4
総司様が買ってきてくれたお菓子は、とても美味しくて、口にするたびに甘い幸福が身体中に広がっていくようだった。
でも夢中になって食べていると、ふと見つめられているような気配を感じる。
何気なく隣を見れば、総司様が手にしたお菓子にはほとんど手をつけず、ぼんやりと私の姿を眺めていた。
そのことに気づけば恥ずかしくなってしまい、私は逃げるように俯いて、顔を髪の陰に隠した。
「なんで隠すの?」
『食べているところを見られてしまうの恥ずかしいですし、落ち着かないからです』
「そうなんだ。僕は君の食べている姿を見るのが昔から好きなんだけど」
そういえば、昔もそうだったかもしれない。
総司様は目の前にお菓子があっても、自分ではあまり口にせず、私が嬉しそうに何かを頬張っている姿を眺めては微笑んでいた。
幼い頃の私は総司様が見守っていてくれることが嬉しかったけど、大きくなった今は少し恥ずかしく感じてしまう。
『総司様は食べないのですか?』
六個入りだったお菓子は、もう残り二個しかない。
そのうち三個は私が食べてしまっていて、総司様が口にしたのは、たった一つだけだった。
「僕はいいよ。セラ嬢が食べて」
『私もお腹いっぱいです。明日エイミーと一緒に頂いてもいいですか?』
「勿論いいよ。本当に君はあの使用人が好きなんだね」
『はい、大好きです。とってもいい子ですから』
優しい使用人なら、このお屋敷にもたくさんいる。
けれど、エイミーはただ優しいだけではなく、時には同じ目線で話してくれて、私が何かを言えば笑ってくれる。
そのことが、私はとても嬉しかった。
「そっか。良かったね、気が合うみたいで」
『はい。総司様のお陰です。それで、もし可能でしたら……』
「うん?」
『いつか私がこのお屋敷を出ることになった時、エイミーにも一緒について来てもらうことは出来ますでしょうか?』
総司様は私の言葉を聞くと、少しだけ目を瞬かせた。
それから可笑しそうに口元を緩め、まるで大した願いではないと言うように、あっさりと頷いてくださった。
「構わないよ。君の世話はこれからもエイミーにしてもらえばいいよ」
『本当によろしいのですか?』
「うん。エイミーもそれを望むだろうし、僕は止めないよ」
『ありがとうございます、とっても嬉しいです』
思い切って尋ねてみて、本当に良かった。
この屋敷を離れる日のことを考えると不安にはなるけど、エイミーがそばにいてくれるのなら、それだけで心強く思えた。
頼りない未来に小さな灯りがともったような気がして、嬉しさを隠しきれず、自然と頬が緩んでしまう。
「なんか、凄く嬉しそうだけど。セラ嬢は早くこの屋敷から出て行きたい?」
思いがけない言葉が飛んできて、私は思わず目を見開いた。
『いいえ、そういうわけではありません。ただエイミーと離れ離れにならなくて済むことが嬉しかっただけです』
「あの使用人のことはやたら気にかけるのに、セラ嬢は僕と離れることには何も思わないんだね」
『え?いえ、そういうわけでも……』
「ここを出ても僕とはまた会えるのか、とか一切聞いてこないじゃない」
総司様は私にとって大切な方だ。
けれど奥様や側室の方々がいらっしゃる総司様に向かって、またお会いできますか、なんて私から気軽に尋ねられるはずがない。
たとえもう会えなくなるかもしれないと淋しく思っていても、それを口にする勇気はなかった。
それでも、総司様がそう尋ねてくださったのなら、聞いてみてもいいのかもしれないと、私は唇を開いた。
『ここを出ても総司様とはまたお会いできますか?』
「なんか、無理矢理聞かせたみたいだね」
『ええ?違います。無理矢理お尋ねしたわけではないです』
「別にいいよ。セラ嬢が僕のことを何とも思ってないことはわかってるし。むしろ会えなくなる方が、君にとっては良いことなのかもしれないけどね」
素っ気なく返された言葉を聞いて、私は瞬きをした。
どうしたんだろう、今日の総司様。
もしかして、機嫌が悪い?
折角早くにお屋敷に戻られたのに、奥様方が一人もいらっしゃらないから退屈している……とか?
どう答えるべきかと返答に悩んでいると、私が話すより先に、総司様がいつものようにふっと笑った。
「なんてね」
そう言って見せたのは、ここ最近の少し意地悪な総司様の笑顔。
今の言葉をはちょっとしたいつもの意地悪だったんだろうか。
よくわからないまま首を傾げていると、総司様は眉を下げて再び私を見つめた。
「腕の傷痕はどう?見せてくれる?」
ここ最近は以前程頻繁に傷痕を見せてはいなかったから、私は頷き、寝着袖を捲った。
あの薬のおかげで火傷の痕は綺麗に治っていたけど、鋭利なもので傷付けられた痕はまだいくつか残っていた。
「あと少しだね。これ……ちゃんと消えるかな」
総司様はそう言って、左腕にあるフォークで何度か抉られた部分の傷痕を優しく撫でた。
『消えますよ。どんどん薄くなっていますし、このくらいなら気になりません』
「でもたとえ消えたとしても、凄く痛かったよね。この残ってる傷は、敢えて痛めつけるように、複数回重ねて負わされた傷だろうし」
『今は痛くないので大丈夫ですよ。そんなに気にされないでください』
総司様はこの傷を見る度、申し訳なさそうな顔をしてしまう。
総司様のせいではないし、あれ以降、総司様は私の安全を徹底的に考え、こうして時間が出来れば私の様子を確かめに来てくれる。
それだけで十分ありがたいから、私は笑ってそう告げた。
「気にするよ。まさか、あんなことをする使用人が屋敷内に紛れてるとは思ってなかったけど、あの件をきっかけに雇う人間のことはよく調べるようになったんだ」
『総司様がそうしてくださったから、エイミーがとても良い子なんですね』
「エイミーにはよく言い聞かせてるし、君に害をなすことはない筈だよ。でも、もし今後誰かにまた意地悪されたらすぐに僕に教えて」
総司様は真剣な様子でそう言ってくださるけど、ふと以前耳にした話が頭を過ぎる。
アルディオン公爵邸で突如いなくなったと言われる数人の使用人の方々のこと。
もし本当に消えてしまった方がいるなら、この件と関係があるのではないかと考えてしまった。
でも、立ち入ったことを総司様に尋ねるわけにもいかず、お礼と一緒に微笑みを返した時。
部屋の扉が、二回ノックされた。
『どなたでしょう?』
「僕がここにいるのを知ってるのは相馬くらいだし、多分相馬じゃないかな」
総司様がそう言って立ち上がり、部屋の扉を開けると、部屋の外にいたのは本当に相馬卿だった。
会釈をして部屋の中に通されると、再び私の隣に腰掛けた総司様を見据え、真剣な顔付きで言葉を紡いだ。
「今しがた、ニコラ様の護衛をしていた者から伝令が届きました。帰路の途中、馬車が西側の森林内で暴走し、そのまま行方がわからなくなっているとのことです」
思いもよらない知らせに、私は思わず目を見開いた。
反射的に窓の外を見れば、先ほどから降り続いていた雨はますます激しさを増し、空では雷鳴が低く轟いている。
窓硝子を叩く雨音までが、何かよくないことを告げているように聞こえて、胸の奥がざわざわと落ち着かなくなった。
こんな嵐のような天候の中で、ニコラ様はいったいどこにいらっしゃるのだろう。
ご無事なのだろうか。
そんな思いが次々と浮かび、私は膝の上でそっと指を握り合わせながら、お二人の会話に耳を澄ませた。
「そう。捜索はしてるの?」
「はい。護衛の者と、近くの衛兵にも報告を入れ、捜索を行っているとのことです」
「わかった。じゃあ、そのまま捜索を続けてもらうしかないね。また何かあれば僕まで報告するように指示を出しておいて」
「承知いたしました」
総司様はそれだけを聞くと、もう話は済んだとばかりに、静かに紅茶のカップを手に取った。
そのあまりにも平然とした様子を前にしていると、胸の内に募っていた不安を抑えきれず、私は思わず口を開いていた。
『……総司様?ニコラ様を探しに行かれないのですか?』
総司様が落ち着いていることが不思議でならなかった。
こんな激しい雨の中で、側室であるニコラ様の行方がわからなくなっているというのに、動揺する様子すらなく、いつものように紅茶を飲んでいる。
「うん、行かないよ。明日も早朝から外せない仕事があるしね」
『ですが……今はそんなことを言っている場合ではないと思います。ニコラ様がいらっしゃる場所もわからなくて、この雨です。もし何かあったらと思うと、総司様ご自身が探しに行かれた方がいいのではないですか?』
「大丈夫だよ。僕じゃなくても捜索はできるからね。護衛も衛兵も動いているんだし、僕が行ったところで捜索する人間が一人増えるだけだよ。それに、こんな天気の中で僕まで現地に向かえば明日の仕事にも支障が出るし、周りに余計な負担をかけることになるでしょ?」
「隊長のおっしゃる通りです」
相馬卿が穏やかな声で続ける。
「ニコラ様の行方がわからなくなったのは、帝国内とはいえかなり西側の端の区域です。この時間では列車も動いておりませんから、今から隊長が向かわれたとしても、到着までかなりの時間を要してしまいます。まして、この悪天候です。今は捜索を続けている者たちからの連絡を待ち、状況に応じて対応することが最善かと思いますよ」
相馬卿はそう言って、いつものように柔らかな笑みを浮かべていた。
その言葉を聞けば、確かに無闇に現地に向かうことが正しいとは限らないのだとわかる。
総司様が行かなくても捜索は続けられるし、今この瞬間に何かできるわけでもない。
それは理屈としては十分に理解できた。
だけど、仕事があるから、距離があるから、自分が行っても捜索する人間が一人増えるだけだから……という正論だけで決めてしまってよいことなのだろうかと思えてならなかった。
総司様なら、大切な方が行方を失えば、どれほど遠くても、どれほど危険でも、きっと探しに行かれると思っていたから。
「相馬、報告ありがとう。もう下がっていいよ」
「承知いたしました。また新たな情報が入りましたら、その都度ご報告いたします」
「うん、よろしくね」
総司様がにこやかにそう告げると、相馬卿も穏やかに一礼し、そのまま部屋を出て行く。
私は落ち着かない気持ちのまま、もう一度総司様に声をかけた。
『やっぱり、ニコラ様を探しに行った方がいいのではないでしょうか。こんな嵐の中で一人きりなら、心細くて仕方がないと思います。きっと総司様が来てくださると信じて待っていらっしゃるはずですから、総司様がニコラ様を見つけて差し上げた方がいいのではないですか?』
そう口にすると、あの日の記憶が鮮明によみがえった。
先日の狩猟会で、崖から落ちてしまった日のこと。
身体の痛みよりも、誰にも見つけてもらえないかもしれないという恐怖の方がずっと大きかった。
それでもあの絶望の中で、総司様ならきっと私を探してくださっていると思うことだけが希望だった。
本当に来てくれるかどうかなんて、その時の私にはわからなかったけど、実際に総司様が私を見つけてくれた瞬間に込み上げた安堵を、私は今でも忘れられない。
私を見つけてくれた人が他の誰でもなく総司様だったことが、嬉しかった。
だからあの日の私と同じように、総司様が来てくれると信じて、暗い森の中で耐えているのかもしれないニコラ様を、総司様が救って差し上げて欲しいと思った。
「セラ嬢の言いたいことはわかるよ。それに僕もこう見えてニコラのことは心配してるし、早く見つかって欲しいと思ってる。でも僕は感情のまま動けるような立場にいないんだよ。一介の騎士なら多少の融通はきくかもしれないけど、僕は帝国の剣であり、僕の代わりが務まる者はこの帝国にいない。それはニコラも理解してくれている筈だよ」
『ですが、理解していることと、淋しくないことは別だと思いませんか?』
「……うん?」
総司様は若干困った様子で微笑んでいる。
私の立場で総司様にものを申すのは気が引けたけど、言葉を選びながら再び総司様に告げた。
『ニコラ様もきっと、総司様が帝国のためにお仕事をされていることも、ご自分だけを優先できないことも、ちゃんとわかっていらっしゃると思います。でも……だからといって、それを淋しく思わないわけではないと思うんです。それに、人の気持ちはそういう正しい理由だけで抑えられるほど単純ではありません。なので、正しいことがいつも一番いいこととは限らないと思います』
思い切って伝えた言葉を聞いて、総司様はふっと微笑みを深くした。
「そうだね。人の気持ちは正しい理由だけでは抑えられないっていうの、凄くよくわかるよ。正しいことがいつも一番いいこととは限らないってこともね」
『良かった……』
思わず安堵してしまった私を見て、総司様は小さく笑った。
けれど、その笑みを崩さないまま彼は言った。
「だから僕は捜索には行かないよ。それが僕のとるべき正しい行動だったとしてもね」
『……どうしてですか?』
「どうしてって、さっき話した通りだよ」
総司様は穏やかに答えながら、冷めかけた紅茶を一口飲んだ。
「僕には僕なりの考えがあるんだ。今、僕が探しに行く必要はない。捜索を任せられる人間もいるし、僕がここを離れたからといって、ニコラが早く見つかるとも限らない。それなら僕は、自分がやるべきことをするよ」
『でも……』
「うん?」
『それでも、もし総司様が行けば、ニコラ様も安心されると思います』
「そうかもしれないね。でも、それと僕が行くかどうかは別の話だよ」
はっきりとそう告げられて、私は言葉に詰まった。
「セラ嬢が言っていることが間違っているとは思ってないよ。ニコラが不安に思っているかもしれないことも、僕が探しに来ることを信じてることもわかってる。だけど、だからといって僕までその気持ちのまま動かなきゃいけないわけじゃないでしょ?」
『…………』
「僕は自分の立場も、今やるべきことも、自分で考えた上でここにいるんだよ。誰かに言われたからそうしているわけじゃない。まして、何も考えずにニコラを放っておこうとしているわけでもないんだ」
その声音はいつもと同じで優しかった。
ただ、どれだけ言葉を重ねても、この人の決意が揺らぐことはないのだと感じさせる強さがあった。
『……私が何を言っても、総司様は行かれないんですね』
「うん、行かないよ」
『明日のお仕事は……』
「もちろん、いつも通り行くよ」
『朝になって、ニコラ様がまだ見つかっていなくても……ですか?』
「うん。何も変わらないかな」
そう言い切った総司様を見つめていると、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。
ここまで話しても総司様の考えが変わらないのなら、私がこれ以上言葉を重ねるのは失礼にあたる。
総司様には総司様の責任があり、私には知らない事情もあるのだろうから。
『……わかりました。総司様が決められたことに口を出してしまって、申し訳ありませんでした』
「謝らなくていいよ。セラ嬢はニコラのことを心配してくれたんでしょ?」
『……はい』
「優しいね、セラ嬢は」
『優しいとかではないです……』
ただ放っておけないんだと思う。
自分も同じ状況になったことがあるからこそ、ニコラ様の心細さがわかってしまうから。
『……どうか、早く見つかりますように』
「そうだね。でも、ニコラならきっと大丈夫だよ」
その言葉を聞いて、私は少しだけ安心した。
総司様がそう言ってくださるのなら、本当にそうなのかもしれないと思うことができたから。
総司様はそんな私を見て、いつものように優しく微笑んでくれている。
だから私は、その笑顔の奥に隠されたものなんて、何も知らなかった。
ページ:
トップページへ