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触れたままになっていた薫様の手は、少し冷たかった。
その手を離すことなく、もう片方の手も重ね、両手でそっと包み込むように握る。
すると薫様は、思いがけなかったのか僅かに目を見開いた。
『ですから、不安なことや私に対して思うことがあるなら、これからはきちんと私に話してください。薫様がいつも私の気持ちを受け止めてくださっているように、私も薫様のことを受け止めたいんです』
思い返してみれば、薫様はいつだって私の気持ちを考えながら行動してくださっていた。
婚約の話をした時だって、決して答えを急かすことなく、私自身の気持ちを大切にしてくれた。
薫様は私を不安にさせまいとして、ご自身の胸の内を見せずに抱えてくださっていたのだと思う。
その優しさがありがたいと思う一方で、これからはもう、私に関することで薫様だけが我慢するようなことはしてほしくなかった。
そんな気持ちから言葉を重ねると、薫様はいつになく熱のこもった眼差しで私を見つめた。
「本当に俺のこと、受け止めてくれるの?」
『はい、もちろんです』
「俺はわがままだし、独占欲も強いし、多分、結構面倒だと思うけど」
『望むところです』
思わず顔を見合わせると、どちらからともなく、くすくすと笑いがこぼれた。
先程まで薫様の瞳にあった不安そうな色は和らぎ、私を見つめるその眼差しも、いつものように穏やかに揺れている。
「立場上、人に甘えるのが苦手でね。弱みを見せるのも癪だし、いつだって気丈に振る舞っていたかったんだけど」
薫様は小さく息を吐きながら、そんなことをこぼした。
その姿がなんだか可愛らしく思えて、私はまた笑ってしまう。
そんな私を見つめ、薫様も柔らかな笑みを浮かべた。
「セラには甘えたいって思うよ。セラは、そんな俺でもいい?」
その言い方が可愛らしくて、胸の奥がくすぐったくなる。
思わず心臓が、とくんと小さく鳴った。
『いいですよ。私の前では、ありのままの薫様でいてください』
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ。でも、セラも俺に甘えてくれる?」
『私は今までも薫様に甘えさせてもらっていますけど、これからも甘えたいと思います。これからは、お互いに支え合っていきましょう?』
「うん。そうだね」
総司様に抱く憧れとは違う、薫様を大切にしたい、守りたいと思う気持ち。
その想いを胸に抱きながら、私はふと、これこそ恋の先にある愛情なのかもしれないと思った。
昔、お父様とお母様が話してくださったことがある。
恋と愛は、似ているようで同じものではないのだと。
恋心を大切に育てていけば、やがて相手を想う大きな愛情に変わっていくのだと、幼い私にもわかるように教えてくださった。
だから私は総司様が大好きだったあの頃、総司様と一緒に恋心を育て、その先にある愛情を分かち合いたいと願っていた。
私達ならきっとそうなれるのだと疑ったこともなかった。
でもまだ幼かった私達は、愛情を育てていく時間を満足に持てないまま、悲しい出来事によって離れ離れになってしまった。
だから私の総司様への想いは、恋のまま行き場を失ってしまったのだと思う。
長い間、その想いを胸の奥に抱え続けていたけど、総司様と再会した今になって、ようやくわかったことがある。
それは今の総司様と私とでは、私が望んでいたような愛情を育んでいくのは難しいということだった。
私には、他にも奥様がいる方を、何も知らなかった頃と同じように純粋な気持ちで慕うことはできない。
そして総司様もまた、家のために私が側室となることを認めただけなのだと思う。
そんな私達がたとえ形だけ結ばれたとしても、幼い頃に夢見たような綺麗な愛情を育てていくことは、きっとできない。
そのことに気付いた時、総司様への想いが消えたわけではないのに、総司様と共に生きる未来を望む気持ちだけが、静かに私の中から消えていったように思えた。
そして、その代わりに芽生えていたのが、薫様を今まで以上に大切に思う気持ちだった。
帝国に来てからも、私は何度となく薫様を思い出していた。
そのたびに、幼い頃から変わらない優しさや、私を気遣ってくださる言葉を思い出し、何度も励まされてきた。
薫様への想いは、もともとは友情から始まったものだったから、それが今どんな感情なのか私はずっとよくわからずにいた。
けれど今なら、少しだけわかる気がする。
私は確かに、薫様を大切にしたいと思っている。
悲しい思いをしてほしくないし、苦しい時にはそばにいて支えたい。
薫様が私にそうしてくださったように、私も薫様にとって安心できる存在になりたい。
それは、総司様に抱いていた恋とは違うけど、恋は必ずしも最初から恋として芽生えるものではないのかもしれない。
誰かを大切に想い、その人の幸せを願いながら時間を重ねるうちに、愛情がいつしか恋へと変わっていくこともあるのではないだろうか。
そう思うと、不思議と心が温かくなった。
今はまだ、薫様を異性として特別に想っているわけではないけど、この愛情を大切に育てていけば、いつか私の中にも、薫様を一人の男性として特別に想う気持ちが生まれるのかもしれない。
恋から愛が生まれるように、愛情から恋が生まれることもあるのなら、私はこれから薫様との間に生まれたこの温かな想いを、焦らず大切に育てていきたいと思った。
「セラ、こっちに来て」
薫様に手を引かれ、導かれるままソファーに腰を下ろす。
すぐ隣に腰掛けた薫様は、私の髪をそっと耳にかけると、そのまま優しく頬を撫でた。
「顔をよく見せて」
『どうしてですか?』
「だって、ずっと会いたかったからさ。ようやく会えたんだから、セラのことをよく見たいんだ」
すぐ目の前にある薫様の端正な顔に、私は思わず目を見開いたまま固まってしまう。
「可愛い」
『あの……近いです』
「近付いてるんだから、近いだろうね。それで、セラに聞きたいんだけどさ」
頬に添えられていた手がゆっくりと動き、薫様の親指が私の頬を優しく撫でる。
その仕草は優しいのに、目の前の顔には先程までの柔らかな笑みがなく、どこか苛立ちを滲ませていた。
「アルディオン公とは、何もなかったんだよね?」
『総司様とですか?もちろん、何もありませんよ』
「それは本当?こうやって近付かれたり、頬を撫でられたりとかしてない?」
『してません。私達はそんな関係ではありません』
薫様は私の言葉に偽りがないか確かめるため、こうして顔を近くで見つめているのかもしれない。
真意を探るような眼差しを向けられていると、どうしても緊張してしまう。
やがて頬から手が離れると、私はようやく詰めていた息をそっと吐き出した。
「メルディックが言っていたんだ。セラとアルディオン公が、仲睦まじくワルツを踊っていたって。周りからも、すごくいい雰囲気だ、二人はそういう仲なんじゃないかって噂されてたみたいだよ」
その言葉に、あの夜のことが鮮明に蘇った。
念願だった総司様とのワルツに、胸が高鳴ってしまったことは事実だった。
嬉しくて、楽しくて、あのひとときが幸せで……もしかすると、そんな気持ちが隠しきれず、表情にも出てしまっていたのかもしれない。
だからこそあの時、千様が私を見つめて険しい顔をされていたのだと、今になって気付いた。
「別に、ワルツを踊ること自体はいいんだよ。社交の場に出れば、俺達の立場柄、付き合いで踊らなければならないことだって多々あるからね。でも、周りからそう見えるような振る舞いをするのは、正直どうなのかなって思う。少なくとも俺は、その話を聞いて酷く気分が悪かった。多分、実際に見てたらもっと腹が立ってたと思う」
薫様は私を見つめることなく、静かな声でそう告げた。
その言葉が胸に刺さり、これまで一度も向けられたことのなかった薫様からの厳しさに、私は自分自身への嫌悪を覚えた。
『……申し訳……ありません……』
それ以上の言葉が、どうしても続かなかった。
あの時のワルツを、私は心から楽しんでしまったから。
その事実を否定できないからこそ、罪悪感が胸を締めつけ、息をすることさえ苦しくなる。
薫様が不安を抱いてしまった原因の一つには、間違いなく私自身の振る舞いもあるのだ。
それにも気付かず、薫様を支えたいなどと思っていたなんて……私は、なんておこがましかったんだろう。
「いや……俺の方こそ、嫌な言い方した。でも俺は別に、セラを責めたいわけじゃないんだ。ただ、一応話しておきたくてさ」
『話して頂けて良かったです。言い難いことを薫様に言わせてしまって、ごめんなさい』
「謝らなくていいよ。セラに他意はないってわかってるし、セラはこうして俺を選んでくれた。それだけで十分だから」
きっと、私が総司様への想いを完全に断ち切れていないから、こんなことになってしまうんだ。
だから一日も早く総司様への想いは自分の中から消さなければならない。
そうしなければいけないのに、自分にもどうにもできないこの感情が嫌だった。
『私がこの先一緒に人生を歩んでいきたいと思っているのは薫様です。その言葉に嘘はありません。でも薫様を悲しい気持ちにさせてしまって、本当に申し訳なく思っています。今度からはそのようなことがないように、気をつけて……』
「セラ……」
話している途中で遮るように呼ばれた名前は、とても優しい響きだった。
僅かに歪んだ視界の先には、薫様がいる。
薫様は少し困ったような微笑みを浮かべて、私を見つめていた。
「ごめん、困らせて。こんな話、しなければ良かったね」
『いいえ。私は思ってることがあるなら薫様に話して頂きたいと思っています』
「でも、セラは俺に全部を話してくれてるの?」
『それは……』
薫様は、私が長い間、総司様を忘れられずにいたことをご存じだ。
総司様との約束を胸に秘めていたことも、総司様の噂を耳にして心を痛めていたことも、総司様が他の方と結婚され、泣く泣く想いを諦めたことも、すべて知っている。
それでも薫様は、私の気持ちが落ち着くまで何も言わずに待ってくださった。
そして十七歳のデビュタントを迎えたあの日、初めてご自身の想いを伝えてくださったのだ。
あの時から、薫様は確かに私の中で特別な人になった。
いつしか、この人と未来を歩んでいきたいと思うようにもなった。
だからこそ、今の私の気持ちを正直にすべて話そうと思ってみても、どんな言葉を選べばいいのかわからない。
口にした言葉がもし薫様を傷つけてしまったらと思うと、怖かった。
「正直に答えて欲しいんだけど、セラは本当はアルディオン公と一緒にいたかった?」
思いがけない問いに、私は目を見開き、迷わず首を横に振った。
『そのようなことは思っていません。私は本当に薫様とだから、これから先の人生を一緒に歩んでいきたいと思ったんです』
「それは、どうして?」
『私にとって、薫様が大切な人だからです』
そう告げると、薫様の瞳がかすかに揺れた。
その表情を見つめながら、私は胸の奥にある想いを、ひとつずつ確かめるように言葉にしていく。
『総司様のことは、確かに好きでした。感謝もしていますし、一緒に過ごした時間は私にとって大切な思い出です。でも……そのことと、これから先の人生を総司様と共に歩みたいと思うことは同じではありません』
薫様の瞳から目を逸らさず、私は小さく息を吸った。
『私が一番大切にしたいと思っているのは、今こうして私のそばにいてくださる薫様です。だから……私が薫様を選んだことだけは、信じてください。薫様と一緒に生きていきたいと思ったから、私は薫様の隣にいたいんです』
これでちゃんと伝わっただろうか。
言葉にすればするほど、かえって足りないような気がして、胸の奥が不安に揺れる。
薫様の返事を待っていると、やがて彼はふっと表情を和らげ、そっと私の指に自分の指先を絡めた。
「それが聞けて安心した。俺が帝国まで押しかけたから、セラが帰るしかなくなったのかな、とか……少し不安だったからね」
『そのようなこと、思う筈ありません。どうして、そのようなことを?』
「あいつにそう言われたんだ。他にも、俺との婚約だって、本当は断る勇気がなかっただけなんじゃないか、とか」
『え……?あいつって……もしかして、総司様ですか?』
「そうだよ」
どうして、そんな意地悪なことを?
私は総司様にも薫様が大切だと伝えていた筈なのに。
「だから、少し勘繰ったんだ。セラがアルディオン公に、俺のことを何か悪く言っていたのかもしれないって」
『そのようなことは、絶対にありません』
「うん、わかってる。わかってるんだけど、半年も会えなかったんだ。疑心暗鬼にもなるよ」
薫様は深く息を吐き、困ったように苦笑した。
その顔を見ていると、心がきゅっと締めつけられる。
私が知らないところで、そんなふうに不安にさせてしまっていたのだと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「俺はセラに俺だけを見てほしいと思ってる。嫉妬だってするし、できることなら他の男のことなんて全部忘れてほしいよ。でも、今すぐというより、時間をかけてセラの中で俺のことをもっと大切な存在にしていけばいいって思ってたんだけどさ。セラは、どちらかというと俺のことを男というより、友人の延長みたいに見てるだろ?」
『そんなことは……』
ないとははっきり言い切れなくて、そこで言葉が止まってしまう。
すると絡められた指先が、少しだけ強くなるのを感じた。
「やっぱり少しくらいは……男としても意識してもらいたいんだよね」
そう言って薫様が身を寄せてくると、私は思わず呼吸を止めた。
背中に腕が回され、気づけば二人の距離は驚くほど近くなっている。
いつも優しく私を守ってくれる薫様が、今はこんなにも近くにいることが恥ずかしくて、胸の鼓動まで聞かれてしまいそうな気がした。
それでも、薫様に余計な心配をさせたくなくて、私は慌てながらもきちんと伝えようと口を開いた。
『私、ちゃんと男の人として薫様を意識してます』
「それは、本当?」
『本当です……。今も……心臓が……』
言葉にしようとすると、余計に胸が騒いだ。
ドキドキしているというより、驚くほど激しく脈打っていて、落ち着こうと思えば思うほど、かえって意識してしまう。
薫様の顔を見つめることもできず、視線を彷徨わせていると、そんな私を見た薫様が、ふっと柔らかく笑った。
「良かった。でも、俺にもっとどきどきしてよ」
絡められていた指先がいつの間にか頬に触れ、優しく撫でるように動く。
その温もりに戸惑っているうち、薫様の唇がそっと重なった。
柔らかくて、温かい。
ほんの一瞬だったのに、その感触だけがいつまでも残っているような気がして、私は呆然としたまま薫様を見つめた。
やがて離れた薫様の瞳は、少しだけ潤んでいて、いつもとは違う眼差しで私を見つめている。
そのことに気づくと、頬がますます熱くなるようだった。
「嫌じゃない?」
『はい……』
「もう一回してもいい?」
耳元で囁かれるように言われた言葉に、肩が思わずぴくんと揺れる。
緊張から頭の中が真っ白になりながら頷くと、すぐにまた温かい唇が降ってきた。
最初は優しかった触れ合いが、次第に深くなっていく。
薫様の舌が私の唇をそっとなぞり、自然と口を開いてしまった私の中へと入り込んできた。
初めての感触に体がこわばるけど、私はされるがままにその熱を受け止めた。
絡み合う舌の動きに、甘い息が混じり合い、胸の奥が熱く疼く。
背中に回された腕が私を強く引き寄せ、隙間を残さないほど互いの身体が密着すると、薫様の胸の鼓動が伝わってきて、その速さに私の心臓もまた激しく打ち始めた。
「……ずっと、我慢してたんだ。もっとしたい」
唇を僅かに離した隙間から、低い声が落ちてくる。
その声音に込められた渇望が、私の背筋をぞくりと震わせた。
すぐにまた唇が塞がり、今度はより深く熱い舌が私の中を探るように動く。
初めての感覚に頭がくらくらするほどなのに、私はただその熱に身を委ねるしかなかった。
指先が私の頬を優しく、逃がさないように支え、キスは終わらない。
薫様の想いが口付けの一つ一つに溢れているみたいで、私の体の芯まで熱く溶かされていくようだった。
『……はあ……』
ようやく唇が離れても、恥ずかしさから薫様の顔が見れない。
隠れるように薫様の肩に顔を埋めると、彼の手が優しく私の髪を梳いた。
「そんな可愛い反応してくれるなら、もっと早くにこうしてれば良かった」
その言い方もどうなんだろうと思いながら、恨めし気に薫様を見上げる。
すると薫様は、今まで見てきた中でも一際嬉しそうに微笑んでくれていた。
「これで少しは俺のことを意識してくれるようになったかな」
『最初から意識してますってば』
「どうだろうね。まあでも、これからは遠慮しないから。よろしく」
『ふふ、よろしくって何ですか?』
「俺の相手をしてよってこと」
返事の代わりにそっと手を繋ぐと、薫様は優しく微笑んでくれた。
今はまた恥ずかしい気持ちの方が強いけど、こうして二人で過ごす時間を重ねていけば、薫様を異性としてより特別に思えるようになる。
そう思うことが出来た夜だった。
「さてと。じゃあ、俺はそろそろ行くよ。これ以上ここにいたら、止まらなくなりそうだし」
『ふふ、変な薫様』
「別に変なことは言っていない。それにセラも疲れてると思うから、今夜はゆっくり休みなよ」
『薫様も。本当に私のために沢山お力添えをしてくださってありがとうございました』
にこやかに部屋を出て行く薫様を見送って、私は床に立て掛けられた旅行鞄を開いた。
中にはアストリアから持って行ったぬいぐるみと、思い出がつまった生形の箱。
そして帝国で総司様から買って頂いた本が数冊と着替え、それに真っ白なテディベアが入っていた。
『帝国にいたなんて、夢みたい……』
この半年間の日々を思い返しても、長い夢を見ていた気分だった。
少し前までの私は、総司様と再会し、総司様のお屋敷で暮らすことになるなんて夢にも思わなかった。
アストリアに戻れてとても嬉しく思う気持ちの中に、ちくりと僅かに痛みが走る。
私は無意識に手を伸ばすと、青い瞳のテディベアをそっと腕の中に抱きしめていた。
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