8

ニコラが失踪したという建前の報せが届いた翌日も、僕は何事もなかったかのように普段通りの任務をこなし、一日の務めを果たして屋敷に戻った。
僕が指示した通り、ニコラは人目につかないよう秘密裏に運ばれ、アルディオン公爵家の地下牢に収容されているらしい。
目的を誰にも悟られずに果たすのなら、ここ以上に都合のいい場所はないという判断だった。
限られた者しか立ち入ることを許されない公爵家の地下牢なら、外部の人間に見られる心配もないし、そもそも日常的に罪人を裁いている僕がこの場所に足を運んだところで、誰も不審には思わない。
その日に誰を断罪したのか、いちいち僕に尋ねる者などいるはずもなかった。
だからこそ、僕の計画は至って単純だった。
地下牢でニコラの処刑を済ませ、その亡骸だけを彼女が失踪したとされる森に戻す。
そうすれば、彼女の行方を探す者達の視線を僕から逸らしたまま、すべてを終わらせることができるというものだった。


「隊長、お疲れさん」


地下牢の入り口まで辿り着くと、念のため見張りとして立たせていた三木が声をかけてきた。


「お疲れ様。武田は?」

「中で罪人を見張ってる。ぎゃーぎゃー騒いで、煩いったらねえぞ」

「想像がつくな。でも、煩いのも今だけだよ。もう少ししたら静かになるから」


何気ない調子でそう告げると、三木は何とも言えない苦笑を浮かべた。
静かになるというより、二度とその口から声を聞くことができなくなるという意味だと、きっと分かっているんだろう。


「じゃあ、ちょっと片付けてくるね」


軽く手を振って地下牢の中に入ると、冷えた石壁に反響して、奥から甲高い怒声が聞こえてきた。
牢の前では武田が腕を組んだまま立っていて、すっかり聞き飽きたとでも言いたげに深々と息を吐いている。
けれど僕に気付いた途端、その鋭い瞳が僅かに見開かれた。


「待っていたぞ。随分と遅かったではないか」

「ごめん。少し仕事が長引いてね」

「総司様……!?」


僕の声に気付いたニコラが、弾かれたように顔を上げた。
次の瞬間には牢の柵を両手で掴み、激しく揺さぶって、金属の乾いた音を地下牢いっぱいに響かせた。


「総司様!助けてください……!この人達が私をこんな場所に閉じ込めて……っ」

「ニコラ、大丈夫だからそんなに騒がなくていいよ。今、牢を開けるから」


泣き声混じりの訴えを止めるため、あくまで穏やかな声でそう告げる。
するとニコラは、それまで張り詰めていた表情をわずかに緩め、ようやく安心したように息を吐いた。


「武田、もうここはいいよ。三木と一緒に外で待機していてくれる?」

「承知した」


武田から牢の鍵を受け取ると、立ち去っていく背中をしばらく見送った。
それから僕はゆっくりと牢の中に視線を戻す。
牢の中、右足首だけを鎖で繋がれたニコラは、僕を見上げながら、濡れた瞳を不安そうに揺らしていた。


「総司様、怖かったです……!目を覚ましたら、いきなりこんな牢屋に入れられていたんですよ?ここはいったいどこなんですか?」


眠っている間に箱に入れて運ばれてきたんだから、この場所に足を踏み入れたことのないニコラが、ここがどこなのか分からないのも当然だった。
僕はそんな彼女を見て、僅かに口元を緩めながら、手にした鍵を錠前に差し込んだ。


「ここは、君がよく知っている場所だよ」

「え……?どこですか?ニコラ、こんな場所には来たことがありません」

「まあ、地下牢そのものはそうだろうね。でも、この上の階なら君だっていつも歩いているでしょ?」


カチャン、と小さな音が響き、錠が外れる。
重い牢の扉がゆっくりと開くと、ニコラは安堵したように微笑み、それでもまだ状況が飲み込めないのか、小首を傾げながら僕を見つめていた。


「ここはアルディオン公爵家の屋敷の中だよ。僕がいつも罪人を処刑してる場所」
 

そう教えてあげると、彼女は納得したように頷いた。
でも薄暗い石造りの地下牢に漂う冷気と、鼻につく鉄錆びたような臭いに耐えられないのか、顔をしかめながら僕を見上げた。


「そうなんですね……。初めて来たので、全然わかりませんでした。それに、ここは血の臭いがして気持ち悪いです。総司様、早くニコラを助けてくださいませんか?」


そう言いながら、ニコラは床に座り込んだまま、僕に甘えるように両手を広げた。
自分が置かれている状況を、まだ何ひとつ理解していないらしい。
僕は敢えて彼女の前にしゃがみ込み、安心させるような笑みを浮かべた。


「そんなに慌てなくてもいいじゃない。ここには今、君と僕の二人しかいないし、大きな声を出しても周りには絶対聞こえないよ。誰にも邪魔されずに過ごすには、絶好の場所だと思わない?」


僕の言葉を聞いた途端、ニコラはぱちりと目を瞬かせた。
どうやら、僕の言葉を別の意味に受け取ったらしい。
頬を赤く染めると、警戒するどころか嬉しそうに顔を綻ばせた。


「確かにここはニコラと総司様の二人きりですけど……。総司様との初めてがこんな汚いところなんて嫌ですよ」

「そうかな?どうせぐちゃぐちゃに濡れちゃうんだから、いいじゃない」

「やだ、総司様……!そんなこと仰るなんて、ニコラ恥ずかしいです」

「でも僕はずっと我慢してたんだよ。君を見るたびに抑えられなくなりそうでさ。今日まで必死に耐えてきたけど、もうそろそろ我慢の限界なんだよね」

「嬉しい……。そんなに私のことを?」

「ねえ、いいでしょ?」


ニコラの肩にそっと手を置き耳元で囁くと、彼女の身体がぴくりと揺れた。
ヘーゼル色の潤んだ瞳には情欲が滲み、喉がなる音も聞こえてくる。


「総司様がそこまで仰るなら、いいですよ。思う存分、ニコラをめちゃくちゃにして?」


ようやくセラ嬢に対して卑劣な行いをしたこの女を裁く時が来たのだと思えば、僕の頬には自然と笑みが浮かぶ。
ニコラはそんな僕の笑みを見て、ますます嬉しそうに表情を緩めた。
けれど僕が立ち上がって腰の剣を抜くと、その顔から笑みが消えた。
まるで目の前にあるものが信じられないとでもいうように、ニコラは呆然と僕を見上げている。


「……え、どうして剣を……?」

「君の要望通り、めちゃくちゃにしようかと思ってね」

「で、でも……剣なんて必要ないですよね?あ、もしかしてこの剣で私のドレスを破るとか……そういう遊びですか?」

「まさか。この剣はそんなくだらないことには使わないよ。今までも人の血肉を斬るために振るってきたものだし、それはこれから先も変わらないよ」


ニコラは床に座ったまま、ほんの僅かに身体を後ろへ引いた。
けれど、その動きに合わせて足元の鎖がガチャンと鳴る。
その音を聞いたことで、ようやく自分が逃げられない状態にあることを思い出したのだろう。
ニコラの顔から、みるみる血の気が引いていった。


「総司様?冗談ですよね?ニコラを斬ったりしませんよね?」

「どうして?君には、斬られなければならない理由なんてないとでも言いたいの?」

「ないですよ……!誰の指示なんですか?皇帝陛下ですか!?誰が私を断罪しようとしているのかは知りませんが、私は無実です……!」

「残念だけど、陛下のご命令ではないし、君を裁けなんて命令は誰からも受けてないよ。現に君は、劇場からの帰りに森で行方不明になったことになっているからね」

「それは……どういうことですか?では、なぜ総司様は私を……」

「決まってるじゃない」


僕は剣を手にしたまま、怯えきったニコラを静かに見下ろした。
ここまで来れば、もう隠しておく必要もない。
ずっと被っていた仮面をようやく外せるのだと思えば、自分でもわかるほど冷たい声が出ていた。


「君を殺したいほど憎んでいるからだよ。僕がなぜ腹を立てているのか……分かるよね?」


いつも穏やかな顔を崩さずに接していたからだろう。
僕が隠しようもない憎しみを宿した目でニコラを見据えると、彼女の瞳にはたちまち涙が溜まり、動揺したように唇が震えた。


「わ、私が……何を……」

「へえ、分からないんだ。余計に苛立つんだけど」

「も、申し訳ありません……。以前、側室として任されていた仕事の中で、帳簿のお金を少し誤魔化して、そのお金で自分の欲しかったものを買ってしまったことですか……?」

「は?違うけど」

「それでは……あの件ですね?他家の方々の前で、私に都合の良いように公爵家の内情を話してしまったことを……本当に申し訳なく思っています」

「全然違うんだけど。というか、君……最悪だね。そんなことまでしてたんだ。まあ、それも今日までだけどね」


僕の言葉を聞いた途端、ニコラの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
先ほどまで僕から少しでも距離を取ろうとしていたくせに、今度は縋るように僕の足元に手を伸ばし、必死な顔で僕を見上げてくる。


「総司様、ごめんなさい……!もうしません!これからは何も悪いことをしませんから、どうか許してください……!」

「もうしないって言われてもね。君は、自分の何が悪かったのかすら理解していないじゃない」

「教えていただければ、必ず改めますから……!どんなことでも直します。ですから、どうかもう一度だけ機会をください……!」


生き延びる機会を与えるつもりなんて、最初からなかった。
ただ、ニコラはセラ嬢にしたことを心から悔いて死ぬべきだ。
そうでなければ、僕が自らの手でこの女を裁く意味がない。
だから僕は足元に縋りつくニコラを見下ろしたまま、静かな声で告げた。


「僕が怒っているのはね、君が僕の大切な子を傷つけたからだよ」

「……大切な……子……?」

「おかしな食事を与えて、何度も傷つけて。しまいには、僕が止めなければ熱い紅茶をあの子の顔にかけるところだったよね。本当にどんな神経をしているのかって疑うよ」


ニコラはまるで信じられない言葉を聞かされたように目を見開いたまま、しばらく身動きひとつしなかった。
おそらく彼女の中では、セラ嬢に対して繰り返してきた嫌がらせなど、誰かに咎められるほどのことではなかったんだろう。
自分の気が済めば、それで終わる程度の些細な出来事として、とっくに過去のものにしていたに違いない。


「……え?それは……セラ嬢が東部から招かれた大切な来賓だから……?」

「違うよ。そもそも、あの子をここに連れてきたのは僕の意思なんだ。僕が昔から添い遂げたいと思っているのは、あの子ただ一人だからね。でも、セラ嬢を連れてくるためには、僕にも色々と準備が必要だった。家門を大きくするために、君達との政略結婚も受け入れざるを得なかった。でもまさかその中に、あの子を無意味に傷付けるような愚か者がいるとは思わなかったけど」


ニコラは愕然とした表情で僕を見上げていた。
自分がどれほど取り返しのつかないことを、浅はかな気持ちで重ねてきたのか、その意味だけはようやく理解し始めたらしい。


「僕は君との婚約が決まる前に言ったはずだよ。僕達の結婚は互いの家門のための政略結婚だから、僕に夫としての役割なんて何ひとつ期待するなって。互いに干渉しないこと、それから家に不利益をもたらすような行いをしないこと。その二つさえ守ってくれれば、僕だって約束通り、君に何不自由のない生活を保証するつもりだったのにね」

「も、申し訳ありません……!セラ嬢には、これからうんと優しくします。それに、ニコラは仲良くできます!ドレスや宝石だって、あの方に分けて差し上げてもいいですし、それに……っ」

「意味が分からないな。そんなもので、あの卑劣な行いがなかったことになるとでも思っているの?」

「でも……!確かに悪いことはしましたけど、私はセラ嬢の命を奪ってはいません……!それなのに、どうして……っ」

「処刑されるほどの罪じゃない、とでも言いたいの?残念だけど、そもそもセラ嬢と君とでは、僕にとっての命の価値がまったく違うんだよ。あの子の綺麗な肌に、あんな酷い傷をつけてさ……まだ、消えていないんだけど。君はそれをどう責任取ってくれるの?」

「ご、ごめんなさ……」

「正直に言えば、君が死んだところで相殺なんてできないんだよ。でも、セラ嬢を苦しめた奴が普通に生きてるなんて僕が許せないからさ。せいぜい重い罪を犯したことを十分に後悔して死んでね」


僕が剣を構えれば、ニコラは鎖に繋がれた右足を必死に引きずるようにして後ずさる。
僕はゆっくりと歩み寄り、剣を構えたまま、ふっと低く笑った。


「逃げようとしても無駄だよ。僕が逃すと思う?」


そう言いながら、まず彼女の左腕を掴み、剣先をその内側に突き立てた。


「いやあ……!やめて……!」

「君はこうやって何度も何度もセラ嬢の腕を繰り返し傷付けたよね。ねえ、覚えてる?あの子がどれだけ痛がって、どれだけ泣いてたか。やめてって言っても君はやめなかったでしょ?」

「ひぎゃあっ……!や、やめて……痛い、痛いよぉ……!」

「当然でしょ。だって、君がやったことと同じなんだから」


剣は引き抜かず、同じ場所を何度も深くえぐるように動かし続ける。
刃を捻り筋肉を切り裂き血管を抉ると、鮮血が勢いよく噴き出し、僕の腕と胸を赤く染めた。


「ゔっ……あ、うう……」

「……すごい血だね。でも君はセラ嬢を何度も傷付けたんだから、この程度じゃ済まないよ」


今度はニコラの右の腕にも同じことを繰り返す。
両腕がぐちゃぐちゃに裂け、骨が見えるほどえぐられるたび、彼女は泣き叫び、鎖を激しく鳴らしてのたうち回った。


「ひいっ……ぅゔゔ……っああ……っ」

「あはは、すごい声。もっと出して?セラ嬢も、こんな風に泣いてたんだよ。可哀想に」


床にもだえて苦しむニコラの足首をつかみ、今度は思い切り腿を斬った。
太腿の内側を深く切り裂き、剣先を入れてから横に引きずるように抉ると、動脈が切れて血が噴水のように高く舞い上がった。
熱い返り血が顔にかかり、目に入り、口の中にまで入る。


「君の血、熱いね。でも気持ちいいよ。だって、これで少しはあの子が報われる気がするから」


今度は腹を浅く斬り、腸が覗く程度に裂くと、ニコラは体を大きく反らせ、血泡を吐きながらもがいている。
そして僕の手を掴むと、痛みから強い力で僕の手の甲に爪を立ててきた。


「う、うぐっ……は、はなっ……じ、て……死にだぐなっ……お願い……」

「死にたくない?そんなの、今更じゃない。セラ嬢だって、傷付けられたくなかったよ。なのに何度も、何度も酷いことをして笑ってたのは君でしょ?」


背中を壁に押しつけたまま、脇腹を何度も刺し、引き抜くたびに血が僕の全身に浴びせられる。
僕の服まですでにどす黒く染まり、顔も髪も、手が真っ赤だった。


「あははは……!すごいね!こんなに血を出してもまだ死なないとか、どれだけしぶといのさ」


腹をもう一度深く刺すと、ニコラの悲鳴は次第にかすれ、血を吐きながら小さく抽泣くだけになった。
体中が裂け、血にまみれ、床に広がる血溜まりの中で小刻みに痙攣している。
最後に、僕は剣を彼女の胸に、心臓を避けるようにして何度も突き刺した。
肺を貫き、血を詰まらせ、苦し紛れに空気を求めて口を開かせる。
返り血がまた顔に飛び、目を開けていられないほどだった。


「ちゃんと死んでね、ニコラ。セラ嬢の代わりは、君の命じゃ到底足りないけど……せめて、こうして苦しんでくれたことには、少しだけ満足してあげるよ」


掠れた吐息とともに、ニコラの体から力が抜けた。
全身を血に染め、右足だけを鎖に繋がれたまま、石床に崩れるように倒れる。
瞳は虚ろで、口からは絶え間なく血が溢れ、それからはもう動かなかった。
僕は血まみれの剣を下げ、静かに息を吐いた。
顔も、髪も、服も、手も、すべてが彼女の血でべっとりと赤く染まっている。
地下牢の空気は、濃厚な血の匂いに満たされていた。


「……これで、少しは気が済んだかな」


この血に汚れた身体を、まずは綺麗に洗い流そう。
それから、セラ嬢に会いに行くんだ。
ニコラがこの世から消えたことはまだ言えないけど、あの子を傷付けていた元凶のひとつを、ようやく僕自身の手で取り除けたことに安堵が込み上げてくる。

これからも僕が君を護るよ。
君を苦しめる者がいるのなら、その者を一人残らず僕達の前から消していく。
君がもう二度と傷付かず、何にも怯えることなく穏やかに笑っていられるのなら、僕はどんな手段だって選ぶつもりはない。
そうしてひとつずつ邪魔なものを取り除いていけば、いつか僕と君が何の憂いもなく幸せに暮らせる未来だって、きっと手に入れられるよね。

だからどうか今日も、いつもの可愛い笑顔を見せてほしい。
僕がどんなことをしてきたのかなんて何も知らないまま、僕を見て笑ってくれますように。


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