5

雨の音だけが絶え間なく響く部屋の中、僕は隣に座るセラ嬢をそっと横目で見た。
彼女は膝の上で手を重ねたまま、ぼんやりと何かを考え込んでいるようだった。
昨晩、メルディックと交わした会話が関係しているのか。
それとも、僕がニコラの捜索に加わろうとしないことを、どこか腑に落ちないと思っているのか。
どちらにせよ、僕に対して何かしら複雑な思いを抱いていることだけは間違いないだろう。
けれど僕はニコラの失踪について、何も知らない人間であるように振る舞う必要がある。
相馬がこの部屋を訪れ、ニコラの失踪を知らせるという筋書きも、あらかじめ僕が用意していたものの一つだった。
屋敷に仕える者たちは皆、セラ嬢を傷付けた一件の中心にニコラがいたことを知っている。
それほどのことをしでかしたニコラに何の処罰もなく、しかも僕だけが捜索にも関わらないとなれば、不自然に思う者が出てもおかしくはない。
だからこそ僕は、今日一日、誰かしらの目が届く場所で過ごすことにしていた。


「セラ嬢、眠い?」


僕が声をかけると、彼女はふいに我に返ったように顔を上げ、少し驚いた様子で僕を見つめた。


『いいえ。まだ眠くありません。どうしてそう思われたのですか?』

「さっきから随分と静かだからさ。ぼんやりしている顔を見ていたら、昨日あまり眠れなかったのかなって思ったんだよ。昨夜は薬がなくても、ちゃんと眠れた?」

『はい。大丈夫です。昨夜も変わらず朝までぐっすり眠れましたから、心配なさらないでください』

「それなら良かったよ」


今日、皇帝陛下と話した際、アストリアとの講和について、あと一月ほどで正式に履行されたと認められる見込みだという話が出た。
つまり、この子の処遇が正式に決まる日も、もう遠くない。
そうなれば、このもどかしい距離を気にする必要もなくなる。
誰の目を気にすることもなく、セラ嬢に手を伸ばすことができると思うと、その日が来るのが待ち遠しかった。


「そういえば、今日陛下と少し君の話をしたんだ。あと一月ほどで、君の今後について正式に決められるそうだよ」


その言葉を聞いた途端、彼女の碧い瞳が大きく揺れた。


『そうなんですね。私は、どうなるのでしょうか?』

「それはまだ僕の口からは言えないかな。君には、もう少し待ってもらわないと」

『……言えないということは、もう決まってはいるのですね』


そう言った彼女は、それ以上を尋ねようとはしなかった。
ただ少し緊張したように唇を結び、膝の上に置いた指を静かに重ね直している。
その仕草を眺めながら、僕は心に渦巻く苦いものを、いつもの笑顔の下に隠した。

僕の側室になるのだと告げた時、この子はいったいどんな顔をするのだろう。
そう考えると、今から怖くなることもある。
きっと、素直に喜んでくれるわけではないだろうし、僕を拒むかもしれない。
それでも、たとえ嫌がられたとしても、僕はこの子にちゃんと優しくしてあげたいと思っている。
優しく愛でて、たくさんの愛情を注いで、そしていつかまた昔みたいに、この子が僕を好きになってくれたらいいと願っていた。


「そうだね。セラ嬢が気に入るかどうかはわからないけど」

『つまり、お相手がいらっしゃるということですか?』


呟くように尋ねたセラ嬢の言葉に、僕はすぐには答えず、ただ静かに微笑んだ。
その沈黙を肯定と受け取ったんだろう。
碧い瞳が再び揺らぎ、見る間に不安の色が滲んでいく。
そして何かを堪えるようにそっと瞳を伏せたから、僕は優しく言葉を続けた。


「そんなに不安に思わなくても大丈夫だよ。帝国内で正式な立場を得ることになれば、それは君を守るための大きな盾になるんだ。今みたいに身分の曖昧な客人として扱われるのとは違って、正式に帝国の人間として認められることになるからね」

『はい……』

「慣れると帝国の暮らしは楽しいよ。おいしい料理も、良い店も沢山あるし、東部程ではなくても自然だって豊かだ。ヴェルメル程寒さに厳しくないし、綺麗な屋敷でなに不自由ない生活ができる。今はまだ不安に思うかもしれないけど、そこまで悲観するようなことじゃないと思うよ」


セラ嬢は僅かに潤んだ瞳で僕を見つめながら、僕の言葉を真剣に聞いて何度も頷いている。
今にも泣き出してしまいそうなのに、それでも僕の言葉を信じ、懸命に前向きなものとして受け止めようとしている姿が愛らしくて、僕の頬は自然と緩んだ。


「それにセラは優しくていい子だから、大切にしてもらえるよ。だから、心配しなくても大丈夫」


目の前の彼女があまりにも心細そうな顔をしていたから、伸ばした指先を止めることができなかった。
柔らかな髪にそっと触れ、乱れていた一房を指先で整えるように優しく撫でる。
セラ嬢は驚いたように瞬きをしたけど、身を引くことはなかった。
ただ、潤んだ瞳を静かに僕に向けているその表情を見ていると、もっと安心させてあげたいと思ってしまう。


「帝国のことがよく分からなくても、少しずつ慣れていけばいいよ。僕もその手助けはするつもりでいるから、いつでも頼って」


セラ嬢を側室に迎える頃には、この子のために用意している別邸も完成しているだろう。
教会で盛大な式を挙げて、僕はセラ嬢と別邸で幸せに暮らすんだ。
朝になれば同じ屋敷で目を覚まし、仕事を終えれば帰る場所には彼女がいる。
そんな暮らしが、もうそう遠くない未来に待っているのだと思うと、心が温かくなった。
仕事が今まで通り忙しいことに変わりはないけど、陛下からは結婚した後、まとめて休暇を取ることも許されている。
これまでほとんど休むことなく帝国のために働いてきた僕に対する、陛下なりの配慮なのだろう。
その休暇を使えば、セラ嬢とゆっくり過ごす時間もたくさん作れるだろうと考えていた。


『ありがとうございます。帝国内に総司様がいらっしゃると思うと心強いです。それに不安はあっても、私にはどんな役目が与えていただけるのか楽しみでもあるんです』

「役目?」

『総司様も以前仰っていたでしょう?帝国で私にはたすべき大事なお役目があるって。そのお役目をまっとうしながら、帝国で私に出来ることを探していきたいんです』

「そっか。いい心がけだね」

『ふふ』


セラ嬢は先程の不安を飲み込むように、笑顔で僕に笑いかけてくれる。
その笑顔を眺めていると、きっとこの先も彼女は彼女らしく前を向いて生きていくのだろうと思えた。
役目という言葉で言うのであれば、この子には将来僕との子を産み、生涯僕の隣で生きてもらいたい。
結婚した後も、今と変わらない明るい笑顔を見せてくれるだろうと、そんな未来を自然に思い描いてしまう。


「セラ嬢は花や自然が今も好きだし、読書も変わらず好きだよね。星空を眺めるのも、まだ好き?」


突然の僕からの質問にセラ嬢は目を瞬かせたけど、ふわりと微笑み頷いた。


『はい、好きですよ。通っていた学院では星界学の授業を取っていたんです。星座について知っていくうちに、夜空を眺めることが以前よりもっと好きになりました』

「そっか。それなら楽器を弾くのは?」

『好きです。ピアノやヴァイオリンが特に』

「昔と変わってないんだね。それを聞いて安心したよ」


建設途中の別邸には、僕が覚えている幼い頃のセラ嬢が好んでいたものを、できる限り詰め込ませている。
でも五年以上もの間、僕たちは一度も言葉を交わしていなかった。
その長い年月の中で、彼女の好みが変わってしまっていたとしても、僕には確かめる術がなかった。
だからこそ、こうして本人の口から昔と変わらない好みを聞けたことが嬉しかった。


『どうしてですか?』


安心した僕を不思議そうに見つめながら、セラ嬢が小首を傾げる。
その仕草まで昔と変わらなくて、思わず笑みがこぼれそうになった。


「僕の知っている幼い頃のセラ嬢が、今も残っていてくれて良かったってことかな」


ずっと好きだった。
幼い頃から、大切で堪らなかった。
だからこそ再会したばかりの頃は、僕の記憶の中にいるセラ嬢がもうどこにもいないのではないかという不安があった。
長い年月を隔てれば、人は変わる。
好きだったものも、笑い方も、誰かを信じる心さえも変わってしまうことがある。
実際、再会したばかりの僕たちは互いにどう接すればいいのか分からず、些細なことから口論になったこともあった。

でも少しずつ同じ時間を重ねるうちに、目の前にいる彼女は僕が大好きだった頃のセラ嬢と何も変わってないと知った。
そして気づいた時には、僕はもう一度、成長した彼女に惹かれていた。
昔とは違う美しさを纏いながら、それでも変わらない優しさや素直さを持った彼女が、どうしようもなく愛おしかった。
何をしていても目で追ってしまうし、楽しそうに笑っている姿を見るだけで嬉しくなる。
少し寂しそうに瞳を伏せれば、その理由を知りたくなる。
今だって、本当ならその細い肩を抱き寄せて、この想いを告げたくてたまらない。
でも今はまだ、僕の感情を彼女に悟らせるわけにはいかない。
こうして綺麗な瞳の中に僕の姿を映してくれているだけで今は十分だと思うようにしていた。


『総司様もそのように思ってくれるのですね』


セラ嬢ははにかむように微笑み、どこか遠慮がちな様子で僕を見上げた。


『ここに来たばかりの頃……ヴァルモンでたくさんドレスを買っていただいた日に、総司様と口論してしまった時のことを覚えていらっしゃいますか?』


もちろん覚えている。
というより、忘れろと言われたところで、あの日のことは忘れられるはずがない。
あの時のセラ嬢が流した涙は、僕の胸を抉るほど痛々しかったのに、その泣き顔さえ愛おしいと思ってしまうほど、僕の心を強く揺さぶったから。


「覚えてるよ。沢山君を泣かせちゃった時のことだよね」

『あの時はごめんなさい。気持ちに余裕がなかったみたいで、心の中がぐちゃぐちゃになってしまって』

「いや、あれは僕の方が悪かったよ。君が辛い状況にいたのに、色々ときつい言い方をしちゃったからさ」

『いいえ、私の方こそ謝らなければいけません。総司様が強くなるために、どれほど努力を重ねてこられたのか、私は知っていたはずなのに……それなのに、総司様を傷つけるようなことを言ってしまいました』

「気にしてないから大丈夫だよ。だからそんな顔しないで」


そう言って笑いかけると、セラ嬢はしゅんと眉を下げたまま、それでも少しだけ安心したように表情を和らげた。
けれど、あの日のことについては、僕自身にもずっと心の奥に引っかかっているものがある。
あの時、彼女があれほど涙を流した理由を、僕は本当の意味では理解できていない。
だからこそ僕はずっと抱えていた疑問を口にした。


「あの時、僕は君をたくさん泣かせちゃったけどさ。今になっても、どうして君があんなふうに泣いたのか、僕にはよく分からないんだ。もし話してもいいと思うなら、聞かせてくれる?」


あまり上手な尋ね方ではなかったかもしれない。
今さらそんなことを聞くのかと呆れられる可能性だってある。
それでも、ずっと心に残っていた疑問だったから、できることならきちんと知っておきたかった。
僕が何気なく口にした言葉の何が彼女をあれほど傷つけたのか、それを知らないままでは、あの日の記憶を僕の中だけで勝手に片づけることなどできない。
セラ嬢の顔をじっと見つめながら返事を待っていると、彼女は少し照れたように笑い、恥ずかしそうに視線を落とした。


『総司様が、私を悲しませるような意地悪を仰ったからですよ?』

「それは……ごめん。あの時はいろいろと言っちゃったと思うんだけど、僕の言葉の中で、君が一番悲しかったのはどれだったの?」


また妙な聞き方になってしまったらしく、セラ嬢はくすりと小さく笑った。
その笑みに呆れた様子も、怒っている気配もなかったから、僕は内心ほっとしながら彼女の次の言葉を待つ。
するとセラ嬢はしばらく迷うように唇を閉じ、それから静かに顔を上げた。


『総司様はあの時、仰ったんです。君の好きだった僕は、とっくの昔にいなくなったよって』


その言葉を聞いて、僕は思わず目を瞬かせた。
あの日のことを思い返せば、心当たりはいくつもある。
セラ嬢の素行を疑うようなことを言ったし、東部の騎士を小馬鹿にするような言葉も口にした。
挙げ句の果てには、昔は可愛かったのに、なんて今思えば子供じみた意地悪まで言っていたはずだ。
けれど、彼女の口から出てきたのは、そのどれでもなかった。


「え……もしかして、それで泣いたの?」

『はい。おかしいですよね。でもなんだかとても悲しくなってしまったんです。だって……総司様には、昔からたくさん素敵なところがあったでしょう?優しくしてくださったことも、私が困っている時に助けてくださったことも、覚えています。それなのに、それを全部ご本人から否定されたような気がしてしまったんです。目の前にいるのは間違いなく総司様なのに、もう昔の総司様とは別人なのかもしれないと思ったら……それが、どうしても悲しくて、受け入れられなかったんです』


あの日のセラ嬢は、悲しそうに涙を溢れさせていた。
そしてそれだけではなく、珍しく怒ってもいた。
僕と話すことさえ拒み、僕を部屋から追い出すほどに、頑なな態度を見せていた。
僕はずっと、アストリアを攻めた僕を恨んでいるからだと思っていた。
東部から来た彼女にとって、僕は故郷を奪った側の人間なのだから、嫌われても仕方がないと思っていた。
けれど、今になってようやく分かった気がする。
あの時の彼女が受け入れられなかったのは、今の僕そのものではなかったのかもしれない。
きっと彼女は、僕が思っていた以上に、幼い頃の僕を大切に覚えていてくれたのかもしれないと気づいた。


「その言葉が君を泣かせたなんて、考えてもみなかったよ」

『ふふ。やっぱり総司様は女心には少し疎いのですね』

「そう言われちゃうと耳が痛いんだけどね。でも、今ならわかるよ。僕も今の君が、昔の君とあまりにも違う人になってたら、複雑な気持ちになると思うからさ」

『総司様がそう思ってくださることは嬉しいです』


セラ嬢は、昔から本当に変わらない。
打算も駆け引きもなく、自分が感じたことを、そのまま僕に伝えてくれる。
今も柔らかな微笑みを浮かべ、昔と変わらない眼差しで僕を見つめていた。
でもこの子の真っ直ぐさは心地良い反面、時に自分の醜さをより浮き彫りにさせる。
今僕は昔の僕とは違うからこそ、その事実にいずれセラ嬢が気付いた時、彼女を失望させてしまうのではないかと心に影がさすのも事実だった。


「セラ嬢はさ、今の僕が昔と変わっていないと思う?」


幼い頃の僕は、彼女にとって優しく穏やかな少年だった。
いつも笑っていて、彼女が望むことなら何でもしてあげたいと思っていたし、彼女が嬉しそうにしていれば、それだけで満たされていた。
けれど、実際は僕が今とは違う人間だったからではない。
あの頃は、ただうまく隠し通せていただけだ。

僕は昔から、セラ嬢を誰よりも大切に思っていたし、誰にも渡したくないと思っていた。
できることなら、ずっと自分の隣にいてほしいと願っていたし、その瞳に別の男が映るだけで怒りが湧いた。
でもあの頃はセラ嬢も僕を好いてくれていたから、僕の中にあった強過ぎる想いが醜い形を取ることはなかった。
彼女を縛らなくても、奪おうとしなくても、彼女自身が僕を選んでくれていたのだから。

でも婚約が破棄され、彼女が僕から離れて初めて、僕の中にあるものは隠しているだけでは済まなくなった。
無理に帝国へ連れてきたことも、これから彼女を生涯僕の隣に縛りつけようとしていることも、昔の僕なら決して見せなかった冷たい顔を彼女の前に晒していることもそうだ。
けれど、それら全ては新しく生まれた感情ではなかった。
愛おしいと思うほど、離れていく彼女が憎らしい。
僕ではない誰かの隣で笑うなんて許せない。
できることなら、誰にも奪われないように、僕以外の者の目に触れさせないように閉じ込めてしまいたい。
そんなことを考えてしまう危うさは、昔から僕の中にあった。

だから、僕が変わったのかどうかなんて、本当は自分が一番よく知っている。
少なくとも、セラ嬢に向ける気持ちだけは、昔から何ひとつ変わっていない。
ただ、昔は彼女が僕の隣にいたから、気付かれなかっただけなんだ。
それでも、彼女に訊いてみたくなった。
きっと、どちらの答えをもらっても、僕は逃げられると思ったからだ。
なぜなら、彼女はまだ本当の僕を知らない。
僕がずっと、知られないようにしてきたんだから。


『変わっていないと思います』


セラは迷うことなくそう答えて、それから少しだけ首を傾げた。


『少し前に一緒に出かけた時にも、やっぱり昔の総司様のままだと感じました。お話をしている時の雰囲気も、私をからかうようなところも昔と同じで、なんだか懐かしくて嬉しかったです』


そう言って、ふわりと笑う。
けれど、すぐにその笑顔を少しだけ和らげると、考えるように言葉を続けた。


『もちろん、昔と今では違うところもあると思います。私も昔の私とは違いますし、総司様だって、あの頃にはなかった経験をたくさんされているのでしょうから。でも、それは人が変わったということとは、少し違うような気がします』

「そういうものなのかな」

『はい。だってどちらの総司様も私には同じ方に見えるんです。優しくしてくださるところも、意地悪を言って私を困らせるところも、それから私にはまだ分からないことがあるところも。だから私は、変わっていないと答えたいです』


セラ嬢の答えは、僕の予想通りだった。
でも分からないところがあっても、それを含めて僕を僕として見てくれている。
昔の僕と今の僕、その間にどれだけの時間が流れていても、彼女が覚えている僕の姿を、今の僕の中にも見つけてくれている。
それが、どうしようもなく心地よかった。
何もかも知られてしまうことよりも、分からないものを分からないまま受け止めてもらえることのほうが、今の僕にはありがたい。
だから僕もセラ嬢に微笑み返し、告げることにした。


「それなら君も変わってないってことだね」


その言葉を聞いて、彼女は嬉しそうに笑う。
僕はただその笑顔を見つめていた。


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