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『総司様、エスコートどうもありがとうございました。ここからはもう大丈夫です、奥様方のところに行かれてください』


今日は一日、私のエスコートをすると以前総司様は仰ってくださっていた。
でも夫婦でもない私達が連続して相手を変えずにワルツを踊ることは出来ないし、大方挨拶周りも済んでいる。
ここからは、公爵家の方々のお手を煩わせたくはなかったから告げた言葉だった。


「駄目だよ。前にも言ったでしょ?今日は君をエスコートする役割でここに来てるんだから、僕はこのまま君の傍にいるよ」

『ですが、それでは奥様方とワルツが踊れなくなってしまいますよ』

「今まで散々踊ってきてるんだから、今夜くらい踊れなくても平気だよ。それに、三人にも今夜は君を優先するって話してあるから、ちゃんと分かってるはずだよ」


総司様のお立場を思えば、私から目を離した隙に何かあれば、任された総司様の責任になってしまうのだろう。
だからこそ、こうして傍にいてくださることを思えば無理を言うわけにもいかないけど、先ほどの千様の冷たい視線を思い出すと、胸の奥には何ともいえない重苦しさが残って、私はどう返事をしようかと迷っていた。
けれどその時、私達の前に一人の男性が足を止めた。


「総司殿、お久しぶりです」


声に顔を上げると、そこには月明かりを思わせる銀髪の男性が立っていた。
整った顔立ちに柔らかな笑みを浮かべながら、彼は私達に向かって美しい所作で一礼すると、総司様がわずかに目を見開いた。


「メルディック殿。お久しぶりですね。殿下と一緒にご帰国なさったんですか?」

「ええ、そうなんですよ。総司殿にはぜひご挨拶したいと思っておりましたので、お会いできて嬉しいです」


穏やかに微笑んだ彼は、今度は私に向き直ると、丁寧に名乗ってくださった。
メルディック様は、帝国を支える名門公爵家の一つ、アシアン公爵家の嫡男なのだという。
皇太子殿下と同じく南部にある名門の学院で公益政策、財政、交易、法制度などを学び、つい先日帰国されたとのことだった。
総司様と同じく、公爵家を背負う立場にありながら、その役目は少しばかり違っていた。
騎士として帝国の剣を担う総司様に対し、メルディック様は公爵家の政務を取り仕切り、諸外国との条約や交易に関する交渉、貴族間の利害調整などにも携わっているらしい。
若くしてその才を認められ、皇宮でも外交や法に関する会議に呼ばれることが多いのだと、総司様が教えてくださった。
その話を聞いていると、剣で帝国を支える総司様と並んで、メルディック様の頭脳もまた帝国を支えているのだろうと分かる。


「今夜、こうしてお会いできたのも何かの縁でしょう。セラ嬢、もしご迷惑でなければ、一曲お相手をお願いしてもよろしいでしょうか?もちろん、総司殿の許可をいただいてからと思っております」


思いがけない申し出に私は思わず目を瞬く。
メルディック様が総司様を見つめたから、私もつられるように総司様を見上げた。
総司様は何も言わず、メルディック様をじっと見つめている。
その表情はいつもの柔らかな笑みとは少し違っていて、何かを考えているようにも見えた。
やがて総司様は小さく息を吐くと、静かに口を開いた。


「まあいいか。行っておいで。僕はここで見てるから」

『本当に、よろしいのですか?』

「うん。君がこれから帝国で過ごしていくことを考えれば、彼とは今のうちに知り合っておいたほうがいいからね」


そう言って笑う総司様に、私はほっと胸を撫で下ろした。


「それでは、参りましょうか。セラ嬢」

『ありがとうございます』


メルディック様に向き直ると、彼は静かに手を差し出してくれた。
華やかな旋律が広間いっぱいに広がる中、メルディック様に導かれて一歩を踏み出すと、先ほどまでとは違う緊張が胸の奥に生まれていった。
ふと振り返ると、総司様は少し離れた場所に立ったまま、こちらを見つめている。
その姿を確かめてから、私は小さく息を整え、ワルツの輪の中へと身を預けた。

最初は帝都の街並み、南部の気候など、ごくありふれた社交の会話だった。
誰が耳にしても不自然ではない話題ばかり。
けれど幾度目かの旋回で周囲との距離が少し開いた刹那、彼は笑みを崩さないまま静かに声を落とした。


「以前、僕は東部に滞在していたことがありまして。その折に、アストリアやルヴァン王国のことも少しばかり知る機会があったんですよ。まさか帝国で、こうしてセラ嬢にお目にかかることになるとは思っておりませんでしたが」

『東部にいらしたことがあるのですか?』

「ええ。南部で学んでいた頃に東部に留学する機会があり、ニ年程滞在しておりました。その時に、親しくさせていただいたのが薫殿下だったんです。彼とは今でも時折、手紙を交わしているんですよ」


そう話すメルディック様の表情には、旧友を懐かしむような親しみがあったけど、私の心臓は揺れ動く。
きっと彼が私に話しかけてきたのは、偶然ではないと悟ってしまったから。
彼はすぐに柔らかく瞳を細め、より小さい声で呟くように話し始めた。


「突然、このようなお話をするご無礼をお許しください。私は薫殿下とは旧知の間柄でして、今回この夜会に参りましたのも、殿下からあなたのご様子をこの目で確かめてきてほしいと、頼まれたためなのです」


その言葉を聞いて、私の鼓動は早くなる。
薫様がどれほど私を案じ、メルディック様の協力を仰いでまで、私の近況を知り、守ろうとしてくれているのかを想うと、心は温かくなると同時に苦しくもなった。


「手短かにお伝えしたいこともありますので、どうかその内容に驚かれても表情だけは変えられませんよう、気をつけていただければと思います」


私はその言葉の意図がわかったからこそ、なるべく自然な笑みを作り頷いた。


「殿下は、あなた様のお暮らしを案じておられます。現在は、不当な扱いは受けておられませんか?」

『はい。とてもよくしていただいております。総司様もお気遣いくださっていますし、その点に関しては、どうか安心してくださいとお伝えいただけますか?』


私がそう答えると、メルディック様の口元に、ほんのわずかに苦笑めいたものが浮かんだ。


「そうですか。恐らくセラ嬢は、そのようにお答えになるだろうと、殿下も仰っておりました」


その声音には、私の返答をあらかじめ見透かしていたような響きがあったけど、メルディック様は歩調を少しも乱さず、私を優雅に導きながら言葉を続けた。


「講和条約では、アストリアが誠実に条約を履行していることを見極めた後、あなたの処遇を決めると皇帝陛下は仰っております。そのご判断自体に、不自然な点はございません。ですが、その一方で、東部に赴いた北部の使者たちが、本来の外交とは無関係なことまで調べていた形跡が見つかりました」 

『無関係なこと……?』


思わず問い返すと、メルディック様は私の顔を静かに見つめたまま、落ち着いた声音で続けられた。


「政略結婚を見据え、家格や教養を調べることなら理解できます。しかし、調査を進めるうちに、今回の講和に関する情報収集とは別に、何年にもわたり、断続的にアストリアの様子を探っていた形跡が見つかっています。調べていたのは政情だけではございません。公爵家の近況、あなたがどこに外出なさるのか、どなたと親しくされているのか、縁談の話があるのか……そのような私的なことまで、です。一人の令嬢の暮らしを、そこまで詳しく調べる必要があるのかと、殿下は不審に思っておられます」

『北部の使者というのは、どちらの家が関わっているのかわかったのですか?』

「いいえ。詳細までは判別できなかったようです。直近のものは帝国から派遣された使者だったようですが、なにせ五年以上前から聞き込みをしていた者がいたらしいので」

『そんな前から……』


思わずこぼれた声に、自分でもわかるほど不安が滲んだ。
まだ私がアストリアで家族と暮らし、何の疑いもなく日々を過ごしていた頃から、誰かが私の暮らしを探っていたというのだろうか。
そう考えると、胸の奥がひやりと冷たくなる。


「そして、もう一つ不審な点があります」


メルディック様の声に、私は顔を上げた。


「人質となった高位貴族は、通常であれば宮廷、あるいは皇族に近い離宮で保護されます。少なくとも、一武門の公爵家に預けられる例は、我々が知る限り前例がございません。しかも、そのお相手がアルディオン公爵家……皇帝陛下の甥君が当主を務める家です」


私は何を疑問に思われているのか理解できず、わずかに首を傾げた。
総司様が私を守る役目を任されていることを、私は今まで不自然に思ったことなどなかった。
むしろ、傷ついた私を何度も気遣い、食事のことまで心配してくださる総司様の存在に、どれほど救われてきたかわからない。
だからこそ、メルディック様が次に口にされた言葉は、思いもよらないものだった。


「殿下は今回の件には、政治だけではなく、誰かの私情が混じっているのではないかとお考えです」

『え……まさか……その方というのは……』


声が震えそうになり、私は慌てて唇を結んだ。
メルディック様はそんな私の様子を見ながらも、静かに言葉を続けた。


「殿下がお疑いなのは、あなたを最も近くで守ることを許されている方です。その方との婚約が破棄されてから、あなたの私生活が探られはじめたらしいのです。その歳月を考えれば、そう推測するのが最も自然ではないかと。もちろん、現時点では、それだけで何かを断定することはできません。あくまで殿下がお持ちになっている疑念の一つです」


何も言葉が出てこなかった。
そんなことがあるはずがない、そう思いたかった。
総司様が私の知らないところでアストリアのことを調べさせていたなんて。
ましてや、私の暮らしや人間関係まで探らせていたなんて、どうしても信じられなかった。
なぜなら、打ち解けてからの総司様はいつだって私に優しかった。
私が傷つけば気遣ってくださり、食事を残せば体調を心配してくださった。
庭園を散歩するときも、私が疲れていないかとさりげなく歩調を合わせてくださる。
そんな方が、私の知らないところでは別の顔を見せていたなどと、どうして考えられるだろう。

でもそう考えていた時、不意に誰かの視線を感じた。
私が反射的に顔を上げると、少し離れた柱の傍に、総司様が立っていた。
何人かの貴族と談笑しているようだったけど、そのエメラルド色の瞳だけは、まっすぐ私を捉えている。
その眼差しに、胸が小さく跳ねた。
いつもの穏やかな笑みはそこになく、何を考えているのか少しも読み取れない、冷ややかな瞳だった。
まるで、私とメルディック様が何を話しているのか、遠くから静かに見定めているような、そんな気さえした。
けれど、私と目が合ったことに気づくと、総司様は何事もなかったかのようにふっと口元を緩め、いつもの柔らかな笑みを浮かべられた。
そのあまりにも自然な変わり様に、私は思わず息を呑んだ。
今の眼差しは、私の見間違いだったのだろうか。
そう思おうとしても、胸の奥に残った小さな違和感は、どうしても消えてくれなかった。
そして、メルディック様から聞かされた言葉だけが、ワルツの旋律の中でも、いつまでも耳の奥から離れてくれなかった。

「それと、もう一つお話ししておかなければならないことがあります」


これ以上、何を聞かされるのだろう。
そう思うと、胸の奥がきゅっと縮んだようで、私はただ不安な気持ちのまま、メルディック様を見上げた。
すると彼は、私を怯えさせまいとするような穏やかな眼差しを浮かべながら、それでもどこか慎重な声音で言葉を続けられた。


「先日、公爵家を訪れた際、殿下の近衛の方が、卓に置かれていた薬を一つ拝借したそうなのです」


その言葉を聞いた瞬間、私はすぐに思い当たった。
それはきっと、はじめが持っていったものだ。
卓に置かれた薬は、私が毎晩、眠る前に飲んでいる薬のことに違いない。


「あの薬は、どちらで?」

『お医者様が処方してくださっていると聞きました』

「それはあり得ません。あれは一般には流通していない、極めて希少な薬です。それこそ王族や皇族が重い傷を負った時や、病であまりにも苦しい時などに限って用いられるようなものです」

『そんなに凄いお薬なのですね。どうりで、とてもよく効くと思いました』


私がそう答えると、メルディック様はわずかに眉を寄せられた。


「どのような効果を感じられましたか?」

『全身が打撲や擦り傷で痛かった時も、あのお薬を飲むと痛みがすっかりなくなったんです。それに、夜も苦しくならず、朝までよく眠れました』

「やはり、そうですか。あの薬は、確かに大変優れたものです。効き目も強く、痛みを抑える力も非常に高い。ですが、本来は医師が処方することを禁じられている薬です。それどころか、現在は正式な薬として扱われているものではなく、裏でしか手に入らない代物と言ってもよいでしょう」

『それは……どうしてですか?』


思わず尋ねると、メルディック様は少しだけ表情を曇らせた。


「効き目の強い薬には、大抵の場合、それに見合うだけの危険があります。あの薬は依存性がないという点ではまだ幸いなのですが、服用してから数時間は、まるで深い眠りに落ちたように、目を覚まさなくなると言われています」


その言葉に、私はふと夜のことを思い出した。
確かに、あの薬を飲むようになってから、夜中に目を覚ました記憶が一度もない。
以前なら、身体のあちこちが痛んだり、傷の疼きで眠れなかったりして、何度も寝返りを打っていた。
それが薬を飲むようになってからは、いつの間にか眠りに落ち、朝になるまで目を覚ますこともなくなっていた。
そのおかげで、身体の疲れも少しずつ取れてきたように感じている。


『その程度の副作用なら、安心ですね』


私は思わず笑みを浮かべた。
メルディック様があまりにも深刻そうなお顔をされるものだから、もっと恐ろしい話なのかと思っていたけど、深く眠れるというだけなら、私にとってはむしろありがたいことのように思えた。
けれど、メルディック様はすぐには何も答えなかった。
一度だけ静かに目を伏せ、それから周囲の者に不審がられないよう、再び穏やかな笑みを浮かべた。


「いえ、危険ですよ。何をされても目を覚まさないというのはね」

『ですが服用するのはお屋敷の中ですし、お部屋の外には護衛の騎士も置いてくださっています』

「あの薬は、療養よりも犯罪に悪用されることのほうが多いんです。それほど深い眠りに誘う、危険な薬ですから。ですから殿下は、むしろその薬のことを一番に案じておられました。あれを飲んだ後、誰かを部屋に入れてはいないかと」


その言葉を聞いてすぐに思い浮かんだのは、総司様だった。
あの薬を飲み始めた最初の一週間、総司様はいつも私の部屋にいらした。
私が眠りにつくまで傍にいてくださることもあれば、薬が効いてきて意識がぼんやりしてくる頃まで話をしていることもあった。
けれど、だからといって、総司様が何かを企んでいたとは思えない。
私が深く眠ってしまったところで、総司様に何の利点があるというのだろう。
確かに、あの薬が犯罪に使われる危険があるということはわかったけど、実際に私の身には何も起こっていなかった。


『でも、私はこうして無事ですよ?身体も順調に回復していますし』


なるべく安心してもらえるように笑ってみせると、メルディック様は少し困ったような微笑みを浮かべられた。


「それなら良かったです。回復されたのでしたら、もう薬は服用されていませんか?」

『いえ、まだ毎晩飲んでいます』

「……それは、なぜ?」

『依存性のある薬ではないそうですし、心身を癒してくれるものだから、よく眠れるのなら飲んでおいたほうがいいと、総司様が……』


そこまで話したところで、メルディック様は初めて、思い詰めたような表情を浮かべられた。
小さく息を吐き、それを隠すように一度だけ目を伏せる。
そして再び私を見つめた時、その眼差しには先ほどまでとは違う真剣さが宿っていた。


「その薬は、今夜からでも服用をおやめください。これは殿下からも、そうお伝えするよう言われております」

『……わかりました』


お屋敷の中は今の私にとって、帝国のどこよりも安心できる場所だった。
傷つけられ、怯えて過ごしていた日々はもう終わったんだと思っていた。
侍女たちも以前とは違い、私に優しく接してくれている、
そして総司様も、いつも私のことを気にかけてくださっている。
だからこそ、薫様からの言葉は、穏やかに築かれ始めていた私の心を、音もなく揺らした。
今まで安心だと思っていたものを、違う角度から見つめてしまったような気がした。

けれど私はまだ、総司様を疑うことなどできなかった。
帝国の剣になり、多くのものを築き上げてきた総司様が、わざわざ私一人のために、行動を起こすとは思い難い。
ただ何事も用心するに越したことはない。
薫様のご厚意を無駄にしないようにするためにも、私は私で自分の身はしっかり守りたいと考えていた。


『薫様にお伝えください。私のことを気に掛けてくださり、ありがとうございますと。頂いた助言は決して忘れず、心に留めておこうと思います』


王太子として国を背負い、誰よりもお忙しいお立場でありながら、それでも私のことを案じ続けてくださっている。
そして今日は、わざわざ南部にいるご友人まで遣わし、こうして私の身を案じる言葉を届けてくださった。
そのお気持ちが、たまらなく嬉しかった。
嬉しいからこそ、胸が苦しくなる。
私一人のために、これほど多くの方を巻き込んでしまっているのだと思うと、申し訳なさが込み上げてきた。
そしてその申し訳なさと一緒に、これから自分がどうなってしまうのかという不安まで、急に大きく膨らんでいく。
メルディック様は、そんな私の表情を静かに見つめると、小さく頷き、再び言葉を続けられた。


「殿下は、以前セラ嬢にお話しされていた件について、準備がほぼ整ったとも仰っておられましたよ」


思わず顔を上げた、その時だった。
ちょうど曲調が変わり、それに合わせるように私たちの姿勢も自然と移り変わった。
私は一歩踏み出し、メルディック様はそのすぐ後ろに回られる。
互いに同じ方向を向いて踊る、そのほんの一瞬だけ、彼の声が私の耳元まで届くほど近くなった。


「近く皇帝陛下への謁見を賜り、あなた様の返還を正式にお求めになるそうです」


思わず息を呑んだ。


『そうなのですか……?』

「ええ。殿下は、帝国が受け入れ得る条件を可能な限り整えられました。講和条約の趣旨にも反せず、外交上も十分な大義を備えておられます。それでもなお、明確な理由なく退けられるのであれば、それは国家の判断だけでは説明がつきません」


その言葉には、薫様がどれほど慎重に準備を重ねてこられたのかが滲んでいた。


「殿下は仰っていました。政治とは、本来、多くの者が納得できる理によって動くものです。そこに一個人の望みを入り込ませられるとすれば、その人物は、皇帝陛下のお耳に直接意見を届けられるほどの信頼と影響力を持つ者に限られる、と」


その言葉は、まるで一人の人物を示しているように聞こえた。
でも、そんなはずはない。
総司様か、私一人を手元へ置いて何を得るというのだろう。
理由があるとすれば、一つしか思い浮かばず、私は苦しさを押し隠すように小さく息を吸った。


『つまり……薫様は、総司様が昔の出来事を今も恨んでおられて、その報復として私を手放さない可能性をご心配なさっているのですよね』


再び体勢が変わり、私はメルディック様と向き合う。
彼は一瞬だけ目を見開くと、どこか安堵したように眉を下げ、静かに微笑んだ。


「……まさか、そのようにお考えだったとは」

『違うのですか?』

「ええ。そのようなご心配はなさっておりません。ですが、安心いたしました。セラ嬢が今そのようなお考えに至るということは、少なくとも現在、お屋敷でその方から妙な振る舞いは受けておられない、ということでしょう」

『……はい』

「それを伺えただけでも、殿下はきっと安堵なさいます」


もっと聞きたいことはあったものの、ワルツの音楽はなりやみ、彼は私から手を離した。


「お話しできて良かったです。どうかこのことは、殿下のためにもご内密に」

『はい。わかりました』


私が頷くと、メルディック様はそれ以上長居するつもりがない様子で、丁寧に一礼された。


「それでは、私はこれで失礼いたします」

『メルディック様、ありがとうございました』


メルディック様はそのまま人々の間を縫うように歩き、ほどなくして広間の向こうへ姿を消していった。
けれど、私はその場からすぐに動くことができなかった。
胸の中には、先ほどまでなかった不安が静かに広がっている。

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