シトラスの余薫・上

 
 
渋谷第二中には、教師も手に負えない問題児が居るらしい。

三ツ谷隆がそんな噂を耳にしたのは、二学年の課程が修了する頃だった。
いわゆる不良である自分やその仲間の林良平や林田春樹の話かと最初こそ思ったが、
聞くにつれどうやらそうではないらしい事を知り
はたして不良界隈でまだ出会っていない有名人物が居るだろうか、と首をかしげる。
どうしても興味が抑えきれなかった三ツ谷は、その噂をしていたクラスメイトに聞き、
男子生徒である事と、その生徒の名前がみょうじなまえである事を知ったのだ。

そして、三年生に進級した日である今日、クラス替えの表を見に行くと
偶然にも同じクラスの一覧にその名前が見受けられた。
これは一度その顔を拝んでおくべきだろう、と
俄然気になった三ツ谷は新しいクラスの教室へと足を踏み入れ、
座席表の中から目当ての人物を探し当てて、声をかけようとした。
だが、その足は目的の席にたどり着く前にぴた、と止まってしまう。

「……えっと、みょうじなまえ……?」

中途半端な位置で止まってしまったものの、三ツ谷はなんとかそのまま声をかけた。
すると相手は、そんな戸惑ったような三ツ谷の声に反応して、ちらりと興味なさげな視線を寄越す。
長い睫毛に縁取られた瞳に、スッと通った鼻筋。
それに肩ほどまでの艶やかな黒髪と、座っていてわかりにくいがすらりとした体躯。
おそらく立ち上がれば三ツ谷よりも背が高いだろうその人物は、綺麗な顔を半分三ツ谷の方に向けてから
面倒そうに目を狭めた。

「そうだけど、なんだよ」

「いや……席、近いから。挨拶的な」

「ふーん。あ、そ」

勿論、顔の良し悪しで三ツ谷が尻込みしたわけではない。
噂の問題児は男子生徒、と聞いていたのだが、
そこに着席して三ツ谷の問いかけに反応した人物は
女子生徒の制服を着ていた。
しかもそれがよく似合っていて、背も高いし声も若干低く、どう見ても男子生徒であるが何故か違和感なく視界に溶け込むようだった。

「嘘ばっか」

「え?」

「オマエ、三ツ谷だろ。
 トーマンだっけ、それに入ってる不良。
 自分の席、見もせずに真っ先にここ来といて挨拶なんて、よく言う」

少し艶めいた形の良い唇からは、皮肉味のある言葉が発せられて三ツ谷は目を見開く。
そしてにまりと弧を描いた唇と細められた目に少したじろぐと、
みょうじは立ち上がってとん、と三ツ谷の心臓の上辺りを指で突く。

「どーせオレの噂聞いて、好奇心満たしに来たんだろ。
 で?完璧女装男の感想はどーだよ、不良生徒の三ツ谷隆クン」

「……や、なんていうか。
 すげーな、男なのに全然違和感ない。
 メイクとかもしてんでしょ、自分でやってんの?」

「……、……ははっ、まあね。
 女子みてーなとこ食いつくなぁオマエ」

「気になるじゃん。
 まあ個人的には中学からフルメイクはちょっとアレかと思うけど」

ぱち、と、ゆっくりと瞬きをしてからおかしそうに笑ったみょうじは
再び着席し、今度は完全に三ツ谷の方を向いて話す体勢になる。
組まれた脚や頬杖をつく骨張った手は完全に男のそれだったが
不思議と嫌悪感などはなく、みょうじも予想外に女装に関しての質問には嫌な顔ひとつせず答えていた。


それから、三ツ谷とみょうじが名前で呼びあい、
移動や昼食など頻繁に行動を共にするようになるまでに時間はかからなかった。

ただ、聞くのが野暮だと感じた、女装をしている理由については聞けずじまいで日々が過ぎた。



*



「あー、これはダメだ。
 今日は病院行ってゆっくり寝てような」

「……ん……。わかった」

「よし、じゃあ行くか。
 マナもおいで」

「うん」

ある日、三ツ谷の家では、妹であるルナが熱を出して寝込んでしまっていた。
親はどうしても仕事を休めず、代わりに三ツ谷が看病する事になったのだが
まだ幼いもう一人の妹であるマナを一人家に残すわけにもいかず、三人で近所の病院へと向かう。

「おにぃ、ごめんね……」

「気にすんなって。
 でも心配だから、ちゃんと安静にして早く元気になろうな」

病院の待合室で、ルナが申し訳そうにするのに対して三ツ谷は優しく頭を撫でてやる。
横からマナも気遣うようにルナにひっついていたので
その愛らしい光景にくすりと笑いが漏れた時だった。

「……タカ?」

「え……」

少し驚きが乗せられたような音で、最近よく聞くようになった声が三ツ谷に届く。
振り返ると、そこには予想通りの声の主であるみょうじが居たのだが、
三ツ谷は思わずぱちぱちと瞬きを繰り返し、みょうじをじっと見てしまう。
片手に袋を提げて立っていたのは、髪をワックスで遊ばせ、しっかりとメンズファッションに身を包んだみょうじだったからだ。

「なまえ?」

「そうだけど……あぁ、別にプライベートでまで女装してねぇよ。
 趣味でもねーんだから」

「そっか……つーか、どっか悪いの?
 病院来たって事は学校休んでんだろ」

「いや、遅刻してく。
 オレ自体はどこも悪くねーよ、ただの見舞い。
 好きな雑誌の発売日なんだと」

片手に提げた袋を持ち上げるようにして苦笑するみょうじに、三ツ谷はそういえば、と思い返す。
みょうじと行動を共にするようになってからというもの、確かに時折遅刻してくる事があった。
本人が寝坊なのだと笑っていたから三ツ谷は朝に弱く遅刻癖があるのだろうという程度にしか認識していなかったが
それはまさか今日のように誰かの見舞いで遅れていたのてはないか、と思い至り
みょうじを見ると眉を下げて困ったように笑っていた。

「あんまりオレに興味持つなよな、タカ」

「え、おい、それってどういう………」

「興味持っても意味ねーから。
 じゃあまた学校でな、妹さん大事にしてやれよ」

「なまえ……、……」

引き止めるのも気が進まず、三ツ谷はそのままみょうじを見送る。
踵を返したみょうじから、僅かにシトラスが薫った気がした。