2
夜会の翌日も、空模様はすっきりしなかった。
朝から激しい雨が降り続き、夜になった今は、遠くで低い雷鳴が時折響いている。
黒い雲に覆われた空を眺めていると、心まで重たく沈んでしまいそうで、私は窓辺に立ったまま、雨に濡れてすっかり色を濃くした庭園を見下ろしていた。
こんな日は、何か良くないことが起こるような気がしてしまう。
けれど、そんな不安を抱えているうちに、ふと昨夜、総司様と交わした会話が蘇る。
雷の悪魔の話や、私の読み聞かせに喜んでいた様子を思い出し、私は一人でくすりと笑った。
「お嬢様、どうかされましたか?」
私の様子に気付いたエイミーが、夕食の後片付けをしがらそう尋ねてきた。
『昨日の夜、総司様と話したことを思い出してたの』
「そうなんですね。思い出して笑う程、面白いことがあったんですか?」
『うん。総司様が昨晩は少し可愛くて』
「……あの方を可愛いなんて思えるのは、お嬢様くらいですよ」
エイミーは苦笑いをしながらそう呟いたけど、総司様はふとした時にとても可愛らしい。
意地悪だけど優しくて、怖い時もあれば可愛いらしい面もある、色々な顔を持った人だと思う。
「そう言えば、今朝閣下に偶然お会いしたんですけど、夜の薬はもう飲まなくていいようになったんですね」
『そうなの。身体もすっかり元気になったから、総司様に聞いてみたらやめていいよって言って頂けたんだ』
「あのお薬を飲むと、よく眠ってしまうと聞いておりましたが……大丈夫でしたか?」
『うん。私は昨日聞いたばかりなんだけど、よく眠れること以外には何もなかったよ。怪我をしていた時は、痛みがかなり和らいだから、凄い薬だよね』
そう答えながら、私はふとメルディック様から聞いた話を思い出していた。
あの話が真実なのだとしたら、どうして総司様は薬の効能や入手経路を私に話してくださらなかったのだろうと疑問に思っていた。
けれど昨夜、総司様は自分からその薬について話してくださった。
私が余計な心配をしないように、心身ともに弱っていた私に不安を与えないように、ただ黙っていてくださったのだと知った時、総司様の優しいお心遣いを疑ってしまったことに申し訳ない気持ちになった。
私がアルディオン公爵家でお世話になっていることも、アストリアで暮らしていた私の日々を監視していた人がいたことも、総司様とどこまで関係しているのかはまだ私にもわからない。
それでも、ずっと心に引っかかっていた薬のことが取り越し苦労だったとわかっただけで安心できた。
総司様が自分に何か害をなそうとしているなんて、そんな悲しいことだけは、どうしても考えたくなかった。
「お嬢様に薬の詳細をお話ししないままでいて、申し訳ありません」
『ううん。私が不安に思わないようにそうしてくれたって総司様から聞いてるから、エイミーは謝らないで。寝てる私のことを気にかけてくれてありがとう』
「いいえ……」
エイミーは眉を下げ、申し訳なさそうに微笑んだ。
彼女が私を気遣ってくれていることは、いつもちゃんと伝わっている。
彼女は食器の位置を整えながら、また何かを思い出したように私に声をかけた。
「そう言えば、昨晩の夜会はいかがでしたか?ワルツは踊られたんですか?」
『総司様と二曲踊って頂いたよ。とても楽しかった』
「そうなんですね。閣下はやはりリードがお上手なんでしょうね」
『うん。なんて言えばいいのかな、総司様と踊るとね、身体が自然と綺麗に動くの。意識してないのに綺麗に旋回できたり、少しよろめいても支えてくれて綺麗に次の動きに繋げてくれるんだ。本当に、夢のような時間だった……』
昨夜の私は、まるで本の中のお姫様になったようだった。
総司様の微笑みも優しくて、以前ニコラ様が仰っていたように、帝国中の女の子が総司様に憧れるのも当然なのだと思えてしまう。
ただ、私にとってはそれ以上に、幼い頃から密かに思い描いていた夢が叶ったことが嬉しかった。
夢の中でもいいから総司様とワルツを踊りたいと、何度も願ったことがある。
その夢が昨夜、本当に叶ったような気がした。
「夢のような?では、お嬢様は閣下のことが……お好きなのですか?」
エイミーがきょとんとした顔で尋ねてくる。
あまりにも思いがけない言葉に、私は目を見開き、慌てて首を横に振った。
『違うよ。勿論好きだけど、そんな変な感情じゃないから』
「でも、お好きなんですね?」
『それは……もちろん。だって、総司様にはたくさん優しくして頂いてるから。助けてもらったことも、気にかけてもらったことも、全部ちゃんと感謝してる。だから、そういう意味で好きなの』
言葉を重ねるほど、自分自身に言い聞かせているような気持ちになっていく。
総司様を大切に思っている、その気持ちに間違いない。
けれど、その気持ちに名前をつけてしまうのは怖かった。
総司様には奥様がいて、側室の方々もいる。
そのことを考えれば、私が抱いていい気持ちには限りがあるし、私には私の帰りを待っていてくれる薫様がいる。
だから私は、昨夜のことを大切な思い出として胸にしまって、それ以上は深く考えないようにしていた。
「そうですか……」
エイミーは納得したような、していないような顔で頷いた。
それから何気ない調子を装いながら、ぽつりと続ける。
「私、閣下を見ていて思うんですけど、閣下もお嬢様のことがお好きですよね。それも、かなり」
『え?』
今度こそ、言葉が出てこなかった。
あまりにも予想していなかった言葉に、私は瞬きを繰り返す。
するとエイミーも自分が何を口にしたのか気づいたらしく、途端に慌てた顔になった。
「いえ!今のは変な意味ではなくて!その……閣下がお嬢様のことを、とても気にかけていらっしゃるように見えるというだけです。私、余計なことを言ってしまいました。どうか閣下には……」
『ううん、大丈夫。もちろん総司様には言わないよ。私だって、こんな話を総司様にするなんて無理だもん』
そう答えながら、私は小さく笑った。
エイミーが何を見てそんなふうに思ったのかはわからないけど、総司様が私を気にかけてくださる理由なら、私にも思い当たることがある。
『それに、総司様が私を気にかけてくれてるのは……私達、幼い頃から顔見知りではあったんだよね。だから、昔から知っている人にあまり冷たくはできないんだと思う』
詳しくは話せないけど、この程度なら問題はないと思いそう告げる。
するとエイミーは視線を揺らして、私を見つめた。
「その話、つい先日私も小耳に挟みました。お嬢様と閣下のお母様方のことも」
私と総司様が婚約していたことは、公には知られていない。
けれど、互いの母親に因縁があり、それが殺害事件にまで発展したという噂は、東部ではもちろん、帝国内でもよく知られていた。
故人を貶めるようなことを言われた記憶はないけど、陰では私と総司様の間にも何か因縁があるのではないかと囁かれている。
エイミーが知っていても、不思議ではなかった。
『子供の頃にね、色々あったの。でも私と総司様は直接関係してないし、私は総司様のことを恨んだりもしてないよ。総司様は……どうなのかは、わからないけど』
「閣下も恨んだりはしていませんよ。それは見ていればわかります」
『うん、私もそう信じてるよ』
そう答えたけど、本当は少し違う。
信じているというより、信じたいのだと思う。
総司様は迷うことなくアストリアに軍を進め、私を帝国に連れてきた。
今はこうして優しくしてくださっているけど、何を考えているのか、そのすべてが私にわかるわけではない。
それでも、昔大好きだった人を疑いながら過ごしたくはなかった。
だって私は、ずっとこのお屋敷にいるわけではないのだから。
後ろ向きなことばかり考えるより、再び総司様と出会えたことを喜んでいたい。
この先、いつまで一緒にいられるのかわからないからこそ、今こうして過ごせている時間を大切にしたいと思うようになった。
もしかしたら、総司様も同じなのかもしれない。
限られた時間だと知っているから、私がこのお屋敷にいる間だけでも、少しでも穏やかに過ごせるようにしてくださっているのかもしれない。
そう考えると、総司様の優しさをそのまま受け取りたいと思えた。
「お嬢様と閣下の間にも色々とあるのですね。ですが、お二人が仲良くて良かったです。これでバチバチだったら、私も困ってしまいますから」
『ふふ、でしょう?私と総司様はバチバチしないから安心して。それに、色々なことがあったけど、私は総司様といる時間が好きなんだ。それは昔からだけど、成長した今も変わらないみたい。だからいつまでこのお屋敷にいられるかわからないけど、この生活を大切にしたいんだ』
「そう思えるのは素敵なことだと思います。閣下もきっと、同じように思っていますよ。……ところで、お嬢様」
『うん?』
「ワルツは、閣下以外の方とは踊られたんですか?」
急に話題が戻ったことに、私は目を瞬いた。
『一人だけ踊って頂いたよ。公爵家の方で、初めてお会いした方だったんだけど』
「どうでしたか?」
『どうって言われても……優しくリードして頂いたよ。初対面だったから緊張はしたけど』
「踊っている間、どんな話をされたんですか?」
『え?どんな?』
やたら食い気味に聞いてくるエイミーの言葉に首を傾げると、エイミーは少し慌てた様子で言葉を足した。
「ごめんなさい、色々聞いてしまって。私は貴族社会のことをまだよく知らないので、ワルツを踊ることにずっと憧れていて……。初対面の方と踊るなんて素敵じゃないですか。どんなお話をするのか聞いて、少し想像してみたかったんです」
『わかるよ。私も子供の頃は憧れてたから』
照れくさそうに笑うエイミーが、なんだかとても可愛らしく見えた。
いつかエイミーにも大切な人ができて、その人と一緒に笑える日が来たらいいなと思う。
私にはまだ先のことなんて何もわからないけど、せめてエイミーには心から幸せだと思えるような恋をしてほしい。
『その方とは、お話しするっていうより、ほとんど一方的にお話を聞いていただけだったかな』
メルディック様と交わした話を、そのまま口にするわけにはいかない。
だから余計なことは言わず、曖昧に笑っておいた。
「そうなんですね。その方は、どんなことをお嬢様にお話しになっていたんですか?」
『南部の学院に通われていて、実際に南部で生活されていた方だから、その頃のお話を色々と聞かせて頂いたかな』
実際には、総司様についての話がほとんどだった。
私が当たり障りのない答えを返すと、エイミーは素直に納得したように笑って頷いた。
「私はてっきりお嬢様が可憐なあまり口説かれたのかと思っていました」
『全然だよ。全くそんなことはなかったよ』
「それなら良かったです。それでしたら、閣下も安心しますね」
『え?どうして総司様が安心するの?』
何気なく尋ねると、エイミーは目を見開いたまま固まった。
どうしてそんな顔をするのだろうと思っていると、彼女は再び慌てたように言葉を続ける。
「いえ、その……閣下はお嬢様のことになると、少し過保護な印象がありますから。よく知らない方がお嬢様に言い寄ったりしたら、閣下も心配なさるのではないかなと……私が勝手にそう思っただけです」
『総司様は、何も気にされてない様子だったよ。踊っておいでって言ってくださったのも総司様だから』
「そうなんですね」
エイミーは夕食の片付けを終えると、テーブルの上を最後に整えてから、ふうっと小さく息をついた。
そして何かを思い出したように「あっ」と声を漏らし、慌てて私を振り返る。
「そう言えば、お嬢様。閣下からの伝言を、すっかりお伝えしそびれていました」
『伝言?』
「今日は閣下のお仕事がいつもより早く終わるそうです。それで、お嬢様のところに遊びにいらっしゃるから待っていてほしい、と仰っていました。お伝えするのが遅くなってしまって、ごめんなさい」
『ううん、大丈夫。教えてくれてありがとう。でも……総司様は、何のご用事でお部屋にいらっしゃるんだろう』
素朴な疑問を口にすると、エイミーも少し考えるように瞬きをして、それから小さく笑った。
「特に何も仰っていませんでしたよ。ただ、お嬢様に会いにいらっしゃるのではないでしょうか」
総司様が私を気にかけてくださることは嬉しい。
とは言え、奥様がいらっしゃる方の時間を、こうして連日私が頂いてしまうのは、やっぱり気が引けてしまう。
昨日の千様の様子を思い出すと、なおさらだった。
私の立場で総司様に来ないでほしいとは言えないし、以前にも奥様方に申し訳ないと何度か総司様に伝えたことはあるけど、総司様はいつも気にする様子もなく笑っていた。
「お嬢様?どうしましたか?なんだか浮かない顔をしています」
『ううん……ただ申し訳ないなって思って。総司様には奥様方がいらっしゃるでしょう?いくら私が保護されている立場だと言っても、総司様と頻繁にお部屋で二人きりになるのは、最近ちょっと複雑なんだ』
「確かに……周りの目は気になってしまいますよね。お嬢様からお断りするのも難しいでしょうし」
『そうなんだよね。でも昨日もエスコートして頂いたばかりなのに……。何かいい方法はないかな』
私が真剣に考えていると、エイミーも一緒になって小首を傾げた。
二人でしばらく考え込んでいると、ふと一つだけ妙案が浮かび、私は両手をぱちんと重ね合わせた。
『そうだ。寝たふりするのはどうかな?』
「寝たふり……ですか?」
『そう。私がつい眠っちゃったことにしておけば、総司様も私に構わずに済むし、それでも気にかけて頂いたことにはなるでしょう?名案じゃない?』
「でも閣下から待っていてほしいと言われているのに、寝ちゃって大丈夫なんですか?私、怒られてしまわないでしょうか……」
エイミーが不安そうに眉を下げるので、私は思わず笑ってしまった。
『大丈夫だよ。ほんの少しの隙に眠っちゃったことにすればいいの。もし怒られたら私に言って?私が総司様にお話しするから』
「本当に大丈夫でしょうか……」
『うん。きっと大丈夫』
そうと決まれば、総司様がいらっしゃる前までに寝支度を全て整えて、ベッドに入っておかなければならない。
少し横になるだけのつもりが、本当に眠ってしまったということにしても、きっと不自然ではない。
そう思っていたけど、この時の私はまだ知らなかった。
総司様が私の考えた寝たふり作戦を、どんな顔で迎えることになるのかを。
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