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「オイ、大丈夫か?」
落ち着いた、少し低い大人のような声。
差しのべられた浅黒い肌をした大きな手をじっと見てから、
なまえはひどく困惑したような顔でその声と手の主に視線を合わせた。
「……オレ、お金とか持ってないですけど」
「…………はあ?」
なまえは見た目のせいで幼い頃から絡まれ続けてきたが、一人が一方的に蹂躙するケンカなど見たことがなかった。
噂では兄の強さもそのようなものらしいが、なまえは不良としての兄に関わった事はなく。
ただその嫌でも耳に届く噂で知っていただけで。
だから先程、目の前の巨体の男が見せたケンカ……
怯まず、倒れず、ろくに傷も負わずに何十人もの相手を倒してしまったそれに雷のような衝撃を受けて。
きらきらと輝きを宿した目で魅入ってしまったのだが、先程の男の声で我に返った。
「だから、助けてくれたのはありがたいんですけど
オレ今お金なくって……渡せるもの何もないです」
なまえの事を、助けたように振る舞う人間は、何人か居たには居た。
それこそ相手を倒してしまったりは流石に無かったが、
警察に通報してくれたりだとか、避けられているなまえと友達になると言ってくれたりだとか
そういった事をして助けたように振る舞う人間は居た。
「それにオレ中学生だし男だから、ホテルとか言われてもちょっと困るので……」
片側の瞼が腫れてきてろくに開かないままに、諦めたような顔でなまえは男を見上げる。
差しのべられた手を取ってしまったら、その優しさを頼ったらいつも、
金銭だとか何かしらを、助けたのだからと要求されて。
それに異を唱えるとそこに優しさなど存在しなかったかのように相手は冷たく消えてしまう。
この男も例に漏れずそうなのだろうと、なまえは自分に向けられている手を避けるかのように俯いて
悲鳴を上げる身体でなんとか無理やり立ち上がろうとした。
しかし、次の瞬間、なまえの身体は突然宙に浮いた。
「ぅわ、っ!?」
「ッ、馬鹿かテメェは!?
金なんて要らねえしオレはソッチの趣味なんてねーよ気持ち悪ィ!
身体ぁ大丈夫かって聞いてんだろが!!」
「えっ……!?
あ、いや、あの、だいじょうぶ……です」
まるで猫のように首根っこを片手で掴まれて持ち上げられて、
男の強面の顔が目線を合わせるように近づいてきてなまえは動揺する。
なんとか男の問いに答えると、男は呆れたような顔で大きく息を吐いて空いている片手でなまえの身体に触れる。
「わ、あの…っ、ちょっと……」
「勘違いすんじゃねー。
……まあ、折れてはいねぇな。
救急車はいらねーだろうから病院行くぞ」
「へっ……?
あの、そこまでしてもらわなくても……
オレ一人で行けますし、そもそもどこかでじっとしてたら治ると思うし……」
「治るワケねーだろ頭ぁイカれてんのかオメェ」
「えぇ……」
一度家族に連絡されてからというもの、なまえは病院が嫌いだった。
兄で慣れているのか親は来はしなかったが、代わりと言わんばかりに来た兄がそれはもう怒ってしまって。
落とし前をつけさせるだのなんだのと言う兄を宥めるのが大変だったのだ。
なんとか宥めた後に見た兄の悲しそうな顔が脳裏にこびりついてしまっていて、
それ以降こういった怪我で病院には行っていなかったし
そもそもこんなに動けないほどの怪我は久しぶりだった。
「だから、病院には行きたくなくて」
「……あーもう、メンドクセェな!
わーったよ、じゃあオレが保護者ってコトならその兄貴にも連絡いかねぇだろが。
さっさと病院行って手当てすんぞ」
「……似てなさすぎて病院の人もドン引きですけど」
「オマエ見かけによらず口が減らねぇな」
結局、なまえはその男と病院へ行き、医師にこっぴどく叱られながら手当てを受けた。
そしてその帰り道、なまえは自分の倍ほどもありそうな大きな背中へとその身体を預けている。
「……すいません、送ってもらっちゃって」
「絶対安静って言われたカタギ歩かせるほど落ちてねぇよ。
つーかオマエ、名前なんつーんだ?」
「……あー……」
「んだよ、名乗るぐれぇいいだろうが」
そういえば、とばかりに名前を聞かれて、なまえは少し唸って目の前の大きな背中に顔を埋める。
その行動は気にする風でもなく、男は再度名前を聞いてきた。
しかしなまえは、名前を名乗るのがひどく嫌いで。
名乗っていい思いをした事など一度もなかった。
珍しい苗字ゆえに、顔がそれなりに似ているなまえと兄を繋げるのは容易で、
それがわかった瞬間に逃げるように消えた人間も居た。
初めて触れた他人の優しさを手放すのが惜しくて、
まだこの温かさを感じていたくて、なまえはつい押し黙ってしまう。
「……オレは荒師。荒師慶三っつーんだ。
ベンケイとかあとまあ……赤壁とか呼ばれてっからよぉ、今度から絡まれたら名前出していいぞ。
螺愚那六っつーチーム組んでっからさっきの奴等くらいなら名前出しただけで逃げんだろ」
「……え、それって……」
ぱちりと、男……荒師に言われた言葉になまえが目を見開いた時だった。
「おいテメェ、ウチのなまえに何してやがんだぁ?」
「あ?……テメェ、何でここに居んだよ」
「そりゃこっちの台詞なんだよ。
自分の家の前に居ちゃ悪いんか」
「自分の家って、オマエ……」
ちょうどなまえの家の近くまで来ていたものだから、
間の悪い事に帰宅してきていた兄……荒師の率いる螺愚那六のライバルである煌道連合、その総大将を務める今牛若狭とかち合ってしまって。
ただでさえ有名すぎる兄、その兄と仲の良くない相手だと知って、
なまえは荒師の服をどこか祈るようにぎゅう、と握りしめて観念したように口を開いた。
「……騙したみたいになってごめんなさい。
オレの名前……今牛なまえっていうんです」
初めて本当に優しくしてくれた相手も離れていってしまうのかと、
なまえは惜しむように広い背中に再度顔を埋めた。