モラトリアムを溶かして

 
カラン、と、来店を告げるベルの音に、閉店作業をしていたみょうじは顔を上げた。

渋谷の入り組んだ路地裏にある隠れ家的なバー、それがバーテンダーであるみょうじの職場であり、自らがオーナーを務める城でもあった。
時刻は夜明け前。
少し前にクローズドの札はかけたはずで、鍵は確かにまだかけていなかったが、
はて、読めないほど劣化した札を使っていただろうか。
そこまで考えて視線を入口に持っていき、みょうじは僅かに目を見開いた。

「……、……どこの礼儀知らずかと思えばキミか。
 なるほどそれは札の英単語も読めないわけだよ」

「別に読めないわけじゃない。
 営業時間中はオマエ空いてないんだろ、客が多くて」

「だからといって営業時間外に来ていい理由にならないんだけどね。
 それで、何の用かな、元黒龍の今牛若狭くん」

「他人行儀だな。
 というか、オマエが呼ぶんなら連合の方じゃないの、なまえ」

ゆらり、と歩いてきた来店客─今牛若狭は流れるようにカウンター席につき
仕方なさそうに片付けたばかりの道具を引っ張り出すみょうじをじっと見上げる。
みょうじはそんな若狭を一瞥すると目を伏せ、小さく息を吐いた。

「オレはもうとっくに足を洗ってるし、そっちの世界とは関わってないよ。総大将」

「あー、それ。
 オマエにそう呼ばれんのが一番しっくりくる」

「あれ、話聞いてた?
 随分とイメチェンしたみたいだけど、ついでに耳も悪くなったのかな」

グラスを出しながら疑問を投げかけるみょうじだか、少し鼻で笑うような仕草を見せて。
変わってないね、と溢すとゆったり若狭へと視線を流す。

「オレがここでバーテンやってるの、どこで聞いたの?
 あれきり、キミとの縁は切ったつもりだったんだけど」

「オマエ、そゆとこ連れねぇんだ。昔からそうだもんな、猫みたいに急に居なくなるから」

「お行儀が悪い口だね。
 オレの質問、まだなんにも答えてないよ」

「あー……ベンケイから聞いたよ。
 付き合いで寄ったバーにオマエが居たって、
 聞けば人気者らしくて?目当ての客が途切れないから空かないとかなんとか」

みょうじはやっと貰ったその答えに、す、と目を細めると何事もなかったかのように綺麗に笑う。

「そっか。
 もう忘れたかと思ってたよ、昔の仲間の事なんて。
 さあ、準備できたけど何か飲む?」

「オマエさ、なんで出てったの?
 真ちゃんだって歓迎してくれてただろ。
 いきなり連絡つかなくなったと思えば家も移すし」

「……、……悪かったよ。
 でももう昔の話でしょ、こうして会えたんだからいいじゃん。
 絶対話したいからって常識外の行動してくるほど求められて嬉しいなあ」

「そりゃオマエ、求めるでしょ。
 ……付き合ってた相手がいきなり連絡先も家も変えてさ。
 告白20連敗の真ちゃんよりひどいフラれかたしたんだけどオレ」

す、と、カウンターについていた手に優しく重ねられた手。
思わず身を強張らせたみょうじを一瞥して、若狭の指先は筋をなぞるようにみょうじの肌を滑る。
そしてみょうじに視線を戻した若狭は、なあ、と、それだけでみょうじを詰問する。
先程までの余裕そうな態度は鳴りを潜めて、ばつが悪そうに視線を逸らした。

「……キミの、それ苦手なんだよ。
 雰囲気で流せば全部言うこと聞くと思ってるでしょ、若狭くん」

「は……流されるなまえのせいだろ。
 平気なフリしてる時に声上擦んの、直した方がいいって何回言ったっけな。
 ていうか平気なフリするにしても目線逸らしすぎ」

「……ほんと、そういうとこたち悪いってオレも何回も言った」

みょうじを見上げながらにんまりと口角を上げた若狭に、みょうじは頬から目元まで赤く染める。
店の入口で目が合った時から、最初から全部、みょうじは内心冷や汗でいっぱいだった。

昔、みょうじは若狭の率いる暴走族のチームに居て。
周りにこそ内緒ではあったが、2人は当時付き合ってもいた。
告白したのはみょうじからで、それが黒龍に入ると聞いた時に突然姿を消したのだから
さぞ怒っているのだろうとしばらくは気が気ではなかったのだ。
一時は都外に逃げるように引っ越し、数年前に渋谷へと戻ってきて。
無事に会わずに済んでいたからすっかり安心しきっていた。

それなのに、突然やって来た若狭は怒るどころか、最初からみょうじの上擦る声や仕草や、
精一杯の平気なフリを楽しんでいたというのだから趣味が悪い。

「で?オマエなんで消えたの。
 ……別に、怒ってないって言ってねぇよ」

「……っ」

にまりと、さらに少し口角を上げた若狭の目はよくよく見れば笑ってなどおらず。
たらりと背中を冷や汗が伝うのを感じる。
未だに上に乗せられた手が、逃がさないと言外に示しているようで。
みょうじは観念したように深く息を吐いた。

「……嫌なんだよ」

「何が」


「オレの上に居るのは、オレの絶対は若狭くんじゃないと嫌だ。
 他の誰でもない、若狭くん以外に頭を垂れるなんて考えるだけでも無理だから」


苦々しそうに吐き出すみょうじに、今度は若狭が目を見開く番だった。
ぱち、と長い睫に縁取られた瞳がゆっくり瞬きをして、
それから今度は呆れたように目を細めて。

「だから黒龍作るってなって、オレが頭じゃないからって逃げたって?
 もっとこう、チームだけ抜けるとかいろいろあるだろ」

「だってあの頃、キミは真ちゃん真ちゃんって。
 いきなり出てきた奴に夢中になったキミの事見る恋人の気持ちとか考えてよ」

「だからって全部投げ出すあたりオマエほんと、極端なんだよ。年上のクセに」

「大人になれてなくて悪かったね。
 年上って言ってもキミと2つしか変わんないし」

ふい、と顔ごと逸らしたみょうじは、やんわりと若狭の手を退かすと徐にボトルを取り出す。
そうして手慣れた仕草で注いだグラスを若狭の方へ出して、どこか不敵に笑った。

「まあ、いきなり消えたお詫びとして、オレからの奢り。
 いい酒だよ、昼間からビールと焼き鳥を楽しむ口に合うかどうかは知らないけど」

「……は、オマエ相変わらず情報がストーカーじみてんの。つーかこれ……」

「なに?別に何も入って……─」

少し、上擦る声を紡ぐその口を、注がれたワインで冷えた唇がふさいだ。
きっちり締められたネクタイを弛める悪戯な指先を気にする余裕もなく
冷たい唇に熱を戻すように併せられるそれに翻弄されるばかりのみょうじは、
ゆっくりと離れた唇の主を困惑したような顔で見つめる。

「……なに、若狭くん」

「何って、久しぶりに再会する元恋人にこんな誘いするくらいに求めてたんじゃないの。
 まあ、夜っつーかもうすぐ朝だけど」

「……、……知ってたの」

グラスの縁をなぞりながら笑う若狭に、悪戯が見破られた子供のような顔をしたみょうじは肩を竦める。

「ホテルかオマエの家かくらいは選んでいいけど」

「……いいよ。キミに任せる。
 そう言ったでしょ、今」

「相変わらず遠回し……いや、
 お行儀の悪い口だな、なまえ」

若狭は愉快そうに小さく笑うともう一度グラスに入ったシェリー酒に口をつけて、またその熱をみょうじへと移した。





「そういやオマエの口からはっきりフラれてないんだけど、まだ恋人の猶予とかあんの?」

「……オレの口はお行儀が悪いらしいから、身体にでも聞いてみれば」

「……歳とったなオマエ」

「うるさいよ」



今夜は貴方に全てを捧げます