8

夜会が終わり、総司様と向かい合って座る馬車の中。
私は先ほどまでの出来事をぼんやりと思い返しながら、窓の外に浮かぶ月を眺めていた。
夜空には雲ひとつなく、淡い月明かりが流れる街並みを静かに照らしている。
でもどんなに美しい景色を眺めても、心には重苦しさが残っていた。

総司様とワルツを踊れたことは嬉しかった。
慣れない夜会で緊張していた私に、優しく手を差し伸べてくださったことも、音楽に合わせて踊る間、何度も歩調を合わせてくださったことも、きっと忘れないと思う。
けれど、その一方で、メルディック様から聞いた話も頭から離れなかった。
いくら考えてみても、何ひとつ確かな答えは出てこない。
だからこそ、余計に息が詰まるような思いがした。
憶測だけで総司様を疑うようなことはしたくないし、何か思惑があったとしても、今の私にはそれを確かめる術も抗う力もない。
薫様が私の返還を陛下に提案してくださるというのなら、その日までは余計なことを考えず、静かに様子を見ているほかないのだろう。
そんなことを考えていると、向かいに座る総司様が、物思いに沈んでいる私を気遣うように声をかけてきた。


「疲れちゃった?」


その声に顔を上げると、総司様はいつものように控えめな笑みを浮かべていた。


『いいえ。緊張はしましたけど、楽しかったです。総司様とワルツも踊れましたし』


素直な気持ちを伝えると、総司様は少しだけ目元を和らげた。


「そうだね。僕も君と踊れて良かったよ」


その言葉を聞いて、心がほんのりと温かくなる。
けれど、すぐに別のことを思い出してしまい、私は視線を落とした。


『ですが、総司様は今日、他の方とは踊れませんでしたよね。私のエスコートをしなければならなかったせいで、申し訳ないです』


あの後、総司様は何人もの女性からワルツに誘われていた。
そのたびに笑顔で断っていたけど、何度も声を掛けられている姿を見ると、申し訳ない気持ちになってしまった。
東部からの来賓として扱われていた私も何人かの男性から声を掛けていただいたけど、それも総司様が丁寧に断ってくださっていた。
私がいなければ、総司様はもっと自由に夜会を楽しめたのかもしれない。
そう思っていると、総司様は意外そうに瞬きをした。


「なんで謝るの?僕としては、むしろ君がいてくれて助かったんだけど」 

『どうしてですか?』

「断るいい口実が出来たってこと。僕、ワルツとか極力踊りたくないんだよね。手や身体が触れ合うのが苦手でさ。ああいうの、僕には気持ち悪く感じるから、出来るだけ避けたいんだけど、さすがに思ったままを口にするわけにもいかないでしょ?だから、毎回断るのが面倒なんだ」


一瞬、何を言われたのか分からなかった。
それから、胸の奥で何かがすっと冷えていくような気がした。

総司様は、ワルツそのものがお好きではなかったの?
それなら、今日私と踊ってくださったのも、私をエスコートしている立場だから仕方なく誘ってくださっただけなんだろう。
私はそんなことも知らずに、音楽が始まった瞬間から嬉しくなってしまっていた。
総司様の手に導かれるたび、足取りを間違えないように気をつけながら、それでも心の中では浮き立つような気持ちになっていたのに。
思い返すほど恥ずかしくなって、私は膝の上でそっと指を重ねた。 


『ごめんなさい。二曲も踊っていただいてしまいました……』 


せっかくの夜会だったのに、私のせいで総司様に苦手なことをさせてしまった。
申し訳なさに肩を落としていると、総司様が再びぱちくりと目を瞬いた。


「違うよ。セラ嬢と踊ったことに対して言ってるんじゃないから、変に勘違いしないで」


総司様はそんな私を見て、わずかに困った様子で微笑んでいる。
まるで、余計なことまで言ってしまったと気付いたような表情だった。


「君と踊るのが嫌だったなんて言ってないじゃない。そもそも嫌なら誘わないよ」

『……はい』

「僕は君と踊れて良かったって思ってるんだよ。子供の頃、君と踊ることを想像してたから、こうして叶って今夜は満足かな」


そう言って総司様は腕を組みながら深く腰を掛け直し、満ち足りた笑みを浮かべた。
その言葉が本心なのか、それとも私を気遣って口にしてくださっただけなのかは分からない。
それでも今は、その言葉を信じていたいと思えた。


『私もです。私も幼い頃から、総司様とワルツを踊ることを何度も想像していたので、それが叶って嬉しかったです。束の間でしたけど、夢のような時間でした』

「夢なんて大袈裟だな。またいくらでも踊れるでしょ?」

『でも、総司様はワルツがお好きではないのでしょう?』

「セラ嬢と踊るのは面白かったよ。途中でよそ見するし、急につまずくし、綺麗に旋回出来たと思ったら分かりやすく嬉しそうな顔をするしね」

『もう……面白いとは何ですか?そんな言われ方をしても、嬉しくありません』


少しだけ頬を膨らませて抗議すると、総司様は楽しそうに口元を緩めた。


「じゃあ、なんて言えばいいの?」

『それは総司様がご自分で考えてください』


そう告げて、私はぷいと顔を逸らした。
すると、すぐ目の前から優しい総司様の笑い声が聞こえてくる。
つい気になって再び顔を戻すと、総司様は瞳を細め、どこか楽しそうに私を見つめていた。
こうして気兼ねなく言葉を交わせるようになったことが、私は嬉しかった。
以前の私は、総司様の前に座るだけでも緊張して、何を話せばいいのか分からず、いつも身構えていたのに、今ではこんなふうに子供じみた言い合いまで出来る。
それは私の中では大きな変化だった。

だけど、もし総司様が本当に何か良くないことを考えていたのだとしたら、この笑顔も、私に掛けてくれた優しい言葉も、すべて偽りだったということになる。
そんなことは絶対にないと思いたいのに、メルディック様から聞いた話を、ただの戯言だと片付けることも出来なかった。
思い返してみれば、確かに不可解なことはいくつもある。
そのひとつひとつを考えるたびに小さな不安が生まれ、それが消えないまま私の心を揺らしていた。
そんな私の胸の内など知るはずもない総司様が、ふと思い出したように口を開く。


「そういえば、君はメルディック殿ともワルツを踊ったよね。どうだった?」


まさに今、考えていた相手の名を出されて、胸がどきりと鳴った。
けれど、その動揺を悟られたくなくて、私は出来るだけ自然な笑みを浮かべながら答えた。


『とても紳士的な方だったと思いますよ』

「へえ。僕より?」

『ふふ。総司様が一番紳士的ですよ。総司様のリードはとても踊りやすくて、本当に楽しかったです』

「じゃあ、メルディック殿とは楽しくなかった?」


まるで子供のようなことを聞いてくる総司様に、私はくすくすと笑った。


『もう、総司様ったら。どうしてそんなことを気にするのですか?』

「だって気になるじゃない。僕と踊った時より楽しいと思われてたら面白くないからね」

『大丈夫です。私が一番楽しかったのは、総司様と踊った時ですから。やっぱり初対面の方と踊ると、どうしても緊張してしまうみたいです』


本当のことを言えば、ワルツのことなんてほとんど頭に残っていなかった。
私の胸を占めているのは、メルディック様から聞かされた重い話ばかりだった。
それでも、総司様が今のところ何も気付いていないように見えることだけが、せめてもの救いだった。
もし私の心の内まで見透かされていたら、きっと私は上手に笑うことさえ出来なかったと思うから。
そう思っていた時、ふと総司様の瞳から柔らかな色が消えて、何かを探るような鋭さを帯びた。


「そんな感じだったね。二人して真剣に、随分と話し込んでいたみたいだけど、何の話をしてたの?」


さっきまでとは明らかに違う声だった。
心臓がどくんと鳴り、胸の奥が一瞬で強張る。
けれどそれを顔に出すわけにはいかないから、私は膝の上でそっと指を組み、出来るだけいつも通りの笑顔を浮かべながら答えた。


『学院生活の話です。メルディック様は南部のアカデミーに通っていらしたそうなので、その頃のお話をいろいろとうかがっていました』

「そうなんだ。例えば、どんなことを聞いたの?」

『南部では、北部よりも医学や薬学の研究が盛んだというお話を聞きました。特に薬草の分類や調剤の技術は進んでいて、こちらではあまり見られない薬草も数多く扱われているそうです。ただ、その中には近年、採取量が減少している希少な薬草もあるらしく、薬効を必要とする方々のためにも、安定して確保する方法が課題になっていると……』


口にしてみると、思っていたよりも自然に言葉が続いた。
もちろん、メルディック様とは薬学の話なんて一言も交わしていない。
すべて私がアストリアにいた頃に学んだ知識と、そこから考えたことを繋ぎ合わせただけだった。
総司様に嘘は吐きたくないけど、メルディック様から聞いた話を、そのまま総司様に伝えることなんて出来なかった。


「ふうん、薬学ね」


総司様はそう呟きながら、私の顔をじっと見ていた。
その視線に落ち着かないものを感じながらも、私は出来るだけ自然に問い返す。


『総司様は、あまりご興味がありませんか?』

「興味がないわけじゃないよ。ただ僕は、薬草を見分けたり薬を調合したりするより、自分の身体を動かして覚えるほうが性に合ってるんだよね。剣術とか体術とか、そういうもののほうがわかりやすいって言うのかな。自分で動いて、相手の動きを読んで、身体に覚え込ませるほうが僕には向いてるみたい」


どこか楽しそうに話す総司様を見ていると、少しだけ先程までの緊張感が和らいでいく。
総司様はどこか少年のような表情で、穏やかに言葉を続けた。


「剣術って結構おもしろいんだよ。剣をどう振るかだけじゃないんだ。相手の身体をよく見ていると、次に何をしようとしているのか、だんだん分かるようになる。腕や肩に力が入る瞬間とか、足の置き方とか、身体の重心がどちらに傾いているかとかね。ほんの僅かな動きでも、次の一手を予測する材料になるんだ」


総司様の好きな剣術の話が聞けることが嬉しくて、私は微笑みながら総司様の話に耳を傾けた。


「それに、相手の顔を見ることも結構大事なんだよ。表情が変わる瞬間とか、目線がどこに動いたかとか、呼吸が僅かに乱れたとか、そういうものを見ていると、その人が何を考えているのかも、ある程度は分かってしまうんだよね」

『凄いです、そこまで分かるものなんですか?』

「長くやってるとね。もちろん、何もかも分かるわけじゃないよ。でも、相手が次にどちらに動くかとか、攻撃するつもりなのか、それとも一度距離を取ろうとしているのかくらいなら、かなり早い段階で分かる。だから剣を交える時は、相手が動いてから考えるんじゃなくて、その前にもう次の動きを考えておくんだ」


その言葉のひとつひとつから、総司様がどれほど長い時間をかけて剣と向き合ってきたのかが伝わってくる。
私は感心しながら、笑顔で話す総司様のお顔を見つめた。


『一言で剣術と言っても、剣を振るう以外に、色々な能力が必要なんですね。そんなところまで見ていらっしゃるなんて、私にはとても真似出来そうにありません』

「慣れれば案外出来るようになるよ」


総司様は軽く笑って、それから何かを思い出したように続けた。


「それに、この力って普段にも案外使えてさ」

『そうなんですか?』

「うん。例えば相手のちょっとした動きや、表情なんかをよく観察していると分かるんだよね。相手が今、嘘をついてるのかな、とか」


その瞬間、胸の奥で心臓が大きく跳ねた。
息を吸ったはずなのに、胸の奥まで空気が届かない。
先ほどまで穏やかに聞いていた総司様の言葉が、突然まったく違う意味を持って私の中に落ちてきた。

もしかして……気付いてる?
私が今、メルディック様から聞いた話を、薬学の話だったと偽ったことも。
そして、そのことを総司様には決して知られたくないと思っていることさえも。
もしすべて見抜かれていて、それでも総司様は何も言わず、私を試すためにこんな話をしているのだとしたら。
そう考えた途端、先ほどまで自然に出来ていた笑顔も、どこかに消えてしまう。
膝の上に置いた手に力が入り、指先が小さく震えた。


「セラ嬢?」


名前を呼ばれて、私はびくりと肩を揺らした。
顔を上げると、総司様が不思議そうにこちらを見ている。
いつもと変わらない筈なのに、今はその綺麗なエメラルド色の瞳と目を合わずことが少し怖かった。


『……あの』


何か言わなければと思うのに、言葉がひとつも浮かばない。
総司様はそんな私をしばらく黙って見つめていたけど、やがて小さく首を傾げた。


「どうしたの?急に黙り込んじゃって」


総司様の何気ない笑顔さえ、どこまでが本当なのか分からなくなってしまいそう。
でも今は、総司様と楽しく話をしているだけなのだから、変に意識してはいけない。
そう思い直して、私は口元に柔らかな笑みを浮かべた。


『とても興味深いお話で驚いてしまいました。そんなに細かなところから分かるなんて……考えたこともありませんでした』

「そう?」

『はい。それにもし私が剣士だったら、相手を見ても何も気付けなそうですし、むしろ色々見破られてすぐに斬られてしまいそうです』

「ははっ、それはそれで君らしいけどね。セラ嬢って考えてることが全部顔に出てるし」


待って……。
それってやっぱり、総司様には全部見抜かれてるっていうこと?


『私、そんなに分かり易いつもりはありません。困ります……』

「でも、別に悪いことじゃないと思うよ。何を考えてるか分からない人より、僕はずっと素直でいいと思うけどな」

『だけど、全部を見抜かれてしまうのはやっぱり複雑です』

「大丈夫だよ。そこまでなんでも見抜けるわけじゃないから。そういう力が発揮できるのは、あくまでも戦闘中の話だし」

『そうなんですか?』

「うん。それに、君が僕の前で何か隠そうとしたとしても、わざわざ暴こうとは思わないよ。誰だって、言いたくないことのひとつくらいあるだろうしね」


総司様はそう言って、柔らかく微笑んだ。
その声には、少しも責めるような響きがなかった。
まるで私が何かを隠している可能性さえ、最初から咎めるつもりなどないと言ってくださっているようで、胸の奥が締め付けられる。
もしかしたら、総司様は何かに気付いているのかもしれない。
それでも私が困らないように、気付かないふりをしてくださっているのだとしたら。
そう考えた途端、先ほどまでとは違う罪悪感が胸に広がった。


『総司様は優しいのですね』


ぽつりと零すと、総司様は少しだけ眉を上げ、それから可笑しそうに笑った。


「今さら?」

『ふふ……そうですね。今さらでした』


ようやく自然に笑えた気がして、私は総司様を見上げた。
すると総司様は、いつものように少しだけ首を傾げながら、穏やかな笑顔を浮かべている。
その姿を見ていると、私は自分がいろいろと気にしすぎていたのではないかと思えてきた。
今日は色々な話を聞いてしまったから、必要以上に警戒してしまっているのかもしれない。
そう思い直したところで、総司様がふいに私のドレスに目を向けた。


「でも、本当にそのドレス似合ってるよ。これで見納めかと思うと、少し残念だな。せっかくこんなに綺麗なのにね」


不意にそんなことを言われて、胸の奥が大きく跳ねた。
先ほどまでとは違う意味で心臓が騒がしくなり、私は思わず視線を落とした。


『ありがとうございます。総司様が選んでくださったドレスなので、そう言っていただけて嬉しいです』

「また一緒に行こうね。君に似合うドレスを仕立ててさ」

『はい』


そんな日が本当に来るのかは分からない。
薫様は近いうちに、私の返還を求めるため陛下に謁見を申し込んでくださるという。
その願いが叶えば、私はアストリアに戻れるかもしれない。
ずっと帰りたかった故郷。
大切な家族や、懐かしい人々が待つ場所。
そこに戻りたいという気持ちは、今も少しも変わっていないし、薫様を支えたいという思いも同じだった。

それなのに、目の前で穏やかに微笑む総司様を見ていると、胸の奥がどうしようもなく痛む。
総司様と過ごす時間が終わってしまうかもしれないと思うだけで、どうしてこんなにも淋しくなるのだろう。
ただ、総司様が選んでくださったドレスの裾をそっと指先で撫でながら、私は窓の外に浮かぶ月を見つめた。

この先、私がどこにいるのかも、誰と過ごしているのかも、今はまだ何ひとつ分からない。
だからこそ、今夜のことだけは大切に胸にしまっておきたかった。
総司様と踊ったワルツも、優しく掛けてくださった言葉も、そして今、私の胸に残っているこの名前のない温かい痛みも。
いつか遠い記憶になったとしても、きっと私は忘れないだろう。

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