5

皇宮に到着すると、僕は先に馬車から降り、続いて降りてきたセラ嬢に手を差し出した。  


「足元、気をつけて」

『ありがとうございます、総司様』


皇宮にはすでに数え切れないほどの馬車が並んでいる。
僕は彼女の歩調に合わせて大階段を上って行き、そんな僕達の背後からは妻たちの足音が続いていた。
大階段を上り終えると、皇宮の大広間に続く扉が見えてくる。
扉の両脇には近衛騎士達が来訪する貴族たちの姿を静かに見守り、その先からは弦楽器の優雅な音色が絶え間なく流れていた。


『とても立派ですね……』

「緊張しないで、いつも通りでいればいいよ。何かあれば僕が対応するから」

『はい。ありがとうございます』


大広間の扉が開かれると、煌びやかな光が一斉に視界へ飛び込んできた。
無数の燭台に灯された蝋燭が大広間を照らし、磨き上げられた床には天井から吊るされた巨大なシャンデリアの光が揺れている。
壁際には各家の紋章をあしらった旗が飾られ、広間の中央ではすでに何組もの貴族が談笑していた。
でも僕たちが姿を現した途端、周囲の空気が僅かに変わった。
一人が振り返れば、それにつられるように別の人間も僕達を見る。
やがて幾つもの視線が集まり、近くで交わされていた会話まで一度途切れた。

彼女の手を取ったまま大広間を進んでいると、次第にセラ嬢へ向けられる視線が増えていくのが分かった。
窓際で談笑していた若い令息のひとりが、彼女の姿を目にした途端、言葉を失ったように口を閉ざした。
その瞳は驚いたように揺れ、それから吸い寄せられるようにセラ嬢の姿を追っている。
別の男は手にしたグラスを口元まで運んだまま動きを止め、彼女の横顔に釘付けになっていた。
さらに少し先では、また別の若い令息がこちらを見つめながら頬を赤らめ、視線を逸らしたかと思えば、再びこちらを窺っている。

セラ嬢がこうして目を惹くことは昔から分かっていることだ。
とは言え、こうして何人もの男が彼女を目で追い、その顔に分かりやすい感情を浮かべているのを見ると、どうしたって苛立ちが積もっていく。
僕はそれを悟られないよう、笑みを浮かべたまま何気なく周囲を見回した。
そして彼女に視線を注いでいた若い令息のひとりと目が合ったから、その一瞬だけ笑みを消した。
冷えた視線を向けるだけで、その男の顔から血の気が引き、気まずそうに視線を逸らす。
その隣にいた男も、何かを察したように慌てて別の方向を向いた。

千、ニコラ、リーシェの三人は、それぞれ周囲の貴族たちから声をかけられ、挨拶を交わしている。
僕はそんな三人に視線を向けると、柔らかい口調で告げた。


「僕とセラ嬢は陛下に挨拶に行くから、後はよろしくね」

「わかったわ」


三人が微笑んだのを確認し、僕はセラ嬢を伴って再び歩き出した。
大広間の奥には、皇帝陛下のために設けられた一段高い場所がある。
その周囲には近衛騎士が控え、僕は陛下の前まで歩み寄るとセラ嬢と共に礼を取った。


「陛下、ご機嫌麗しゅうございます。今宵はお招きいただき、ありがとうございます」

『陛下、お目にかかれて光栄でございます』

「うむ。よく来たな、総司。それにセラ嬢よ。今宵は随分と華やかな装いだ」


陛下は穏やかに頷き、僕達を見比べるように視線を動かされた。
僕が返事をしようとした時、陛下がふと思い出したように口元を緩める。


「そういえば、まだ話していなかったな。隣国に滞在していたオスカーが、先日ようやく戻ってきたのだ。総司も久しぶりに顔を合わせておきなさい。それに、セラ嬢にも紹介しておこう」


陛下がそう仰ると、傍に控えていた侍従が一礼し、広間の人波の中に姿を消した。
ほどなくして、遠くからひとりの青年がこちらに歩いてくるのが見えた。
隣国で長く過ごしていた皇太子、オスカー殿下だった。
端正な顔立ちには柔らかな笑みが浮かび、その物腰には穏やかで落ち着いた雰囲気がある。周囲の者たちも殿下の姿を認めると、自然と道を譲り、恭しく頭を下げていく。
僕は殿下が目の前まで来ると、丁寧に一礼した。


「お久しぶりでございます、殿下。ご無事のお帰り、何よりでございます」

「久しぶりだね、総司。元気そうで安心したよ」

「はい。殿下もお変わりないようで、安心いたしました。隣国でのお務めはいかがでしたか?」

「色々と学ぶことが多かったよ。長く帝都を離れていたから、こうして戻ってくると懐かしい気持ちになるね」

「それは何よりです。陛下も殿下がお戻りになったことを、さぞお喜びでしょう」

「うん。私も父上にお会い出来て嬉しいよ」


殿下はそう言って、柔らかく微笑んだ。
昔から変わらない。
人当たりがよく、物腰も穏やかで、相手を緊張させるようなところがない。
誰かと話す時も決して急かさず、相手の言葉を静かに受け止める。
皇太子としては、申し分のない人柄なのだろう。

ただ、次の皇帝になるには些か優し過ぎる気がする。
帝国を背負う立場になれば、誰かの願いを退けなければならないこともあるし、国を守るために、誰かから恨まれる決断をしなければならない時もあるだろう。
その時、この優しさが弱さにならなければいいけど。
僕は殿下を眺めながらいつもの笑みを浮かべていると、陛下が隣に立つセラ嬢を見て声をかけた。


「オスカー、こちらがセラ嬢だ。アストリアから来ていることは、お前も知っているだろう」

「もちろん存じています」


殿下がセラ嬢に視線を向ける。
セラ嬢は僅かに緊張した様子を見せながらも、すぐに姿勢を正し、皇太子に対する礼を取った。


『初めまして、オスカー殿下。セラと申します。お目にかかれて光栄でございます』

「初めまして、セラ嬢。私もあなたに会えることを楽しみにしていたよ」


殿下は穏やかに微笑むと、しばらく彼女の姿を見つめた後、少しばかり目を細める。


「噂では聞いていたけれど、本当に美しい方だね」


その言葉に、セラ嬢はほんの少し頬を赤らめたものの、すぐに控えめな笑みを浮かべる。


『ありがとうございます。殿下にそう仰っていただけるとは、恐縮です』


それだけを静かに返して、彼女は再び頭を下げる。
そんなセラ嬢らしい慎ましい受け答えを、僕は隣で黙って見ていた。


「隣国にいた私のところにも、君の話は届いていたよ。東部アストリアとの条約に関わる大切な来賓だと聞いている」

『私に出来ることは多くありませんが、両国のためになるのでしたら、嬉しく思います』

「そうか。とても立派な考えだね。帝国での暮らしには、もう慣れたかな?」

『まだ学ぶべきことも多くございますが、親切にしてくださる方々のお陰で慣れてまいりました。毎日、穏やかに過ごせています』

「そうか。それならよかった」

『はい。帝国の皆様には温かく迎えて頂き、日々感謝しております』


セラ嬢は控えめに微笑んだ。
殿下はそんなセラ嬢をしばらく見つめてから、穏やかに微笑まれた。


「君は、帝国に身を置いてから色々と大変だったと聞いている。けれど、こうして実際に会ってみると、思っていたよりずっと落ち着いているんだね」

『ありがとうございます。……ですが、落ち着いているように見えているだけかもしれません』

「そうなのかい?」

『はい。まだまだ至らないところが多く、日々失礼がないようにしなくてはと思っています』


そう言って、セラ嬢は少し恥ずかしそうに笑った。
その返しに、殿下も思わず笑みを深める。


「なるほど。正直な方なんだね。セラ嬢とは、もう少し話してみたいな。アストリアのことも、機会があれば聞かせてほしい」

『私でよろしければ、是非。知っていることでしたらお話しさせていただきます』

「ありがとう」

『こちらこそ、お声をかけていただいてありがとうございます』


それだけ言って、セラ嬢は再び小さく礼をした。


「殿下、お戻りになったばかりでございますから、今宵はご挨拶を望まれる方も多いでしょう。僕達は一度、失礼いたします」

「そうだね。総司とも、またゆっくり話したいと思っているよ」

「はい。その折を楽しみにしております」


殿下は穏やかに笑い、それからセラ嬢にも一度視線を向けた。


「今夜はゆっくり楽しんでいってね、セラ嬢」

『はい。ありがとうございます、殿下』


殿下に一礼し、僕はセラ嬢と共にその場を離れた。
歩き出してから隣を見ると、セラ嬢はまだ少し緊張した面持ちで、静かに前を見つめていた。


「お疲れ様」


そう声をかけると、目をぱちりと瞬いたセラ嬢が、ふわりと笑った。
こうして改めて眺めると、今夜の彼女はいつも以上にとても綺麗だ。
白と碧色のドレスも、今夜のために整えられた髪も、彼女の柔らかな雰囲気によく似合っている。
いつもより大人びて見えるのに、笑うといつもの彼女らしい幼さが覗く。
その姿から目を逸らしたくないと思ってしまう自分を、僕は内心で苦笑した。

僕が彼女にシャンパンの入ったグラスを差し出した、その直後から、別の家の者たちが次々と挨拶に訪れた。
東部からただ一人、皇帝陛下のお招きで姿を見せた令嬢という珍しさもあるのだろう。
僕の隣にいる彼女と一言でも言葉を交わそうとする人間は途切れることがなく、僕はそのたびに同じような紹介を繰り返すことになった。


「公爵閣下、ご無沙汰しております。今夜は随分とお美しい方をお連れになっておりますね。こちらが東部からいらしたご令嬢でいらっしゃいますか?」

「そうですよ。今夜は皇帝陛下のお招きで出席しています。こちらはセラ嬢。東部アストリア家のご息女ですよ」


僕が紹介すると、セラ嬢は小さく会釈をして、控えめながらも感じの良い笑みを浮かべた。


『初めまして。セラと申します。今夜はお目にかかれて嬉しく思います』


その仕草も、可憐な微笑みも、どうしたって人の目を引く。
案の定、目の前の男は一瞬言葉を忘れたように瞬きをして、それから僅かに頬を染めた。
まったく、今日だけで何度この光景を見ただろう。
僕としては、いい加減うんざりしている。
彼女が愛らしいことは、僕が誰よりもわかっている。
とは言え、彼女が微笑むたびに男たちが嬉しそうな顔をするのを見ると、どうにも気分が悪くなる。


「公爵閣下、少しお話をよろしいでしょうか。セラ嬢は、いつまでアルディオン公爵家に滞在されるのでしょうか?」


そう思っていた矢先、また別の令息が僕たちの前に立った。
公爵の爵位を持つこの男は、帝都の社交界では女性関係の華やかさでも知られている。
僕がまだ適当に遊んでいた頃には、気が合いそうだと言ってこの男から何度か話しかけてきたこともあった。


「まだ正式には決まっていないですよ」

「そうでしたか。それでしたら、どうか我が公爵家を候補の一つとしてお考えいただけませんでしょうか。もし陛下のお許しが得られるのであれば、セラ嬢を我が家の正妻として正式にお迎えし、東部からいらした大切な方に相応しい暮らしを整えたいと考えております」


男はそう言いながら、ちらりとセラ嬢を見た。
その視線には、単なる好奇心とは違うものが混じっている。
彼女もその意味を測りかねたのか、僅かに目を瞬かせた。


『私を……ですか?』

「失礼いたしました。突然このようなお話を差し上げるのは無作法かもしれませんね。ただ、我が家としては、もしそのような機会を許していただけるのであれば、セラ嬢を心から大切な方としてお迎えしたいと思っております。東部から遠く離れた帝都で、不自由や寂しさを感じることがないよう、できる限りのおもてなしをさせていただきたいのです」


男はあくまで穏やかに、そして慎重に言葉を選んでいた。
けれど、いきなり自分の将来に関わる話をされて、セラ嬢の瞳が不安そうに揺れている。
それでも彼女は、相手の好意を無下にしないようにと、懸命に笑顔を浮かべていた。
その健気な様子を見ていると、再び苛立ちが広がっていく。
僕がそれを顔に出さずに済んでいるのは、これまで散々、表情を取り繕うことに慣れてきたからだろう。


「ありがたい申し出ですが、残念ながら僕やセラ嬢の一存で決められることではないんですよ。セラ嬢は帝国が預かっている東部の客人ですから、正式な処遇については、陛下のお考えを踏まえて決められることになりますよ」

「もちろん、その点は承知しております。だからこそ、今夜この場でお返事をいただこうとは思っておりません。ただ東部との関係を考えれば、セラ嬢の今後は単なる縁談として扱うべきものではないでしょう。両国の信頼を形にする機会にもなり得ますし、何より、これほど立派な家柄のご令嬢をお預かりするのであれば、それに相応しい身分と待遇を用意するのが我が家の責務だと考えております」

「でも、そういう話ならなおさら、僕のところで決めるわけにはいかないでしょう?君の家だけでなく、陛下にも、東部にも関わることですからね」

「仰る通りです。ですから、公爵閣下のお力添えをいただければと思っております」

「僕の?」

「ええ。セラ嬢を最も近くで見ておられるのは閣下です。彼女がどのような方なのか、我々よりよくご存じでしょう。もし我が家との縁組が相応しいとお考えいただけるなら、陛下にもその旨をお伝えいただければと」


僕に彼女の縁談を推薦させるなんて、随分と巧妙な頼み方をするものだ。
昔何度か酒を酌み交わしただけなのに図々しい。
僕は笑ったまま、あっさりと断った。


「それはできかねますね」

「……何か、ご不都合でも?」

「僕が預かっている客人について、僕自身が特定の家を推すのは公平じゃないでしょう。君の家だけを特別扱いしたと思われたら、他の家にも申し訳ないですから。でもその気持ちはありがたく受け取っておきますよ。ね、セラ嬢」


そう言って彼女に話を向けると、セラ嬢も素直に頷き、礼を告げて小さく頭を下げた。
これ以上は踏み込めないと悟ったのか、男もそれ以上何かを尋ねることなく、一礼して人の輪へと戻っていく。
その背中を見送っていると、隣から控えめな声がした。


『総司様、いろいろと助けてくださり、ありがとうございました』

「僕は別に、何もしてないよ。いきなり今後の身の置き場についてまで話されたんだから、君の方が驚いたんじゃない?」

『はい。でも、私のことを丁寧に考えてくださるお気持ちは、とてもありがたいことですよね』

「君はそういうところ、本当に律儀だよね」


僕は軽く笑いながら、セラ嬢が手にしているグラスに視線を落すと、中身がすっかり空になっていた。
彼女がそれだけ緊張していた証拠なんだろう。
その顔を見ると、先ほどより頬がほんのり紅く染まり、無防備なその横顔に胸が疼いた。


「今夜言われたことは、あまり気にしなくていいよ。周りがいくら騒いだところで、そんなことで君の処遇が決まるわけじゃないからさ」

『……はい』

「今夜は夜会そのものを楽しんでおけばいいよ」

『そうですね。せっかく総司様が連れてきてくださったのですから、ちゃんと楽しみたいです』


そう言って彼女が微笑んだ時、広間の奥から静かな楽器の音が流れ始めた。
それまで談笑していた人々の声が少しずつ落ち着き、広間の中央に視線が集まっていく。
楽団が次の曲の準備を整えたらしい。
やがて弦楽器の柔らかな旋律が重なり、優雅なワルツの調べが広間いっぱいに広がった。
彼女も音楽に気づいたらしく、少し驚いたように楽団の方を見ている。


『ワルツが始まるのですね』

「そうみたいだね」


そう答えてから、僕は周囲を見渡した。
すでに何人もの令息が令嬢を誘っている。
当然、セラ嬢のもとにも声をかける者は溢れるほど出てくるだろう。
それなら、その前に僕が申し込んでしまった方がいい。
セラ嬢の預かり先の人間である僕が最初の一曲を申し込むのは、客人を気遣う意味でもごく自然なことだ。
何より、他の男と踊る姿なんて見たくなかった。
この子が誰かの腕に身を預け、嬉しそうに微笑むところなんて、想像するだけでも胸の奥が妙にざわつく。
できることなら、この愛らしい笑顔も、澄んだ眼差しも、僕だけに向けていてほしい。


「セラ嬢」


僕は彼女の前に立つと、丁寧に腰を折り、手を差し出す。


「もし君さえよければ、僕と最初の一曲を踊って頂けませんか?」


ずっと昔から待ち続けていた瞬間が、ようやく訪れたことにひどく心が騒いでいる。
幼い頃、初めて夜会の舞踏を見た時から、いつか大人になった僕たちが綺麗に着飾って、こうして二人でワルツを踊れたらと思っていた。
あの頃は、それがいつか当然のように叶うものだと疑いもしなかった。
けれど、時が経つにつれて、そんな未来を思い描くことさえ諦めなければならない日々もあった。
だから今、目の前にいる彼女を見ていると、心が満たされていく。
たとえ、僕が幼い頃に思い描いていた未来とは違っていても構わない。
こうして同じ夜会に立ち、僕から彼女に手を差し出して、その手を取ってもらえる。
それだけで、十分すぎるほど嬉しかった。
何よりセラ嬢が頬をほんのり染めながら、嬉しそうに微笑んでくれたことが、たまらなく愛おしい。


『はい、ぜひご一緒させてください。総司様とでしたら、私も嬉しいです』


そう答えて、彼女は僕の手にそっと指を重ねた。
そのくせ、少しだけ不安そうに僕を見上げる。


『……ただ、私でよろしいのでしょうか?』


僕の手を取ってくれたばかりだというのに、そんなことを気にしているらしい。
思わず、くすりと笑ってしまった。


「もちろんだよ。せっかくこんなに綺麗に着飾ったんだから、僕にも君の姿を近くで楽しませてほしいんだけど?」


少しばかり冗談めかして告げると、彼女は恥ずかしそうに目を伏せ、それから困ったように、それでも嬉しさを隠しきれないような笑みを浮かべた。


『もう……総司様は、そうやって私を困らせることを仰るのが上手ですね。でも、ありがとうございます。総司様と踊れることを楽しみにしています』


その言葉に、心がまた大きく揺れる。
危うく、僕まで嬉しいと思う感情を正直に顔に出してしまいそうになった。


「それなら良かった。じゃあ、行こうか」


僕は何食わぬ顔で微笑み、彼女の手を支えるようにして舞踏の輪に歩き出す。
今夜だけは、この手を離したくない。
触れた指先に熱が灯るのを感じながら、僕を見上げる彼女に微笑みを向けた。

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