10

セラ嬢の部屋を訪ねると、今夜は珍しく渋ることもなく、僕が部屋で過ごすことを許してくれた。
昨晩と同じようにソファーに横並びで腰を下らし、ニコラのことを心配している様子で言葉を返していると、隣に座るセラ嬢の大きな碧眼が申し訳なさそうに揺れた。


『総司様がニコラ様を案じて心苦しくしていらっしゃる時に、私……寝てしまってごめんなさい』


そう言って、セラ嬢は頭を下げた。
何のことかと思えば、どうやら昨晩のことを気にしていたらしい。
薬が効いていたのだから眠ってしまったのは仕方のないことだし、僕にとっては眠りに落ちたセラ嬢と過ごす時間も、何にも代えがたいほど幸せなものだった。
だから、謝る必要なんて全くないのに。


「謝らないでよ。セラ嬢が一緒にいてくれたから、僕も随分と気が紛れたよ」

『ですが、総司様が私を寝台まで運んでくださったのですよね?』

「うん、だってソファーで眠ったままだったら身体を冷やしちゃうでしょ」

『ありがとうございます。お手数をおかけしてしまって、本当に申し訳ないです……』

「だから、そんなに恐縮することじゃないってば。僕がしたくてしたことなんだから、君が気に病む必要なんてないよ」


そう言って笑うと、セラ嬢はちらりと僕を見上げた。
まだ少し申し訳なさを残した瞳だったけど、やがてその表情がふっと和らぎ、恥ずかしそうにはにかんだ笑みが浮かぶ。
その様子が可愛すぎて一度思考が止まってしまったけど、僕も微笑み返して、寝着の懐に入れてあった小さな箱を取り出した。


「はい。今日はこれを持ってきたんだ。お土産だよ」

『え?今日もですか?こんな毎日のように頂いてしまって、本当に宜しいのでしょうか?』

「もちろん。開けてみて」

『ふふ、何でしょう。昨日はフィナンシェでしたから、今日はクッキーでしょうか。それともチョコレートかな』


まだ箱の中身を見てもいないというのに、すっかりお菓子だと思い込んでいるらしい。
期待に満ちた瞳を輝かせながら小箱を見つめる姿が愛らしくて、思わず笑みが零れた。
けれど、蓋を開けたセラ嬢は、僕の想像以上に嬉しそうな顔をした。
中に収められていた小さな品を取り出し、両手の中で大切そうに眺めている。


『わあ……オルゴール?』

「うん。街で丁度見かけて、なんとなく君に似合いそうだと思ったんだ。寝る前にお菓子ばかりあげていたら、そのうち君が子豚になっちゃいそうだったしね」

『もう、子豚とは何ですか?太っても、永遠に女の子です』


頬を僅かに膨らませて抗議するものの、すぐにくすくすと笑いながら、セラ嬢はオルゴールの側面に付いた小さな巻き鍵に指を添え、ゆっくりと回していった。
静かな室内に流れた澄んだ旋律を耳にすると、セラ嬢の表情がぱっと明るくなった。


『あ、この曲!私の大好きな曲です』

「そうなの?それなら選んだ甲斐があったな。ちなみに、何ていう曲?」

『Greensleevesです。オルゴールで聴けるなんて、とっても幸せです。総司様、素敵なプレゼントをどうもありがとうございます。大切にしますね。毎日聞きます』


オルゴールなんて、子供向けの贈り物みたいなものだと思っていたけど、セラ嬢は想像していたよりもずっと喜んでくれていた。
手のひらに乗せた小さなオルゴールを愛おしそうに眺める横顔を、僕もまた、何より大切なものを見るような気持ちで眺めていた。

それに、オルゴールを彼女に贈るのは、今回が初めてではない。
まだ幼かった頃、僕は一度、同じようにオルゴールを贈ったことがある。
手紙と一緒に小さな包みを用意して、ヴェルメルからアストリアへ、遠い距離を越えて届けた贈り物だった。
セラ嬢は、もう覚えていないかもしれない。
それでも僕がオルゴールを贈ったのは、音色を聞くたびに、幼い僕たちのことを思い出してほしかったからだ。
言葉にできなかった想いを、せめてその音色に託して、彼女の記憶の片隅に残しておいて欲しい。
そんなことは都合のいい話だとわかっていても、願わずにはいられなかった。


「気に入ってもらえたなら良かったよ」


それに僕の大好きな、セラ嬢の笑顔を見ることができた。
君を苦めたニコラには、僕がしっかり罰を与えておいたからね。
そう心の中で呟いた時、セラ嬢がふと思い出したように僕に話しかけてきた。


『総司様にオルゴールをいただくのは二回目ですね』

「昔あげたこと覚えててくれてるの?」

『勿論です』


そう答えた彼女は、僕が返事をするより先にソファーから立ち上がり、部屋の隅に置かれた机へと歩いていった。
何をするつもりなのかと黙って見つめていると、机の下に置かれた台から、アストリアから持ってきた生形の収納箱を大事そうに取り出している。
側面に並んだ数字を順番に押して暗証番号を合わせると、控えめな音を立てて開いた錠を外し、中から小さなものを取り出した。
それを両手で包むようにして持ったまま、彼女は僕のところまで戻ってくる。


『これ、総司様が昔に贈ってくださったオルゴールです』


絵本の時同様、オルゴールまで捨てられずにセラ嬢の手元に残っていた事実に、僕は思わず目を見開く。


「え、これ……本当に僕があげたやつ?」

『そうですよ。ほら』


セラ嬢がオルゴールを回すと、儚い音色でキラキラ星が流れる。
その音を聞いて、間違いなく僕が贈ったものだとわかったからこそ、驚きからすぐに言葉が出なかった。


「……これも、持っててくれたんだね」

『はい。大切な宝物ですから』


それは……どういう意味なんだろう。
ただ、このオルゴールの音色が好きだから大事にしているだけなのか。
それとも彼女は優しいから、誰かの厚意で受け取ったものなら、それがどんな小さな贈り物であっても粗末にはできないのだろうか。
もしそうなら、僕だけが勝手に意味を持たせてしまうのは滑稽な話だ。
本当のところを聞いてみたいと思った。
でも余計な問いを投げてしまえば、隠しているものまで彼女に悟られてしまうかもしれない。
だから僕は僅かな動揺や、変に期待してしまう気持ちを誤魔化すように、意図的に笑った。


「あの収納箱の中には、色々な人からの贈り物が入ってるの?」

『そうですね。全てではないですけど、特に思い出深いものが入っています』

「へえ、それは気になるな。中、見てもいい?」


そう尋ねてみると、セラ嬢は目を見開き、思いのほか大きく首を横に振った。


『それは絶対に駄目です』

「え?どうして?」

『どうしてもです』


あまりにきっぱりと言い切るものだから、僕は思わず苦笑いをした。


「なにそれ。僕に見られたら困るものでも入ってるの?」

『困るというか……あれは、色々な方との思い出がたくさん詰まっているので、あまり他の方には見せたくないんです。私が何を大切にしているのか、全部知られてしまうのは恥ずかしいので……』


そう言ったセラ嬢は、幼い頃にもよく見せていたように、指先をわずかにもじもじと重ねながら、困ったように眉を下げた。
そんな仕草を見せられてしまえば、余計に中身が気になってしまう。
僕の知らない彼女の思い出が、あの小さな箱の中にいくつも眠っていると思うと、どんなものが大切にしまわれているのか、誰からのものなのか、確かめてみたい気持ちはどうしても湧いてきた。
でも無理を言って嫌われでもしたら困るし、今は大人しく諦めておくほうがいいだろう。


「ふうん。つまり、あの箱にはセラ嬢の恥ずかしい思い出が、たくさん詰まってるってことなんだね」

『ち、違います……!おかしなまとめ方をしないでください』

「でも、見られたら困る思い出なんてある?」

『困ると言うより、恥ずかしいのでお見せたくないんです』

「結局、恥ずかしい思い出なんじゃない」


少し意地悪に言ってみれば、セラ嬢の片頬がぷくっと膨らんだ。
昔から変わらないその表情が妙に可愛らしくて、僕は堪えきれずに笑ってしまう。
でもいつまでもからかっていたら本当に機嫌を損ねそうだから、それ以上は追及せず、手元のオルゴールに視線を落とした。
僕が巻き鍵をゆっくり回すと、先ほどと同じ儚い旋律が静かに流れ始める。
その音色を聞きながら顔を上げると、セラ嬢が僕の手元をじっと見つめて、心配そうに眉を下げていた。


『総司様、手……怪我されてますよ?』


視線を落とすと、右手の甲には先程ニコラを断罪した際に負った傷がいくつも残っていた。
彼女が激しく抵抗した拍子に爪を立てられたもので、ところどころ表皮が削れ、赤く滲んでいる。
僕にとっては大した傷ではないけど、その傷を見つめるセラ嬢の瞳は、明らかに揺れていた。
この傷がどんな経緯でついたかなんてきっと見破られることはないだろうけど、余計な心配をさせたくなくて、僕は何でもないことのように笑った。


「この程度、かすり傷だし気にしないで」

『でも、痛そうですよ。皮が剥がれてしまっているところもありますし……ちゃんと消毒はしましたか?』

「湯浴みをして清潔にしてきたから平気だよ」

『わかりました。でしたら、お薬だけ塗りましょう?』


そう言ってセラ嬢は立ち上がると、寝台の脇にある戸棚を開けて、そこから彼女の腕の傷痕に塗っている薬瓶を取り出す。
再び僕の隣に腰を下ろすと、傷口に優しく薬を塗ってくれた。
やがて薬と一緒に用意されていた白いハンカチを広げると、セラ嬢は僕の手を包むようにして、それを傷の上から丁寧に巻きつける。
その間ずっと伝わってくる彼女の手の温もりが優しくて、まるでとても大切に扱われているような錯覚を覚えてしまう。
こうして誰かに手当てをしてもらうことなんていつ以来だろうと、胸の奥が甘く疼くのを感じていた。


「ありがとう。手当てしてくれて」

『いいえ。どんな傷でも、ばい菌が入ってしまったら良くないので、朝まではこうしていてくださいね』

「うん、そうするよ」

『他には怪我しているところはありませんか?セラ先生が手当てして差し上げますよ』


セラ嬢は明るく笑ってそう言った。
でもその何気ない言葉の奥には、僕を心配して気遣う優しさが滲んでいた。

僕はこれまで、戦場でどれほど傷を負おうと立ち止まることなく敵を斬り伏せてきた。
どんな危険を伴う任務であろうと、周囲からは僕なら問題なく成し遂げるだろうと信じられていたし、そのくらいに僕は自他共に認めるほど強かった。
だから任務を終えて戻れば、皆が期待したような眼差しを僕に向ける。
何人倒したのか、どれほどの敵を退けたのか、どんな成果を上げたのか。
皆が知りたがるのは、いつだって僕が残した結果ばかりだった。
その結果を得るために、僕がどれだけ傷を負ったのかなんて、自分自身を含めて誰も気に留めることはなかった。

でも、セラ嬢だけは昔から違った。
僕が危険の伴う場所から戻ってくると、彼女が真っ先に尋ねるのは、怪我はないか、痛いところはないか、辛い思いをしなかったか。
そんなことばかりを、僕の顔を覗き込みながら心配してくれる。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
自分が何者なのかも、どれほど強くあらねばならないのかも忘れてしまいそうになるほど、その温かさが心地良い。
気恥ずかしく思いながらも、その優しさに触れていると、つい彼女に甘えてしまいたくなる気持ちまで、顔を出してしまうようだった。


「他にはないよ。それに、前にも言ったでしょ。傷を負うことには慣れてるから、そんなに気にしないで」

『気にしないではいられません』

「どうして?痛くないから平気だってば」


勿論、僕だって普通の人間だ。
皮膚を削られれば痛むし、傷が深ければ当然それなりの苦痛もある。
ただ、痛いからといって立ち止まっていられるような場所に、僕は身を置いてこなかった。痛みなど自分の中で押し殺してしまえばいいものだった。
誰かに弱さを見せることを、人一倍嫌っていた僕がそう言うと、セラ嬢はまるで僕の言葉ではなく、その言葉の奥にあるものを見つめるように、じっと僕を見つめていた。


『総司様がいくら痛くない、平気だって仰っても、気になります。私は総司様のお身体が傷付いているのを見ると、悲しくなるから』


その瞳はいつになく真剣で、昔の彼女を思い出させるような眼差しだった。
だから今も僕のことをそれなりに大切に想ってくれているのではないか。なんていう都合のいい考えが心を掠めてしまう。
でも、セラ嬢は自分でも何かに気付いたようにはっと目を伏せると、少し困ったような微笑みを浮かべて言葉を続けた。


『それに私だけじゃありません。奥様方は私より総司様のお身体のことを心配されてると思います。なので、総司様にはご自身のことを大切にして頂きたいんです。怪我をしたら、きちんと手当てはしてください』


柔らかく告げられた言葉には、僕との間に一線を引こうとする遠慮が滲んでいた。
それなのに淋しくさが湧かなかったのは、彼女が僕を遠ざけたいわけではなく、妻を持つ僕の立場を気遣って、慎重に言葉を選んでくれているのだと、今はわかるからだ。


「そうだね。これからは気をつけるよ」


そう返すと、セラ嬢は安心したように瞳を細め、ふわりと微笑んだ。
その笑顔が愛らしくて、僕はしばらく何も言わず、その表情を眺めていた。
どうしてだろう。
この子の隣にいると、昔から肩に力を入れて生きてきたことさえ忘れられる。
こうして静かに言葉を交わしているだけなのに、長い間、自分の中に積もらせてきた醜さも、冷たさも、少しずつ薄れて浄化されていくような気がしていた。

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