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帝国を出てから数字、私は再びアストリアの地に戻ってきた。
北部ほど厳しい寒さではないものの、冬の夜は冷たく、吐く息が白くほどけていく。
けれど馬車を降りた私の心を満たしたのは、寒さなんて忘れてしまうほどの懐かしさだった。
目の前には、幼い頃から何度も歩いた公爵邸の広大な庭園が広がっている。
冬の花こそ少ないものの、整えられた植え込みや白い石造りの噴水にはキラキラと灯りがともされ、その先には夜空を背負うようにして懐かしい屋敷が佇んでいた。
私は思わず立ち止まりそうになりながら、薫様とはじめと並んで、屋敷まで続く美しい石畳の道を歩いていく。
見慣れた庭も、噴水の水音も、屋敷の窓から漏れる淡い光も、すべてが心に沁みて、私は込み上げる涙を隠すようにそっと瞳を伏せた。
ようやく戻ってきたんだと思うと嬉しいはずなのに、今夜の公爵邸は不思議なほど静かだった。
いつもなら庭園の見回りをする騎士の姿や、使用人たちの行き交う気配があるはずなのに、今夜は誰の姿も見えない。
久しぶりに皆に会えると思えば胸が弾む一方で、どんな顔をして迎えられるのかと考えると、少しだけ緊張してしまった。
『お父様、驚かれるでしょうか?』
病に伏せっていると聞かされていたお父様も、実際にはそれほど身体に支障はないらしい。
今回の謁見で薫様が表立って動けるよう、敢えて大袈裟な診断書を用意していただいたのだと聞いている。
私のために、たくさん心配をかけてしまったことを思えば申し訳なさで胸が痛む。
それでも、ずっと会いたかったお父様の顔を早く見たいという気持ちは抑えられず、気がつけば歩く速度まで少しずつ速くなっていた。
そんな私を見て、薫様とはじめが顔を見合わせ、どちらからともなく微笑んでた。
「ああ。きっと驚くと思うよ。それ以上に、セラが無事に戻ってきたことを心から喜ばれるだろうね」
「近藤閣下も、殿下に負けぬほどセラの身を案じておられた。待ち焦がれていたことは間違いないだろう」
「そういう斎藤も、随分と気を揉んでいたじゃないか」
「当然だ。とにかく、無事に戻ってきてくれて良かった」
柔らかく微笑むはじめに私も笑い返し、ふと足を止めた。
目の前には、幼い頃から何度も見上げてきた公爵邸の大きな扉がある。
この先に会いたくてたまらなかった人達がいると思うと、それだけで目頭が熱くなり、私はそっと息を吸い込んだ。
『今日はどなたもいらっしゃらないのですね。いつもは騎士の方や使用人の方が待機されているのに』
庭も外門の周りも、以前までと変わらず美しく灯りがともされている。
それなのに、まるで屋敷そのものが息を潜めているように人の気配がまるで感じられなかった。
その静けさはアストリアを離れることになった、あの夜を思い出してしまう。
心に小さな不安が広がった私の肩に、薫様がそっと手を置いた。
「どうしてそんなに不安そうな顔をしているの?」
「だって、あまりにも静かですから……。もう夜ですし、皆さんはもうお休みになってしまわれたのでしょうか?」
「夜と言っても、まだ八時前だが。さすがに眠るには早すぎるだろう」
「それともセラはいつも、こんなに早く眠ってたの?」
薫様がくすりと笑うと、はじめも私を見下ろしながら口元を緩めた。
「昔からよく寝ていたからな。今も眠いのではないか?」
『もう……』
二人とも明らかに私をからかっている様子だったから、私は少しだけ頬を膨らませ二人を睨んだ。
それでも薫様とはじめは楽しそうに笑っているばかりで、私の視線なんてまるで気にしていない。
そんな二人を見ているうちに、張りつめていた心が少しずつ解れていく。
けれど、やはり目の前の扉を開く勇気だけは出てこなくて、私はもう一度その大きな扉を見つめた。
「仕方ないな。俺が開けてやろう」
私がいつまでも立ち尽くしているのを見かねたのだろう。
はじめは穏やかに笑いながら扉に手をかけた。
その反対側に薫様も進み出て、二人は一度顔を見合わせると、まるで示し合わせていたかのように同時に扉を大きく開いた。
「セラお嬢様!おかえりなさい!」
目の前に広がった光景に、私は息を呑んだ。
見慣れた公爵邸の玄関、その広間いっぱいに私がずっと会いたかった人たちが並んでいた。
お父様、山南さん、山崎さん、伊庭君、平助君、それに千鶴様。
騎士の方々も使用人の方々も皆揃っていて、誰もが嬉しそうな笑顔で私を見つめている。
胸の奥が一気に熱くなり、視界が滲んだ。
「……セラ……!」
その声を聞いた時には、私は強い腕に抱きしめられていた。
懐かしい、お日様のように温かな香りがする。
何度も夢に見た、お父様の匂いだった。
逞しい腕が私の身体をきつく抱き寄せていて、その腕は僅かに震えていた。
「よく帰ってきてくれたな……」
『お父様……』
声にした途端、堪えていた涙がぽろぽろと頬を伝った。
私もお父様の背中に腕を回し、幼い頃と同じように、その胸元に顔を埋める。
どれだけお父様に会いたかったことだろう。
『ごめんなさい……。たくさん、ご心配をおかけして……』
「謝らないでくれ。セラが謝ることなど、何もないぞ。無事に戻ってきてくれただけで十分だ」
『……はい』
「俺こそ、守ってやれずにすまなかったな」
『いいえ、私が帝国に行くことを自ら選んだのです。それに帝国は、思っていたより悪いところではありませんでしたよ』
涙で声が震えてしまったけど、少しでも安心して欲しくてそう告げる。
するとお父様の温かい手が私の頬を包み、優しく涙を拭ってくれた。
「よく頑張ったな、セラ。辛いこともあっただろうが、もう大丈夫だ。今日からはまた、ここがお前の家だ」
その言葉に、胸の奥で何かが切れたように再び涙が溢れた。
私はお父様の胸に顔を埋めたまま、声を殺して泣き続ける。
長い間、ずっと欲しかった言葉だった。
ここにいていいのだと、誰かに言ってほしかったから。
今、その言葉をお父様からもらえたことが嬉しくて、私はただ何度も頷きながら、懐かしい腕の中に身を委ねていた。
その後は山南さんを始め、たくさんの方たちと言葉を交わした。
あの夜に怪我を負ってしまった山崎さんや伊庭君、平助君も、今ではすっかり傷が癒え、騎士団の訓練にも戻れるようになったという。
千鶴様は私の姿を見るなり駆け寄ってきて、何も言わずに抱きしめてくれた。
私もその背中に腕を回し、皆で涙を零しながら笑い合った。
こうして大切な人たちの顔を一人ずつ見るたびに、アストリアに戻ってきたことを実感できるようだった。
ひと通りの挨拶を終えた頃には、長旅の疲れも重なって身体が重くなっていた。
私の帰還を祝う宴は明日執り行われることになり、今夜はゆっくり休むようお父様から言われている。
明日の宴に参加してくださる薫様、千鶴様、はじめも、今夜は公爵邸に泊まることになっていた。
私は薫様と並んで廊下を歩きながら、懐かしい屋敷の景色を眺めながら自室へと歩いていく。
辿り着いた自分の部屋の扉を前にして、私ほっと息を吐いた。
『半年しか経っていないのに、こんなに懐かしく感じるものなんですね』
自室の扉を開けた途端、ふわりと大好きな花の香りが漂ってきた。
部屋の中は、私が出ていった日と変わらないまま綺麗に整えられている。
お気に入りだった家具も、小さな飾りも、窓辺に置いていたものも、そのまま残されていた。
帝国にいる間、何度もこの部屋を思い浮かべたものだけど、こうして戻ってきてみれば、すべてが私を待っていてくれたような気がして胸がいっぱいになった。
「俺はセラの部屋に入ったのは初めてだから、少し落ち着かないな」
薫様はそう言うと、私の荷物が入った鞄を部屋の隅に置き、どこか居心地が悪そうに笑った。
『そういえば、薫様がこの部屋に来てくださるのは、今日が初めてですね』
「当たり前だろ。婚前の女性の部屋に、そう気安く入るものじゃないからね。近藤公が許してくださったから、今夜はお言葉に甘えさせてもらったけれど」
『お父様は、薫様にとても感謝していますから。それに私も同じです。私を帝国の人質という立場から解放してくださって、本当にありがとうございました』
お父様は先程、薫様の肩を抱き、おいおいと涙を流していた。
突然のことに薫様は驚いた顔をしていたけど、やがて嬉しそうに笑い、お父様の背中をそっと叩いていた。
その光景を思い出すと、私がアストリアを離れていた半年の間に、お父様と薫様の距離が随分と近くなったのだと分かる。
お父様や山南さんから聞いた話では、私を帝国から取り戻すために、薫様はかなり無理をして力を尽くしてくださったらしい。
私が今こうして故郷に戻ってこられたのも、決して当たり前のことではなかったのだ。
『私、薫様に甘えてばかりですね。いつも助けていただくばかりで、申し訳ないと思っています。でも、帝国に行って、薫様と離れて過ごして……気づいたことがあるんです』
私がどうしても本能のまま恋焦がれてしまうのは、総司様だった。
どれほど離れていても、どれほど自分に言い聞かせても、総司様への想いだけは今もまだ心の奥から消えてくれない。
それでも今の私が、これから先も一緒にいたいと願えるのは、総司様ではなかった。
苦しい時には心を預け、嬉しい時には一緒に笑い、長い人生をかけて大切にしていきたいと思える人。
それは他の誰でもない、薫様だった。
『帝国にいる間、何度も薫様のことを思い出しました。困った時に助けてくださったことや、私が不安な時にはいつもそばにいてくださったこと……離れてみて初めて、私はずっと薫様に支えていただいていたんだって、改めて気づいたんです』
薫様は何も言わず、ただ静かに私を見つめている。
その瞳に浮かぶものを読み取ることはできなくて、私は胸の奥に小さな緊張を抱えながらも、逃げずにその瞳を見つめ返した。
『だから私も、薫様の力になりたいです。薫様が辛い時には、今度は私がそばにいたい。嬉しいことがあった時には、一緒に喜びたいです。これから先、長い時間をかけて、薫様を大切にしていきたい……そう思う気持ちが、離れていた時間の中で前よりずっと強くなりました』
自分の口からそう告げると、途端に頬が熱くなってしまう。
こうして自分の気持ちを言葉にするのは、思っていた以上に勇気がいることだった。
それでも、今夜だけは伝えたかった。
これまで私を守り、支えてくれた薫様に、私自身の言葉で伝えたかった。
『私にとって薫様は、いつも私を守ってくださる方でした。でも、これからは私も薫様を支えられる人になりたいです。私もそうなれるように頑張りますから……これからも、私のそばにいてくださいますか?』
最後の言葉だけは、どうしても声が震えてしまった。
それでも私は俯かず、まっすぐ薫様を見つめ続けた。
薫様からもらったものを、これから少しずつでも返していきたい。
守られているばかりだった私が、今度はこの人の支えになれるようになりたい。
その気持ちだけは、誰にも隠さず、大切にしていたかった。
けれど、すべてを聞き終えても、薫様は何も言わず、ただ静かに私を見つめている。
その沈黙が少しずつ不安を膨らませていくのを感じながらも、私は返事を急かすこともできず、黙って待った。
するとしばらくして、薫様らしくないほど小さな声が、ぽつりと落ちた。
「……嬉しいよ。凄く」
そう言ってくださったのに、薫様のお顔はどこか苦しそうに見えて、私は思わず首を傾げる。
すると薫様の手が伸びてきて、私の手にそっと重なった。
「この半年、ずっと不安だったんだ。セラがまた……アルディオン公と、そういう仲になってるんじゃないかって。謁見の時も、もしセラがあいつの側室になることを望んだら、俺はどうすればいいんだって……そんなことまで考えていた」
私は目を見開いた。
あの謁見の場で、あれほど堂々としていた薫様が、胸の内ではそんな不安を抱えていたなんて、少しも想像していなかったから。
「セラのことは信じてるよ。だけど、人の感情ってどうにもならないものだろ?ずっと想い続けていた相手と再会して、同じ屋敷で暮らして、そのうえあいつはきっとセラには優しくしてる。帝国で他に頼れる相手もいないんだから、どうしたってあいつを頼って暮らすことになる。そんな状況なら、何かおかしなことが起きても不思議じゃないんじゃないかって……そう考えたら、居ても立ってもいられなかったんだ」
その言葉を聞いているうちに、帝国を出る時のことが蘇ってきた。
あの時、薫様は私と総司様が言葉を交わすことすら、できるだけ避けてほしいと思っているようだった。
いつも薫様の近くにいるはじめも、きっとその想いに気づいていたんだろう。
だからあの時、殿下の気持ちを理解してあげてほしいと、私に言ったのだ。
「だからさ、セラを故郷に戻してやりたいっていう想いはもちろんあったけど、半分は俺自身のためだったんだ。俺がどうしても、セラをあの男に渡したくなかった。だから、そんなふうに真っ直ぐ感謝されると……少し複雑なんだけど」
薫様もまた、この半年の間ずっと、私の知らないところで苦しんでくださっていた。
私を信じたいと思いながら、それでも不安に心を揺らされて、遠く離れた帝国にいる私を案じ続けていた。
その気持ちさえ、私を大切に想ってくださっているからこそ生まれたものなのだと思うと、私は思わず照れくさくて笑ってしまった。
『ふふ』
「なんで笑うんだ」
『だって、嬉しかったんです』
「嬉しいって……おかしな奴だね。今の俺の話のどこに嬉しい要素があるんだよ」
『薫様を不安なお気持ちにさせてしまったことは、申し訳ないと思っています。でも、総司様のことをそんなふうに不安に思ってくださるくらい、私のことを真剣に考えてくださっていたんだと思ったら……嬉しくて』
「真剣に考えるのは当たり前だろ?俺はいつだって、本気でセラのことを想ってるんだから」
薫様はそう言うと、僅かに頬を染めたまま、照れを隠すように少し不機嫌そうな顔をされた。
その横顔がいつもより幼く見えて、私はまた胸の奥がくすぐったくなるような気持ちになった。
『私も帝国に来たばかりの頃、とても不安だったんです。これから先の生活への不安は勿論ありましたけど、考えていて一番辛かったのは……私が忘れられてしまうことでした』
あの頃は、帝国での暮らしにもまだ慣れていなくて、屋敷の方々からも疎まれ、自分にはもう居場所などないのではないかと思っていた。
そんな心細い時に思い浮かぶのは、遠い東部に残してきた大切な人達の顔ばかりだったけど、薫様や皆のことを考えれば考えるほど、会いたいという気持ちが募って、かえって胸が苦しくなってしまった。
「俺達がセラを忘れるわけないだろ?」
『私も、そう信じていました。でも月日が流れて、半年、また一年と時間が経っていったら……いつか私がいないことが、皆にとって当たり前になってしまうんじゃないかって。皆が笑い合っている中に私だけがいない、そんな光景を想像してしまったんです。薫様にも新しい婚約者の方ができて、私はいつか、思い出の中にいる人になってしまうのかなって……』
あの頃の私は心も身体も疲れ果てていた。
何とかしなければと思って懸命に足掻いても、思うようにはいかず、何をしても空回りしてしまう。
先を見ようとしても、目の前には暗闇しかないように思えて、もう何も変わらないのではないかと、何度も心が折れそうになった。
『でも、そう思っていた時、薫様とはじめが私に会いに来てくださったんです。だから私……嬉しくて……』
その時の胸の痛みまで蘇ってきて、堪えていた涙が一気に溢れた。
慌てて指先で拭いながら、それでも込み上げてくる気持ちを抑えることはできなかった。
あの時の私が、もう一度前を向こうと思えたのは、薫様とはじめがかけてくれた言葉があったから。
そして帝国でただ一人、私の苦しみに寄り添い、そばで気遣ってくれた総司様の存在があったからだった。
『私を諦めないでいてくださる薫様がいるなら、私も諦めたくないって……もう一度、未来を信じてみようって思えるようになりました。あの日から私、薫様のことがもっと好きになったんですよ』
総司様にも告げたことだけど、私には薫様でなければ駄目だったんだと今も本気でそう思っている。
甘えてばかりで申し訳ないと思うことは、今でもある。
それでも薫様になら、こうして自分の弱さも、迷いも、飾らない気持ちも話せる。
だからこそ薫様が今まで胸の奥にしまっていた想いも、私には隠さず話してほしかった。
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