3

あの後、急いで湯浴みを済ませて寝支度を整えた私は、逃げ込むように寝台に潜り込んだ。
コンフォーターを口元まで引き上げ、エイミーを見上げると、彼女は困ったように眉を下げながら私を見つめている。


「本当に寝てしまって大丈夫でしょうか?」

『大丈夫だよ。エイミーってば、心配性だね』

「お嬢様はいいですよ。ですが私は閣下になんと申せば……」

『私にお願いされた紅茶を取りに行ってる間に、寝てしまわれておりましたって言えば平気だよ。それならエイミーの落ち度にはならないでしょう?』

「だといいのですが……。そもそもお嬢様が、素直に閣下とお会いなさればいいだけではないですか?」

『たまになら、ご厚意に甘えさせていただくけど、連日はやっぱり良くないと思うの。私が寝ていたら、総司様も気兼ねなく他の奥様方と過ごせる筈だから』


そう答えながらも、本当は別の理由も抱えていた。
昨晩、薫様が私の返還を求めて真剣に動いてくださっていると聞いたばかりだった。
そう思うと、これ以上、自分の気持ちが総司様に傾いてしまうのが怖かった。
今だって、総司様に優しくしていただくたび、嬉しいと思ってしまう。
そのたびに、こんな気持ちを抱いてはいけないと、自分に言い聞かせているのに。

薫様だって、私と総司様が二人きりで過ごしていると知れば、きっと良くは思わないだろう。
立場や決まり事だけの話ではない。
人の心というものは、そう簡単に割り切れるものではないんだから。


「わかりました。では閣下がいらっしゃったら、そのようにお伝えしますね」

『ありがとう、エイミー。よろしくね』


総司様が何時にいらっしゃるのかはわからない。
私は寝台の中でぼんやりと天蓋を眺めながら、これから先のことを考えていた。
自分の未来が周りの人たちの手によって変わっていくのだと思うと、ままならない自分の身がひどく頼りなく感じられる。
貴族の家に生まれたのなら、自分だけの意思で将来を決められないことは、決して珍しくないと私だって知っている。
それでも、いざ自分がその立場になってみると、心が苦しくなった。
だって、自分のことすら自分で選べないのだとしたら、私の心はいったい何のためにあるのだろう。
したいことは、まだたくさんある。
見てみたい景色も、行ってみたい場所もある。
くだらないことを話して、一緒に笑いたい人だってたくさんいる。
そんな当たり前だったものまで、すべて誰かの都合で失うことになったら、私はこれから先も笑って生きていけるんだろうか。
そんなことを考えているうちに、いつしか瞼が重くなっていった。

それから、どれくらいの時間が経った頃だろう。
ぼんやりと沈んでいた意識が、ゆっくり水面に浮かび上がるような感覚の中で、誰かの話し声が聞こえてきた。
最初はまだ夢の続きだと思っていたけど、耳に馴染んだ声が重なるにつれて、少しずつ意識がはっきりしていく。
それは総司様と、エイミーの声だった。


「どうして寝てるのかな。まだ九時なんだけど」

「申し訳ありません。紅茶を取りに一度部屋を出たのですが、その間に眠ってしまわれたみたいで」

「それなら、すぐに起こすのが君の勤めじゃないの?」

「申し訳ありません……」


総司様が珍しく厳しい声音で話しているのが聞こえて、エイミーに申し訳なく思う。
それにしても、まさか本当に眠ってしまうなんて、自分でも呆れてしまう。
総司様が来る前に少しだけ休むつもりだったのに、気づけばすっかり眠り込んでいたらしい。
けれど、まだ身体は重く、瞼を開ける気にはなれなかった。
できることなら、このまま総司様が帰ってくださるのを待っていたい。
私が起きてしまえば、きっとまた総司様は私の傍にいてくれるだろう。
それが嬉しくないわけではないからこそ、今は会わないほうがいいと思っていた。
でも、そんな私の気持ちなんて知らないまま、総司様は少し呆れたような声で続けた。


「僕は言っておいたよね、待っててって。どう責任取ってくれるのかな」

「責任……ですか?」

「そうだよ。こんなに熟睡してたら、起こすことも出来ないじゃない」


総司様の声は、思っていたよりずっと近くから聞こえてきた。
先程まで本当に眠っていたせいで、総司様は私が完全に眠っていると思っているのだろう。
寝てしまった私が悪いのだから、もう気にせず好きなように過ごしてくださればいいのに。
そんなことをぼんやり考えていると、総司様の口から、思いもしなかった言葉が落ちてきた。


「じゃあ、君の罰を考えないといけないね。鞭打ち十回とかでいいかな」

「鞭打ち……?」

「幸い、ここは帝国の剣である僕の屋敷だからね。罪人を拷問する道具なら、ひと通り揃ってるんだ。最近、騎士の一人が爪を剥ぐのに嵌ってるらしいから、それでもいいかな。ああ、でも指先を傷つけたらセラ嬢の世話が出来なくなっちゃうから、それも困るか。それなら、死ぬ寸前まで水責めでも耐えてみる?」

『…………』


次々と飛び出してくる恐ろしい言葉に、眠気は一瞬で消えてしまった。
このまま黙っていたら、本当にエイミーが大変な目に遭ってしまうのではないかと思うと、背筋が冷たくなる。
私はぱっちりと目を開き、勢いよく上体を起こした。


『総司様……っ』

「あれ?いつの間に起きたの?」

『今、起きました。だから、エイミーに罰なんて与えないでください。眠ってしまった私が悪いのであって、エイミーは何も悪くありません』


エイミーの瞳には涙が滲み、顔からはすっかり血の気が失せている。
可哀想になって、私は急いで寝台から降りるとエイミーのそばまで行き、その背中をそっと撫でた。


『エイミー、ごめんね。エイミーは何も悪くないし、罰は与えないから大丈夫だよ』

「お嬢様……」

「なんでセラ嬢がそんなこと決めるのかな。罰を与えるかどうか決めるのは、この子の雇い主である僕だと思うんだけど」

『悪いことをしていないのに罰を与えるのはおかしいです。どうしても罰が必要だと言うのなら、私にお与えください』

「へえ、セラ嬢に?」


総司様は、どこか意地の悪い笑みを浮かべながら私を見下ろした。
そのエメラルド色の瞳を見上げると、先程の言葉を聞いたからか少しだけ怖く感じてしまう。
それでも、エイミーを庇うために口にした言葉を取り消すつもりはなかった。
私は唇をきゅっと結びながら、怯まないように総司様を見つめ、静かに頷いた。
すると、総司様はそんな私の顔をしばらく眺めた後、突然、堪えきれないように笑い出した。


「あははっ。凄い真剣な顔してるけど、今の罰云々は最初から冗談だよ」

『え?冗談……?』

「うん。もし君が狸寝入りしてたら、ああ言えば起きるかなって、ちょっと可能性に賭けてみたんだ」


総司様は悪びれる様子もなく、いつもの調子でそう言った。
けれど、そうだとわかった後でも、先程の会話を思い出せばぞくりとしてしまう。
あんなに恐ろしい言葉を楽しそうに並べられたら、本気なのか冗談なのか判断なんて出来るはずがない。
隣にいるエイミーも、まだ顔を青くしたまま立ち尽くしていたから、申し訳ない気持ちが込み上げてくる。


『あまり怖い冗談はやめてください。エイミーが可哀想です』

「そう?怖がらせてたなら、ごめんね?」


そう言って、総司様は小首を傾げながらエイミーに謝った。
その仕草は可愛らしいものの、その瞳にはどこか楽しそうな光が残っている。
どうにも本気で反省しているようには思えなくて、私は何とも言えない気持ちになりながら、そっと息を吐いた。
それでもエイミーに何も起こらないのだとわかっただけで、取り敢えずは良かった。


「じゃあ、セラ嬢も起きたことだし、君はもう仕事を終えて休んでいいよ」

「かしこまりました。では、お先に失礼致します」

『おやすみ、エイミー。今日もありがとう』

「おやすみなさいませ、お嬢様」


エイミーが部屋を出ていくと、広い室内には私と総司様だけが残された。
何を話せばいいのかと考えていると、まるで私の思考を断ち切るように、背後でドォン、と大きな雷鳴が轟いた。


『……ひぁっ』

「ははっ、また怖がってる」

『……だって、雷が鳴ってるなんて知らなかったんです』

「そっか。まあ、さっきまで一生懸命狸寝入りしてたんだから仕方ないね」

『狸寝入りではありません』

「えー?本当?あの会話の途中で起きるなんてタイミングが良すぎると思うんだけどな」

『本当ですよ。本当に寝てました』

「それならいいけど。避けられてたんだとしたらさすがに悲しいからさ」


そう言われると気まずく感じて、私は思わず視線を逸らした。
でも、そんな私の気持ちなんてお見通しだったのか、総司様は何も言わずに私の手を取る。
私は驚いて顔を上げ、総司様の綺麗な瞳を見つめ返した。


「僕と過ごすのは、そんなに面倒?」


その声音には、少しだけ淋しさが混じっているように感じた。
いつもなら軽い冗談に紛らせてしまうような言葉なのに、今だけは真っ直ぐに届いて、私は慌てて首を横に振った。


『違います、そんなことは思っていません』

「じゃあ、どうしてそんなに困った顔してるの?」

『総司様が気遣ってくださるのは嬉しいですし、ありがたいと思っています。でも、それと同じくらい申し訳なくもなるのです。総司様には三人も奥様がいらっしゃいますから、私に構わずご家族と過ごして頂きたいんです』

「また、その話?前にも話したと思うけど、気にしなくていいよ。そんなこと気にしてるのはセラ嬢だけだよ」

『そうでしょうか?私、想像してみたんです。もし私が総司様の奥様だったらって。そうしたら、私はとても悲しくなりました。たとえ他意がなくても、お仕事だから仕方がないのだとしても、自分の旦那様が他の女性ばかり構っていたら、私はとても嫌です』


だって、それが人の心というものだから。
どれほど我慢できたとしても、何も感じていないわけではない。
淋しいものは淋しくて、悲しいものは悲しい。
それを胸の奥にしまって笑っていられることと、最初から何も思わないことは同じではないと思う。
だから私は、自分の考えを誤魔化さず、できるだけまっすぐに伝えたつもりだった。
それなのに、なぜか総司様は少し嬉しそうに目を細めて微笑んでいる。
その表情を見ていると、私の言葉が一体どんなふうに届いたのか疑問を感じた。


「……そっか。わかった。セラ嬢のその気持ちはちゃんと覚えておくよ」

『本当にわかってくださったのですか?』

「うん。それに、子供の時も言ってたもんね。他の人と分けっこしたくないって。だから、僕は君を一番に優先するよ」


その言葉を聞いて、頭の中が混乱して思考が一度止まった。
何かがおかしい。
私は自分が奥様だったら悲しいと思うと話したはずなのに、どうして総司様はそんなふうに答えるんだろう。
話が噛み合っていない気がするのは気のせい?


『いえ、違います。私が言いたいのはそうではなくて、総司様は奥様方を優先させてくださいという意味です』

「だから、それは君が気にする必要はないって何度も言ってるじゃない」

『それでは私の言いたいことがきちんと伝わってないということではないですか』

「ちゃんと伝わってるよ。セラ嬢が心配することは何もないから大丈夫」


そう言って、総司様はいつものようににっこりと微笑んだ。
まるで、それですべて話は済んだとでもいうように、私の手を包んだまま穏やかに笑っている。
いつもなら、言葉を交わせばきちんと分かり合えるのに、どういうわけか今夜の総司様には、私の言葉がうまく届いていないような気がする。
どうしても納得できなくて、私は思わず首を傾げた。


『伝わっているのでしたら、今日はご家族と過ごされれてくださいね?』

「このお屋敷に住んでるんだから、君も家族みたいなものでしょ?」

『全然違いますよ……。総司様のご家族は三人の奥様方だけです。私は家族ではありません』


はっきりと告げると、私の手を包んでいた総司様の手が離れていく。
さっきまで感じていた温もりが消えてしまったことに、少し淋しさを感じた。
けれど、それを悟られないように指先を握ると、総司様はふっと笑い、私から視線を逸らした。


「わかってるよ。君は僕と家族になるのが嫌で婚約を破棄したんだもんね」


まさか、そんな言葉を聞くことになるとは思っていなかったから、心を不意に掴まれたような気がして、私は息を呑む。
でも、それは違う。
私は自分の意思で婚約を破棄したわけじゃない。
互いの母親の件で婚約が破棄されたあとも、私の気持ちは少しも変わらなかった。
幼い頃から大切に思っていた総司様と、いつか本当の家族になれたらいいと、あの頃の私は心から願っていたから。
けれど、今さらそんなことを伝えるわけにはいかなかった。
総司様には、すでに将来を共にする奥様方がいる。
そして私にも、将来を約束した薫様がいる。
過ぎ去った時間の中に置き去りにしてきたはずの想いを、今になって拾い上げることなど許されない。
喉元まで込み上げた言葉を飲み込むことは苦しくあったけど、胸の痛みに耐えるように一度ゆっくり息を吸い、私はそっと微笑んだ。


『私は、そんなことを思ったことは一度もありませんよ。ただ、今の状況の話をしただけです』

「そう。まあ、いいけど。それに、今夜は屋敷に誰もいないよ」

『そうなのですか?』

「うん。千は昨日の夜会の後から友人の屋敷に泊まってるみたいだし、リーシェはあの画家と出掛けてる。ニコラも今日は西部の歌劇を見に行っててまだ帰ってきてないしね」


今日は一日中雨が降っていたせいで、私は部屋の外には一度も出られていない。
屋敷の中がそんな状況になっていることなんて、全く知らなかった。
総司様はそんな私の顔をじっと見つめると、どこか困ったように微笑んだ。


「だから君に会いにきたんだけど、それでも出て行かないと駄目?」


奥様方のこととは別に、今度は薫様の顔まで心に浮かぶ。総司様と二人で過ごすことを断るべきなのか、それとも気にしすぎている私がおかしいのか、考えれば考えるほど分からなくなってしまう。
そんな私の迷いを見ていた総司様が、ふいに手元にあった小ぶりな箱を差し出した。


「これ、美味しそうだと思って君に買ってきたんだ」


そう言って、総司様は柔らかく笑った。
蓋の隙間から甘い香りが漂ってくる。
きっと、私が好きそうなものを選んでくださったのだろう。
そのことが嬉しくて、それと同時に善意で気遣ってくださる人の申し出を無下に断ることもできなくて、私はそっと箱に手を伸ばした。


『……ありがとうございます。折角なので一緒に食べましょう?』


その言葉を聞いた総司様は、目を細めて優しく微笑んだ。
その笑顔はアストリアで何度も見てきた私の大好きだった頃の総司様を思い出させて、心が甘く疼くような痛みを覚えた。
あの頃とは何もかも違うのに、総司様と二人でいると、心だけがあの頃に戻ってしまったような錯覚に陥る。
これから先も、昔と同じように隣に座って、笑い合って、穏やかな時間を過ごせるのではないかと、そんな叶わない夢を見てしまいそうになる。
それほどまでに、総司様の隣にいる時間は心地よかった。


「うん、ありがとう」


どうして総司様がお礼を言うのだろうと思ったけど、柔らかく微笑むその顔を見たら、そんな言葉さえ飲み込まれていく。
箱の蓋を開くと、中には淡い砂糖衣をまとった小さな焼き菓子が綺麗に並んでいる。
見ただけで心が浮き立つような可愛らしさに、思わず頬が緩んだ。


『綺麗ですね』

「うん。君なら喜ぶかなって思って」


その何気ない言葉に、また心が温かくなる。
私は焼き菓子をひとつ手に取り、総司様にも差し出した。


『総司様もどうぞ』


総司様は嬉しそうにそれを受け取った。

窓の外では、まだ雨が降っている。
遠くで雷が鳴ったけど、今はもうあまり怖くはなかった。
昔に戻ることはできないし、きっと戻ってはいけない。
それでも今だけは、この穏やかな時間を大切にしてもいいのかもしれない。
そんな小さな願いを胸にしまいながら、総司様を見つめていた。

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