。それで、何が欲しいの?何かひとつくらいあるでしょ?」

『本当によろしいのですか?』

「うん。いいよ」


最初は、ほんの軽い冗談のつもりだった。
けれど、セラ嬢はそれ以上笑わず、じっと僕を見つめている。
いつもなら贈り物ひとつにも遠慮してしまう彼女が、自分から欲しいものを口にしようとしているのだから、少しくらい無理を言われても構わないと思った。

一体何を欲しがるんだろう。
そう考えながら待っていると、彼女は膝の上でそっと指を重ね、どこか照れくさそうに僕を見上げた。


『ですが……やっぱり申し訳ないので、やめておきます』

「なんでさ。そこまで言ったんだから、ちゃんと教えてよ」

『でも、とても高価なものだと思うのです。もしかしたら、手に入れるのも大変かもしれませんし……』

「僕を誰だと思ってるのさ。君が欲しいって言うならどんなものでも用意するよ」 
  

その言葉を聞いて、彼女の碧眼がより大きく見開かれた。


『本当にどんなものでも、ですか?』

「うん。僕は欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れる性分だからね」


実際、僕はこうして二度と言葉を交わせないとすら思っていたこの子のことを、僕の隣に連れて来た。
そんなセラ嬢のためなら尚のこと、どんなものでも用意したい。
そう考えながら迷いなく頷くと、セラ嬢は照れた様子で首を傾げながら頬にかかる髪を耳にかけた。


『どんなものでも手に入れられるなんて、総司様は凄いですね』

「でしょ。だから言ってよ」

『ですが……私が欲しいものは世界にひとつしかないものなんです』

「え?」


思わず、間の抜けた声が出た。
世界にひとつしかないもの。
それはさすがに、簡単には手に入らないだろう。
宝石や名画の類なら、どれほど高価でも探し出す方法はある。
でも世界にひとつしかないとなれば話は別だ。
しかも僕は、何でも用意できるような口を利いてしまった。
今さら「それは無理だね」なんて言うのも格好がつかないし、しばらく黙って考えてから、僕は仕方なく笑った。


「そうなんだ。出来る限り用意できるように頑張るけど、君は何が欲しいの?」


するとセラ嬢は黙ったまま窓の外に視線を向けるから、僕もつられて同じ方向を見る。
馬車の窓からは、雲ひとつない夜空が見えていた。
深い藍色の空には無数の星が散り、その中央には月が綺麗に輝いている。
セラ嬢はいたずらを隠している子供のような表情でこちらを見つめると、夜空を指差しながら可愛らしい願いを口にした。


『あの夜空に浮かぶ月が欲しいです』


その言葉を聞いて、僕はぽかんとしてセラ嬢を見つめた。
まさかそんなものが出てくるとは、さすがに予想していなかった。
セラ嬢はどうやら、最初から僕をからかうつもりだったらしい。
さっきまで緊張していたとは思えないほど、その瞳にはいまだに悪戯っぽい光が宿っている。


「なるほどね。僕がどんなものでも用意するなんて言ったから、困らせようとしたの?」

『少しだけ、そうかもしれません』

「それで、本当に欲しいものは?」

『欲しいものなんて、月以外にはありませんよ』


堂々と告げるセラ嬢に苦笑いをしてみせれば、隠しきれなくなったのか、彼女は口元を押さえて笑った。
僕は呆れたように息を吐きながらも、そんな彼女を責める気にはなれなかった。
むしろ、今見せてくれた無邪気な笑顔が嬉しくて、心に温かさが広がっていく。
やがて僕の口からもふっと笑いがこぼれた。


「あーあ、酷いな。僕は真面目に聞いてたのにさ」

『さすがに総司様でも、月を用意することは難しいのですね』

「どうかな。僕はどんなものでも用意するって言っちゃったからね。約束を破るのも格好悪いし、あの月を捕まえてこようか」

『ふふ、どうやって?』

「長いロープでも用意して、月にくくりつけて、それを思いきり引っ張ってみる?うまくいけば、夜空から落ちてきてくれるかもしれないよ」


そう言って、僕は窓の外に浮かぶ月を見上げた。
もちろん、本当にそんなことができるなんて思っていない。
でもこうして他愛のない話で笑い合えるのは、昔の僕達に戻ったようで心地良かった。


「それとも、梯子を用意してみようか。あれだけ高いと、かなり長いものが必要になりそうだけど……僕ひとりじゃ無理だね。君にも手伝ってもらおうかな」

『梯子で月まで行けるのなら、私は月に住みたいです』

「ははっ、なんか要望が大きくなってるけど」

『総司様が子供の頃に見せてくださった、月の王女さまのお話、覚えていますか?月に行けば、あの王女さまに会えるかもしれませんよ』


ああ……そういえばそんな本があった。
子供の頃、大好きで何度も何度も読み返していた話。
優しくて温かい、月の王女さまの物語を数年振りに思い出した。
自分の中の淋しさや不安を少しでも癒したくて、あの本の挿絵に書かれた王女を縋るように見つめていた幼い日の僕は、その王女にどこか似ていたセラ嬢に出会い、この子に恋をした。
引き離されたあの日、アストリアに置いてきてしまったきり、あの本を見ていない。
そんなどこか切なく苦しい記憶を辿っていると、セラ嬢が僕の顔を覗き込んできた。


『総司様?』


あの後、あの本はどうなったんだろう。
僕のことを忘れたい、思い出したくないと思っていたんだから、もうとっくに捨てられちゃってるのかな。


「うん、覚えてるよ。懐かしいね」

『はい。でも私、あのお話が大好きで、大きくなってからもたまに読んだりしていましたよ』

「え?捨ててないの?」


思わずそう尋ねてしまうと、彼女は少し悲しそうに眉を下げた。


『捨ててません。それにあれは総司様の絵本だったのに、お返し出来ないままになってしまっていて申し訳ありません』

「別にそれはいいよ。もう絵本なんて読む年でもないしね。ただ、意外かな。とっくに捨てられてると思ってたから」

『あの本を読むと、総司様と過ごした子供の頃を思い出すんです。だから捨てるなんて考えたこともありませんでしたよ』


あの本は、僕にとってセラ嬢との思い出そのものだ。
そして、きっと彼女にとっても同じものだったはずだ。
だからこそ、僕を遠ざけようとした彼女なら、僕を思い出すものも一緒に手放してしまったのだろうと考えるのは当然だ。
だけど今の言葉が真実なら、僕がいなくなった後も、あの本はセラ嬢の手元に残っていた。
そのことを嬉しいと思ってしまう自分と、そんな期待をしてしまう自分を戒める気持ちが静かにぶつかり合う。
複雑な心境になり一度黙ると、セラ嬢が柔らかい声で再び話しかけてきた。


『もし良かったら、今度また一緒にあの絵本を読みませんか?』

「いいけど、売ってるかな。あれは僕の祖母が残してくれたものらしくて、だいぶ古い本みたいなんだよね。書店でも一度も見かけたことないけど」

『大丈夫です。私、持ってますから』


セラ嬢が嬉しそうに言った言葉に、僕は言葉より先に自分の目を見開いてしまった。


「……え?持ってるって?」

『アストリアを出る時に、帝国に持ってきた箱がありましたでしょう?あの絵本もあの箱の中に入ってるんです』


蘇るあの夜の記憶。
僕が彼女を無理やり連れ出したあの日、セラ嬢は上品な生成り色の布で覆われた収納箱を、大切な宝物を抱えるようにして胸元に抱いていた。
女性の私物だから中まで改めることはしなかったけど、あの箱には大切な思い出が入っているのだと、彼女自身が話していたことだけは覚えている。

でもまさか、あの本まで入っていたなんて。
僕は思わずセラ嬢の顔を見つめた。
あの頃の彼女は、僕を心から嫌っていたはずだ。
学院に潜入した時に見た彼女は、僕と過ごした昔の記憶さえ、出来ることなら全部消してしまいたいと思っているように見えた。
それなのに、どうしてあの本を手放さなかったのだろう。
あの箱に収めるほど大切にして、遠い帝国まで持ってきたのは、いったい何故なのか。
喉元まで問いが込み上げたけど、結局その疑問を口にすることは出来なかった。


『本当はもっと早くお返ししないといけなかったんですが、なんとなくお渡ししにくくて』

「それはどうして?」

『帝国に向かう馬車の中で、総司様は昔の話はしたくないと仰っていましたから』


そう言って、彼女は僕から視線を逸らすように少しだけ顔を俯かせた。
胸の奥に、あの夜の光景が蘇る。
馬車の中で、彼女と向き合いながら、傷つくことを恐れていた自分。
込み上げてくる感情を悟られまいと、必要以上に冷たい言葉を選んでいた。
あの時の僕には余裕なんてなかったし、目の前にいる彼女を見れば、長い間抱えていた想いが溢れてしまいそうだった。
だから昔のことなんて忘れたような顔をして、彼女にもそう思わせようとした。


「あれは別に、悪い意味じゃないよ」


そう言ってから、僕はセラ嬢の表情を窺うように笑った。


「ただ、あの時は状況が状況だったし、僕も立場柄色々複雑でさ。でもこうして昔のことを話すのも、案外悪くないものだね」

『はい。今は総司様とこうして笑って昔の話を出来るようになりました。だから嬉しくて……つい絵本の話をしてしまいました』


嬉しいなんて、そんなこと思ってないくせに。
僕のことを思い出したくないと言っていたのは、君の方だったんだから。
なんて……そんな悪態をつく一方で、どうしようもなくその言葉を嬉しく思ってしまう僕がいる。
目の前で嬉しそうに微笑むセラ嬢を見ていると、その笑顔さえ愛おしくて、胸の奥に隠していた欲が静かに疼いた。
早くこの子を正式に僕のものにしたい。
誰にも奪われないように。
誰にも傷つけられないように。
僕の手の届かない場所に行ってしまわないように、僕が何に代えても護るから。


「じゃあ、今度一緒に読もうか」

『はい。楽しみにしています』


嬉しそうに返ってきた声に、僕も笑った。
ただ絵本を一冊、一緒に読む。
それだけのことなのに、とても大切な約束のように感じられた。

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