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屋敷に戻ると、セラ嬢は自室で旅支度を整えることになった。
アストリアから持ってきた荷物はもともと僅かなものだったけど、僕がこの屋敷で買い与えた衣服や装飾品も持って行って構わないと伝えると、彼女は困ったように微笑み、遠慮がちに首を横に振った。
結局、彼女が持って行くと決めたのは、真っ白なテディベアと数冊の本、それから旅の道中に必要な着替えだけ。
エイミーに手伝ってもらいながら、それらを革張りの旅行鞄に丁寧に収めている姿を見てしまうと、胸の奥に痛みが走った。
エイミーには、この先もアルディオン公爵邸の侍女として働いてもらうことになっている。
以前、セラ嬢の新しい処遇が決まった暁には彼女を伴わせても構わないと伝えていたけど、それはあくまでセラ嬢が僕の側室となることを前提にした話だった。
アルディオンの内情を少なからず知っているエイミーを東部に送り出すわけにはいかないという事情を説明すると、セラ嬢は素直に納得してくれた。
だけど、実際はそれだけが理由じゃない。
僕はいつか、必ずまたセラ嬢をこの屋敷に連れ戻すつもりでいる。
その時、彼女のそばにエイミーがいてくれれば都合がいいと考えている僕の胸の内なんて、今のセラ嬢が知る筈もなかった。
僕達が屋敷に戻ってからしばらくすると、陛下との話し合いを終えた王太子とはじめ君が、少し遅れてアルディオン公爵邸を訪れた。
客間に通された二人に挨拶をするため足を運ぶと、彼らの視線が同時にこちらを向く。
僕はいつものように穏やかな笑みを浮かべ、二人に向かって一礼した。
「長旅の折、お越しいただき恐縮です。セラ嬢はただ今、身支度を整えております。侍女との別れも済ませてから参りたいとのことでしたので、もうしばらくこちらでお待ちいただけますでしょうか」
はじめ君は相変わらず感情をほとんど表に出さず、短く頷いただけだったけど、王太子は立ち上がると、目の前のソファーに優雅な仕草で手を差し向けた。
「総司殿、気遣いに感謝する。せっかくだ、セラを待つ間、少し話をしようじゃないか」
つまり、ここに座れということらしい。
僕は笑みを崩さないまま二人の向かいに腰を下ろすと、王太子はどこか満足そうに口元を緩めた。
「今日は無事に話がまとまって良かったよ。俺の婚約者が長いこと世話になったね」
セラ嬢がこの屋敷で暮らしたのは、半年ほどだった。
あの頃は、一日でも早く僕の側室として迎えたいと思いながら、その時を待つ時間がひどく長く感じられたものだけど、こうして振り返ってみれば、季節がひとつ巡るよりも短い間だったようにも思える。
「いいえ。僕に与えられた役目でしたからね。公爵家当主として当然の務めを果たしたまでですよ」
「それは本当に与えられたものだったのかな」
王太子の瞳がすっと細くなった。
先ほどまで浮かんでいた穏やかな笑みも消え、隠す気すらない苛立ちが鋭い眼差しとなって僕に突き刺さる。
「お前のことは調べさせてもらったよ。セラとの婚約が破棄されてから、随分と熱心にアストリアや彼女のことを調べていたそうじゃないか。近藤公にも何度も手紙を送り続けていたらしいね。本当に気味の悪い男だ」
どうやら、王太子は僕の前で猫を被ることをやめたらしい。
吐き捨てるような言葉を聞くたび、抑えている苛立ちがゆっくりと膨らんでいく。
目の前の男を斬り捨ててしまえば、どれほど楽だろう。
そんな物騒な考えが頭を過ぎったけど、僕はそれを表情の奥深くに押し込め、ただ静かに王太子を見返した。
すると、隣に座っていたはじめ君が僅かに眉を寄せる。
「殿下、あまり事を荒立てぬ方が宜しいかと」
「なんでだよ。これくらい言わせてくれたっていいだろ。俺は婚約者を奪われかけたんだぞ」
「まだ正式な婚約者ではないですけどね」
僕が小馬鹿にするように笑って告げると、王太子の顔が見る間に険しくなった。
「何がおかしい。俺達は婚約の約束をしていたんだ。一方的に追いかけ回していたお前とは違ってね」
「へえ。それは随分と立派な約束ですね」
僕は笑みを浮かべたまま、わざと感心したような声を出した。
「でも、約束だけなら僕だって負けていませんよ。何しろ僕とセラ嬢は、昔一度は正式に婚約していたんですから」
「その婚約は、もうとっくに破棄されている筈だけど?」
「ええ。ですから、今さら僕を責められても困るんですよ。昔のことまで持ち出して、僕が彼女を追い回していたなんて言われると、少し心外だな」
「事実だろ。実際、セラを人質として帝国に連れて来て、そのうえお前が側室として迎えるなんて話が出来過ぎている。もし先ほどの話し合いで皇帝陛下がセラの返還を認めなかったら、帝国が他国との政治に私情を持ち込んでいるんじゃないかと、あの場で問いただすつもりだった。総司殿は命拾いしたね。俺としては、あそこでお前の化けの皮を剥いでやれなかったことが残念でならないよ」
僕がセラ嬢の近況を数年に渡り調べていたことも、近藤公に何度も書状を送っていたことも知った上で、その先にある僕の思惑まで探ろうとしていたらしい。
王太子という立場にありながら、この男も随分と執念深いと思う。
それだけセラ嬢のことを案じていたということなのだろうけど、だからといって好き勝手に言われる筋合いはない。
「私情を挟んでいると言い切れるだけの証拠があるんですか?それに、そこまで仰るのでしたら薫殿下も似たようなものだと思いますけどね」
「どうして俺がそんな言われを受けなければならないのか、意味が分からないね」
さっきまでの余裕が僅かに崩れた。
僕はそれを見逃さず、口元に薄い笑みを浮かべる。
「殿下はセラ嬢の返還を条件に、帝国との貿易において便宜を図る意思を示されていましたよね。それもまた、政治に私情を持ち込んだことにはならないんですか?」
「ならないね。俺が求めたのはセラの返還だけじゃない。アストリア公爵家の唯一の後継者である彼女を、帝国が勝手に扱うことを認めないという立場を示したまでだ。そのために東部が持つ外交上の手段を使った。それだけの話さ」
「随分と都合のいい言い方をされますね。セラ嬢を取り戻すために、帝国との貿易条件まで持ち出したのに」
「逆だよ。セラを返すことが、条約を守るという本来の約束に沿う。それを帝国が守るなら、こちらもそれに応じた外交上の判断をする。俺はその当然の条件を示しただけだ」
相変わらず、腹立たしい程口がまわる男だ。
その顔を崩してやりたい心情になり、僕は再び口を開いた。
「では仮にセラ嬢が、殿下ではなく別の貴族との婚姻を望んだとしても、殿下はそれを快くお認めになるんでしょうか」
「は?何を言っているんだ?」
「単純な話ですよ。セラ嬢が自分の意思で別の男性を選んだとしても、殿下はその願いを尊重されるのかと思いまして。まさか王太子というお立場を利用して、ご自分との婚姻を望むよう仕向けたりはしませんよね?」
「馬鹿なことを言うな。セラは最初から俺との婚約を喜んで受け入れてくれてたんだ。そんなありもしない話に付き合う義理はないね」
「そうですか。まあ、セラ嬢も、ルヴァン王国の王太子殿下から直々に求婚されてしまえば、たとえ断りたいと思っていたとしても、そう簡単には断れないでしょうけどね」
「……お前、さっきから何が言いたい?まさか、俺がセラの意思を無視して婚約を迫ったとでも言いたいの?」
低くなった声に、明らかな怒気が混じる。
僕は何でもないことのように笑ったまま、王太子を見返した。
「いいえ、別に。僕はただ、殿下からのお言葉をセラ嬢がどれほど重く受け止めたのかと考えただけですよ。貴族の娘が王太子殿下の求婚を断る。それがどれほど勇気のいることかくらい、殿下ならご存じでしょう?」
「ああ、それくらい俺だって分かっているさ。だから俺は、セラの意思をいつだって尊重してきた。今日の謁見でも俺は一度も無理強いしていない。あの場でもセラの意思を尊重すると、はっきり言った筈だよ」
「表向きはそうでしょうね。でも、セラ嬢の立場からすれば、婚約の約束をしていた王太子殿下が、自分を取り戻すために帝国まで来たんです。そんな相手を前にして、自分の意思を簡単に口にできるものですかね?」
「セラはアストリアに戻りたいと思っているんだ。以前、俺と斎藤が帝国に来た時だって、故郷に帰れないことを悲しんで泣いていたじゃないか」
「まあ、アストリアには帰りたいでしょうね。先程も近藤閣下や友人に会いたいと言ってましたから。でも、殿下のことは何一つ言ってませんでしたけど」
王太子の眉がぴくりと動いた。
その変化を見逃さなかったのは僕だけではないらしい。
隣にいたはじめ君が僅かに眉を寄せ、苦い顔で僕を見る。
「総司、あまり殿下を挑発するような言い方は控えてもらいたい」
「僕は正直に話してるだけだよ。それに先に挑発してきたのは、むしろ殿下の方だと思いますけどね」
「俺は挑発なんてしていない」
「そうですか?夜会でお会いした時から、随分と僕に食って掛かってくるものだから、てっきり何か気に障ることでもしたのかと思っていましたよ」
僕は少しだけ首を傾け、わざと無邪気な顔を作った。
「それだけ僕のことを意識しているということは、もしかしてセラ嬢に想われている自信がないんですか?」
「お前……!」
王太子が身を乗り出しかけたところで、はじめ君が静かにその名を呼ぶ。
短い一言だけだったけど、それだけで王太子は渋々と口を閉ざした。
「……ああ、もう苛々する。セラはまだなのか?俺は早くこんな場所から立ち去りたいんだけど」
普段は王太子らしい落ち着きを見せているけど、この男も随分と感情の起伏が激しいらしい。
特にセラ嬢のことになると、それが隠しきれなくなる。
その様子が、どこか自分自身を見ているようで、僕は余計に気分が悪くなった。
だけど相手の感情がこれほど簡単に揺れるのなら、揺さぶってやる。
僕は胸の内で考えを巡らせながら、口元にゆるやかな笑みを浮かべた。
「そんな淋しいことを仰らないでくださいよ。これでも僕は、セラ嬢が少しでも帝国で心穏やかに過ごせるよう、できる限り気を配ってきたつもりなんですけどね」
「何が気配りだ。お前の傍にいて心穏やかに過ごせる筈がないだろ」
「そんなことはないと思いますよ。僕とまた話せて嬉しかったって言ってくれましたし。さっきも帝国を離れるのが淋しいって悲しそうにしてましたしね」
「そんなもの……社交辞令に決まっているじゃないか。自分に都合のいい言葉を鵜呑みにして、総司殿は随分と哀れな男だね」
「セラ嬢は社交辞令で人を喜ばせるために、思ってもいないことを並べ立てるような子じゃないと思いますけどね。殿下はセラ嬢をそういう女性だと思っていらっしゃるんですか?」
王太子がぎりっと奥歯を噛み締めるのがわかり、僕は内心でほくそ笑む。
はじめ君は眉を寄せてため息を吐き出していたけど、そんなことは知ったことじゃない。
「本当に腹立たしい男だね。母親が犯罪者なだけあるよ」
ぽつりと言われた言葉を聞いて、はじめ君がより苦い顔をする。
「殿下もそれ以上はお慎みください。総司の母君に関する話は、殿下といえど軽々しく口にされてよいものではありません。これ以上は無用な争いを招くだけかと」
「俺は事実しか言っていない。斎藤だって知ってるだろ、この男はセラに合法じゃない薬まで飲ませていたんだ。あの薬でセラを眠らせて、何をしていたかわかったもんじゃない」
一粒足りなくなっていた薬は、予想通りこの二人がここに来た時、持ち帰っていたらしい。
僕がふっと笑うと、再び苛立ちを含んだ王太子の視線が僕へと向けられた。
「今、何故笑った?」
「いえ、あの薬をそんなに警戒される理由がわからないんですよ。使い方を誤らなければ、素晴らしい薬ですからね。セラ嬢にも詳細は話していますし、実際痛みをかなり和らげてくれる優秀な薬ですよ」
「よく言うよ。こっちは調べがついてるんだ。セラはあの薬のことは正しく理解していなかった」
警戒していた通り、メルディックから王太子に話が伝わっていたんだろう。
今となってはどうでもいいことだけど、あの子に余計なことを吹き込んだことには苛立ちが募る。
「僕は敢えて不安にさせることを伏せていただけですけどね」
「そもそも、あんな変なものをセラに飲ませるなんてどういうつもりだ……!妙なことをしていたら、俺はお前を絶対に許さないぞ!」
「妙なことって、例えばなんでしょうね」
笑みを保ったまま、敢えて考える素振りを見せて、王太子に告げた。
「ああ……もしかして、僕が殿下より先にあの子の身体を隅々まで確かめて、触れて……それ以上のことまでしてしまっていたら、とお考えですか?殿下の手が届く前に、僕がセラ嬢のすべてを知ってしまっていたら、殿下の誇りが酷く傷付けられてしまうでしょうからね」
その言葉を放った瞬間、王太子の顔が怒りで染まり、彼の手が勢いよく伸びて僕の胸ぐらを掴んだ。
強い力で引き寄せられ、布地がきしむ音が耳に届く。
僕を睨む大きな瞳には、抑えきれない殺意にも似た光が宿っているように見えた。
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