10

荷造りを終えた私は、エイミーと涙のお別れをして、彼女に連れられるまま来客用の部屋の前まで足を運んだ。
最後だからと笑ってみせてくれる彼女の顔を見た途端、堪えていた涙がまた込み上げてきて、私はたまらず細い身体に抱きついた。
するとエイミーも、何も言わずに私を抱きしめ返してくれる。
これで本当にお別れなのだと思うと、胸が締めつけられるようだった。


『エイミー、今まで沢山ありがとう。元気でね。また、会えるよね?』


東部までエイミーを連れて行けないことは、薄々わかっていた。
それでも今日を最後にこの笑顔を見ることができなくなるのだと思えば、淋しくて悲しくて、涙を止めることができない。
エイミーも瞳にいっぱい涙を溜めながら、いつもの明るい笑顔を浮かべて頷いてくれた。


「会えますよ。絶対に会いましょう?それで、おばあちゃんになったら一緒に旅行に行きましょう!」

『ふふ、それ素敵。エイミーと旅行なんて、とっても楽しそう』

「約束ですよ。贅沢な旅ができるように、私今から頑張ってお金を貯めますから」

『うん。私も健康に気をつけて、長生きしなくちゃ。エイミーもずっと元気でいてね』

「はい。お嬢様も、ずっと元気でいてください」


もう一度だけ互いにお礼を告げると、名残惜しさを抱えたまま、そっと身体を離した。
エイミーは頬を伝う涙を拭い、私の大好きな笑顔を浮かべると、何度も振り返りながら廊下の先へと去っていく。
私も手を振りながら、その姿が見えなくなるまで見送った。

深く息を吸い込み、胸の奥に溜まった悲しみをゆっくり吐き出す。
泣いてばかりはいられない。
扉の先には、私をアストリアに戻すために力を尽くしてくださった薫様とはじめが待っているのだから、せめて笑顔で顔を合わせたい。
そう自分に言い聞かせて、涙の跡を指先で拭い、口元に笑みを浮かべて静かに扉を開いた。
けれど感動の再会になると思っていた私の目には、予想もしていなかった光景が飛び込んでくる。
部屋の中では、薫様がひどく腹を立てた様子で総司様の胸元を掴んでいた。


「お前、ふざけてるのか……?」

「僕はふざけてませんよ。殿下の心の中を代弁するなら、こんな感じかと思っただけです」

「その態度がふざけてるって言っているんだ。この期に及んで、よくそんなことを口にできるね。殺されたいの?」

「僕とやり合ったら、死ぬのは殿下の方だと思いますけどね」


二人の間に漂う空気は、ただの口喧嘩とは思えないほど険しく、互いの瞳には怒りが剥き出しになっていた。
あまりの迫力に息が止まりそうになったけど、私は慌てて二人の傍まで駆け寄る。
すると、真っ先に私の存在に気付いたのははじめだった。


「セラ、待っていた」


その声に続いて薫様と総司様も私に気付き、二人とも僅かに目を見開いた。
薫様は掴んでいた手をすぐに離し、総司様も澄ました顔で襟元を整える。
つい先ほどまで険悪だったとは思えないほど、二人は涼しい顔に戻っていた。


「久しぶりだね。もう帰る準備はできた?」


薫様は私の手から皮の鞄を自然に取り上げると、先ほどまでの怒りなど忘れてしまったかのように優しい笑顔を向けてくれた。
はじめも柔らかく微笑んでいて、懐かしい二人の顔を見つめているうちに、心が温かくなっていく。


『はい。お待たせしてしまってごめんなさい。それに、薫様もはじめも、私のために力を尽くしてくださって、本当にありがとうございます』


もう一度アストリアの土を踏める日が来るなんて、夢を見ているようだった。
生まれ育った故郷で、また大好きな人たちと毎日を過ごせる。
一度失ったからこそ、その当たり前だった日々がどれほど尊いものなのか、今の私には痛いほどわかっていた。


「必ず連れ戻すって言っただろ?俺にできないことはないんだ」


胸を張ってそう言った薫様の自信に満ちた姿が可笑しくて、私は思わずくすくすと笑ってしまう。


「それは少々大袈裟に言い過ぎだとも思うが」

「煩いな。斎藤は黙ってなよ」


こんなやり取りまで懐かしくて、頬が自然と緩んだ。
ようやく帰れる、もう一度この人たちと過ごせる。
その喜びを噛みしめながら、私は二人に向かって微笑んだ。


『またお二人のやり取りを見られると思うと嬉しいです。今日からまた、よろしくお願いしますね』


その言葉に、薫様は満足そうに笑い、はじめも静かに頷いてくれた。
懐かしい二人の姿に心が満たされていくようだったけど、その少し離れた場所で黙ったまま私を見つめている総司様だけは、何も言わなかった。

今日で、総司様とはお別れになる。
もう明日からは、この姿を見ることも、その声を聞くことも、言葉を交わすこともないのだと思うと苦しくなった。
けれど、ここで泣いてはいけない。
私はもう、自分の意思でアストリアに戻ると決めたんだから。


『総司様』


最後にもう一度だけ、感謝を伝えたかった。
もう一度だけその優しい声を聞いて、私が大好きだった笑顔を見たかった。
それで終わりにするから、せめて今だけはきちんとお別れをする時間が欲しい。
そう思って声をかけた直後、私の肩は少し強く引き寄せられていた。
驚いて右隣を振り向くと、薫様がいつになく険しい表情で私を見つめていた。


「こんな奴と話す必要はない。もう行こう」

『え……?ですが、総司様にきちんとお別れを……』

「必要ないって言っているだろ」

『でも総司様には、ここにいる間たくさんお世話になったんです』

「セラはこいつに騙されてるんだ。親切にしてもらったのかもしれない。でも、全部裏があってのことなんだよ。俺はもう、これ以上セラにこの男と関わってほしくない」


薫様の顔が苦しそうに歪んだ。
怒っているというより、まるで何かを必死で耐えているかのような痛ましい表情だった。
その剣幕に思わず息を呑んでいると、はじめが静かな声で口を開く。


「殿下がこの半年、どれほどセラの身を案じていたか、それだけはわかってやってほしい」


私が帝国で過ごしていた半年の間、薫様がどんな思いで私のことを考え、何を犠牲にしながら動いてくれていたのか、私にはすべてを知ることはできない。
でもきっと私が思っている以上に苦しみながら、それでも私を取り戻すために戦ってくれていたのだと思った。
狩猟会の後も、忙しい日々の合間を縫って私の様子を確かめに来てくれた。
メルディック様にも掛け合い、私の近況を知るだけでなく、私に大切な情報まで届けてくれた。
そして今日、皇帝陛下との謁見にまで臨み、帝国と結んだ講和から私を解放してくれた。
王太子である薫様が、どれほど多くの務めを抱えているのか私は知っている。
だからこそ、ここまでしてくれることが、決して簡単なことではなかったのもわかっていた。
そんな薫様の言葉を、今の私は無視することができなかった。

でも……総司様は?
私が帝国にいた半年の間、総司様だって私のために何度も時間を作ってくれた。
不安で胸がいっぱいだった私を外に連れ出して、少しでも楽しい気持ちになれるように笑わせてくれた。
何も知らず、何も持たない私が帝国で過ごせるように、たくさんのものを与えてくれた。
その優しさに、どんな理由があったとしても、私が救われたことまで嘘にはならない。
だから最後にお礼の一つさえ伝えられないまま去るなんて、どうしてもしたくなかった。
気がつけば、私はもう一度総司様を見つめていた。
すると総司様は、私の視線を受け止めるように目を細め、眉を少し下げて、いつものように柔らかく微笑んでくれた。
その笑顔を見て心がひどく痛み出す。
まるで私が言いたかったことを、全部わかっているような顔だったから。


「いいよ、行って。僕のことは気にしないで」

『……総司様』

「せっかく帰れるんだから、そんな顔しないでよ。君には笑っていてほしいな」


優しい声だった。
その優しさが、今はかえって苦しかった。
私は唇を噛みしめながら、溢れそうになる涙を必死に堪える。
最後くらい笑顔でいたかった。
総司様が望んでくれたように、ちゃんと笑ってお別れしたかった。


『……ありがとうございます、総司様。お世話になりました』


やっとの思いでそう告げると、総司様は少しだけ目を細めた。


「うん。こちらこそ」


その言葉だけで、胸がいっぱいになった。
もっと伝えたいことはたくさんあったはずなのに、いざ最後だと思うと、どんな言葉も喉の奥でつかえてしまって上手く出てこない。
それでも、総司様からもらった優しさも、一緒に過ごした時間も、私の中から消えてしまうことはないのだと思った。
たとえ今日で離れてしまったとしても、あの時間まで失われるわけではないのだから。

薫様に促され、私はゆっくりと身体の向きを変えた。
何度も振り返りそうになるのを必死に堪えながら、扉に向かって歩き出す。
もう一度だけ声を聞きたい、もう一度だけあの顔を見たい、そんな願いが何度も込み上げてきて、そのたびに私は小さく息を呑んだ。
この感覚を、私はよく知っている。
あの日、アストリアで総司様に背を向けた時も、同じだった。
離れなければならないとわかっているのに、足を進めるたび、振り返りたい気持ちばかりが強くなって、胸が張り裂けそうだった。
まさか今もまだ、総司様に対してこんな気持ちを抱いてしまうなんて思ってもみなかった。

……そっか。
私はまだ、総司様が好きなんだ。
そう気づいた途端、今まで見ないふりをしていた想いが、はっきりと形を持った。
どれほど冷たい一面を見ても、どれほど腹立たしい言葉を投げられても、私の心はどうしても総司様から離れてくれない。
むしろ傷つけられたことさえ忘れてしまうほど、優しくされた記憶が鮮やかに蘇ってくる。
きっとこの想いは総司様と出会ったあの日から始まっていたのだと思う。
幼い頃に出会い、隣で笑って、いつしか離れてしまって、それでも心のどこかでずっと消えなかった想い。
どれほど自分に言い聞かせても、どれほど諦めようとしても、私の意思だけではどうにもならないほど、総司様に心を惹かれてしまう。
それが、私の本当の気持ちだった。

誰にも話せない。
認めてしまえば、自分自身を責めたくなるような想いでもある。
でも、今の私と昔の私とでは決定的に違うことがある。
それは今の私が、総司様と共に生きることを望んでいないことだった。

私は目の前の扉を見つめた。
向かう先には、私が生まれ育ったアストリアが待っている。
大切な家族や友人たちが待つ、私の帰る場所。
私は小さく息を吸い込み、心に残る痛みをそっと抱きしめるようにして、静かに一歩を踏み出した。

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