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ああ……またか、そう思った。
結局、僕はいつだってセラ嬢に選んでもらえない。
どんなに手を伸ばして掴もうとしても、最後には決まって僕の指の間からすり抜けていく。
僕を見る眼差しはいつも柔らかくて、時折見せる笑顔には、僕を信じてくれているのだと思わせるような温もりさえある。
それなのに肝心なところでは必ず僕ではない誰かを選ぶ。
その事実だけは、何度繰り返しても変わらない。
僕に心を許しているように見えたとしても、最後に突きつけられる答えこそが、今の僕たちのすべてなのだと思い知らされる。
「よかろう。では本日をもって、セラ嬢の返還を承諾する」
陛下がそう告げた時、胸の奥がひどく冷えた。
陛下にとっても、決して容易な決断ではなかったのだろう。
僕との約束を反故にすることだって、きっと望んでいたわけではない。
それでも帝国の未来と僕との私的な約束を秤にかければ、答えは最初から決まっていた。
僕だって、こうなる可能性くらいは考えていたはずなのに、実際にその言葉を聞かされると、思っていた以上に胸が痛んだ。
まるで長い間大切に抱えていたものを、目の前で静かに奪われたような感覚だった。
その後は講和に伴う新たな取り決めが交わされ、すべての話が終わる頃には、もう日も傾きかけていた。
本日付で帝国の預かり人ではなくなったセラ嬢は、身支度を整えたうえで、このまま王太子とはじめ君と一緒に帝国を離れることになっている。
僕はそんな彼女と二人で馬車に乗り込み、向かいの席に腰を下ろすと、胸の内に渦巻く苛立ちを悟られないよう、窓の外へ視線を向けていた。
『総司様、本日はお時間を作っていただき、ありがとうございました。そして……今日まで本当にお世話になりました』
やがて聞こえてきた声の方向に視線を向けると、セラ嬢は丁寧な所作で頭を下げていた。
顔を上げた彼女と視線が重なると、その瞳は僅かに潤んでいて、別れを惜しんでいるようにも見えたけど、今の僕にはその表情さえ素直に受け止められなかった。
「いいえ。アストリアに戻れることになって良かったね」
努めていつも通りに笑ってみせる。
僕がどれほど腹の底で苛立っていたとしても、今ここで余計なことをするつもりはない。
僕の言葉を聞いたセラ嬢は少しだけ瞳を揺らし、それから伏し目がちに微笑んだ。
『はい。父や友人にまた会えると思うと、嬉しいです』
「みんな、君の帰りを待ってるんじゃないかな。近藤閣下も、きっと喜ぶだろうね」
『……そうですね』
それだけ告げると、馬車の中には再び沈黙が落ちた。
セラ嬢は何か言おうとしては言葉を飲み込み、膝の上でそっと指を重ねている。
僕はそんな彼女の様子を向かい側から眺めながら、次に何を口にするつもりなのか、ただ黙って待っていた。
やがて彼女は小さく息を吸うと、意を決したように顔を上げる。
『今日、驚きました。私の処遇のこと……総司様のご側室にしていただく予定だったのですね』
そうだよ、最初からそのつもりだった。
君を帝国に連れて来たのは、君をアルディオン公爵家に正式に迎えるためだったし、そのために一年半近い時間を費やして、僕なりに準備を重ねてきた。
陛下との約束も、君を護るために整えた環境も、アルディオン公爵家での扱いを改めさせたことも、すべてはいつか君が僕の隣で幸せそうに微笑んでくれる未来のためだった。
それなのに、今こうして振り返ってみれば、その時間も労力も、すべて今日という日のために積み重ねてきたようにしか思えなくて、胸の奥に鈍い痛みが広がっていく。
「まあ、僕も話していなかったんだから、驚くのは当然だよね」
『はい……。そのようなお話があるなんて、少しも考えていませんでしたから』
「どうして?」
『私たちの家同士は昔色々ありましたし……それに、総司様にはもう奥様やご側室の方々がいらっしゃいますでしょう?』
「側室の数なんて、北部ではそれほど大した意味を持たないよ。僕みたいに家の都合で妻を迎える貴族もいれば、自分の好きなように女性を囲う者だって珍しくないからね」
『そうなのですね』
再び馬車の中が静かになると、セラ嬢は何かを考えるように膝元に視線を落とした。
僕はそんな彼女を向かいから眺めながら、胸の奥に込み上げるものをどうにか押し殺していた。
明日になれば、この子はいなくなる。
そう思うだけで、今まで当たり前のように僕の目の前にあった姿が、ひどく遠いものに感じられてしまう。
だからせめて今だけは、その面差しも、その姿も目に焼き付けるように眺めていた。
『……総司様』
「ん?」
『アストリアに戻ったら……総司様にお手紙を書いてもよろしいでしょうか?』
セラ嬢は僕の反応を窺うように一度だけ瞳を揺らし、それから慌てた様子で言葉を続けた。
『もちろん、一通だけです。無事にアストリアに戻れたことをご報告して、それから……改めて、今までのお礼をお伝えしたいと思ったんです』
律儀なセラ嬢らしい言葉だった。
きっと本人にとっては、それが礼儀なのだろう。
それに、わざわざ一通だけと言ったのも、僕が既に妻を持つ身だから、余計な迷惑をかけないよう気遣っているに違いない。
でも、僕にとってセラ嬢から届く手紙というものには、あまり良い思い出がない。
正確には僕の心を深く抉ったのは最後の一通だけだったけど、それでもあの便箋に綴られていた言葉を思い出すことはしたくなかった。
「手紙なんていらないよ」
『……え?』
「僕のことは気にしなくていいからさ。君はアストリアに戻ったら、久しぶりに会う家族や友人たちとゆっくり過ごしなよ。きっと君が帰ってくるのを、みんな心待ちにしているんだろうから」
できるだけ穏やかな声でそう告げると、セラ嬢は少し驚いたように僕を見つめた。
僕の言葉をただの気遣いだと思ったのか、それとももう手紙を寄越さなくていいという拒絶だと感じたのか、それは僕にもわからない。
ただ彼女は何も尋ねることなく、淋しそうに微笑んで小さく頷いた。
それからしばらくして、また静寂が落ちた。
けれど今度は、先ほどまでとは少し違っていた。
セラ嬢は何度か躊躇うように唇を開きかけては閉じ、やがて意を決したように僕の名を呼ぶ。
顔を上げた彼女の瞳はうっすらと潤んでいて、何かを一生懸命伝えようとしているのがわかった。
その姿が昔のままで、僕が大切にしていたあの頃のセラ嬢と何も変わらない彼女を目の前にして、胸の奥がどうしようもなく疼いた。
『帝国に来たばかりの頃は、何もわからなくて、とても不安でした。でも、総司様がいつも気にかけてくださって、沢山助けてくださったから、公爵邸でも穏やかに過ごせるようになりました。それに……総司様とまたお話しできたことも嬉しかったです。一緒にお出かけしたり、帝国内の色々な景色を見たりできたことも、私にとって大切な思い出になりました。それからエイミーも本当に優しくて可愛らしい子ですし……帝国に来る前は、こんなふうに思える日が来るなんて想像もしていませんでした』
その声には隠しきれない淋しさが滲んでいたけど、セラ嬢は懸命に笑っていた。
『アストリアに戻れることは、本当に嬉しいです。父や友人たちにまた会えるのが、ずっと待ち遠しかったですから。でも帝国を離れることを思うと、少しだけ淋しいとも思ってしまうんです。そう思えるようになったのは総司様のおかげです。総司様がいてくださったから、私はこの国で過ごした時間を、嬉しかったことや幸せだったこととして覚えていられるのだと思います』
そして少しだけ目元を緩めると、彼女は僕をまっすぐに見つめた。
『ですから……ありがとうございました。明日からは遠い東部に戻ってしまいますけど、これからもどうかお元気でいてください。総司様が帝国のためにご活躍されることを、アストリアからずっと願っています。私も総司様に助けていただいたことを忘れずに、向こうで元気に過ごしますから……どうか安心してくださいね』
胸の奥に、鈍い痛みが広がっていく。
そんな顔で、そんな言葉を僕に向けないでほしい。
君にとって僕は、帝国で辛い思いをしていた自分を支えてくれた人であり、それ以上でもそれ以下でもない。
君が僕に向けるその優しさは、僕が長い年月をかけて望んできたものとはあまりにも違っていた。
結局どんなに優しい言葉を並べられても、僕がどれだけ君を望んでいるのかも知らないまま、僕のことを大切な思い出の一つにして僕の傍から離れていく。
君自身の口から僕を選ばないと告げられたことが、悔しくて仕方がなかった。
「……そう。君がそう思ってくれたなら、僕も嬉しいよ」
ようやくそれだけを口にして、僕は笑った。
今は君が安心してアストリアへ帰れるように、最後まで優しい顔をしていればいい。
だけど僕は、君との未来を諦めたわけじゃない。
今日の君の選択を否定するつもりはないけど、だからといって僕まで諦めなければならない理由にはならないからだ。
君が今日、僕を選ばなかったことを、僕は忘れない。
けれど同時に、君が僕と過ごした時間を幸せだったと言ってくれたことも、決して忘れない。
君が僕の手を取らないのなら、僕はもう一度、君が僕の手を取らずにはいられないところまで行けばいい。
今度こそ、君自身が僕を選ぶまで。
今度こそ、君を僕の傍に置くために。
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