「ミリア殿下!」
晴天の空に似つかわしくない劈くような悲鳴が轟いた。
甲冑を纏う兵士は血相を欠いた顔色で一人の少女を取り囲んでいる。昏倒した際に頭を強く打ち付けたのだろう、少女の頭から鮮血が滴り落ちて石畳の上を蛇のように這っていた。緋色の髪は血に塗れて毒々しい色を見せている。頭を打ちつけているなら少女を下手に動かすこともできない。一向に目を覚ます様子を見せない少女に、兵士たちは焦りに顔を歪ませる。
「医者はまだか!」
ファブレ公爵家は混乱の渦中にあった。
日中、譜歌を使って侵入した賊により邸中の者たちが強制的に眠りにつかされたのだ。普通の譜歌による攻撃ならば耐性があったものの、賊が使用した譜歌は明らかに通常のものより威力が高かった。そのせいで一時的に警備は無力化された。ファブレ公爵家は私兵を持つことが許されている、大貴族である。一時的に警備が無力化されただけも危険なのに、さらに凶事が二つ重なった。
一つは公爵子息である、ルーク・フォン・ファブレが邸から忽然と姿を消したことである。
ルークの行方はわからないが、姿を消した原因は判明していた。擬似超振動により、行方知らずとなってしまったのだ。ルークが消える際、賊との間に擬似超振動が発生した瞬間を、使用人たちが間近で見ていた。超振動の観測機を調べれば、擬似超振動の収束地が判明するだろう。
そしてもう一つは、たまたま来訪していたミリア・ルツ・キムラスカ=ランバルディアが襲撃事件の被害者になったことだ。
第2王女ミリアはルークの剣稽古を見物すべく、中庭に通じる階段を下りる最中に昏倒してしまった。
その結果、ミリアは顔面から地面に倒れこみ、額を強く打ちつけて鼻骨を折るという大怪我を負っていた。ミリアの両鼻から滴り落ちる流血はハンカチで早々に拭ったが、頭の血を拭うにはハンカチが足りず、真っ赤に染まった絹のハンカチが石畳の上に散乱していた。王女は痛みを訴えることもなく目を閉じている。意識不明の重体だ。
このままミリアが目覚めることがなかったら。
いや、それ以前に出血が酷くて、ミリアが死亡する危険性もあるかも知れない。
目覚めたとしても、頭を強く打ち付けた拍子で、脳に何らかの障害がうまれたら――。
最悪の想像ばかりが頭に過ぎる。兵士たちは怒りと悲憤に身を震わせて、今は医者の到着を待つしかなかった。
ミリアは一命を取り留めたものの、昏睡状態に陥った。私室のベッドで深い眠りについている。
王女を危険に晒したことで、当時ミリアの護衛についていた騎士たちは責任を取らされて解雇された。またこの事件で、ミリア王女と、王妹シュザンヌ、王位継承権三位であるルークを守れなかったファブレ公爵にも責任がいった。ファブレ公爵とシュザンヌは離婚させられ、シュザンヌは城に連れ戻された。公爵は財産と領地を半分没収されて、元師の地位から下ろされ、コーラル城に引っ込むことになった。
激怒したインゴベルトはこれだけに留まらずダアトにも抗議を送り、城に居座っていたモースを捕らえた。襲撃者を庇ったヴァン総長も捕縛、牢屋に入れた。導師イオンによる謝罪を待つ段階であったのだが、その頃、導師イオンは和平使者と共にのんきにも徒歩でキムラスカに向かっている最中だった。事情を知らぬインゴベルトたちは一向にダアトから届かない謝罪に業を煮やし、とうとうある者の首を切り落とし送りつけることで、教団に宣戦布告をした。
ルークの名を使い、国境を通り抜けて、カイツール軍港に足を踏み入れた和平使者一行は、その場を埋め尽くすほど大勢のキムラスカ兵の姿に驚愕した。
「これは……」
全員が息を飲む音と共に動揺の声をあげた。物々しい様子を見せるキムラスカは忙しなく辺りを行き交い、停泊している四隻の軍艦に食料や武器といった物資を運んでいる。――これは戦争の準備だ。
「何故……もしかしてマルクトとの関係が悪化したのかしら?」
ティアは硬い表情で最悪な事態の想定を告げる。現状を見る限りそうとしか思えなかった。緊迫した雰囲気に飲まれて声をなくす一同の耳に、ざわりと騒々しい声が届く。
「この……っ、おとなしくしろ!」
「やぁっ……! やめて! その子は何も……いやあっ!!」
キムラスカ兵の声と女の子の声が交互に乱れる。女の子の声に聞き覚えがあったアニスとイオンは顔色を変えた。
「あの声は……アリエッタ!?」
「あ、おい!」
声の出所に向かってイオンとアニスが走り出す。その後をルークが追いかけると、すこし遅れてティアたちも後に続いた。
巨大なコンテナが並ぶ場所で複数のキムラスカ兵が捕物劇を行っていた。一人のキムラスカ兵は妖獣のアリエッタを冷たい石畳の上に押し倒して、彼女の薄っぺらい背を膝で押さえ付けて、起き上がれないように体重を乗せている。他のキムラスカ兵はアリエッタが連れていたと思われる、二匹のライガを殺害していた。目の前で家族を殺されたアリエッタの桃色の双眸に涙の幕が張る。奇声をあげて暴れるアリエッタの頬をキムラスカ兵は容赦なく叩いた。ぱしんっと小気味の良い音はアリエッタと、一連の騒動を呆然と眺めていたイオンとアニスを我に返した。アリエッタは石畳の上に横たわる二匹のライガの死体に心を打ちのめされて、ぽろぽろと涙を零す。
「アリエッタに何をしているんですか! こんな……酷すぎる……」
イオンはキムラスカ兵たちを非難した。アリエッタの目の前で彼女の家族を殺害するばかりか、アリエッタに乱暴なことをしているキムラスカ兵たちの姿は、温和なイオンを怒らせた。いつになく険しい形相をするイオンに倣うように、アニスも非難じみた眼でキムラスカ兵を睨みつけている。キムラスカ兵は最初は訝しそうな顔をしていたが、イオンとアニスの服装を見るとすぐさま冷たい表情になった。
「ローレライ教団の方ですか?」
「この方は導師イオン様です。あたしは導師守護役のアニス・タトリン」
イオンが舐められないようにアニスは先制のつもりで名乗る。キムラスカ兵の眼はさらに冷たくなった。
「導師イオン様ですか……」
「はい。あなた方はいったいアリエッタに何をやっているんですか? ことと次第によってはキムラスカに抗議させていただきます」
「この者はカイツール軍港を襲撃しました。その際、キムラスカの整備士が数名犠牲になってます。我々は職務を忠実に果たし、この者を捕縛したまでです」
「な……アリエッタ、それは本当ですか?」
キムラスカ兵の言葉に信じられないと目を瞠り、イオンは今だ地面に押し倒されているアリエッタに尋ねる。アリエッタは泣き顔を晒していたが、それでもはっきりと頷いた。
「アッシュがルーク攫えって……そうしないとアリエッタの家族殺すって……いわれたです。だから、人質取って、ルークを攫おうとした、です」
アリエッタは家族の命を案じてアッシュの脅迫に屈した。だが、家族を目の前で殺害された今となっては、脅迫に屈した意味はなくなってしまった。素直に話すアリエッタにイオンは「そんな……」と表情を暗くした。
「……アリエッタの拘束を解いてください。彼女の身柄は教団が引き取り、その後、査問会で審議します」
「その要求にはお応えできません」
「何故ですか? ローレライ教団の軍人が問題を起こした場合、本人の身柄は教団が預かることになってます。それが教団の規律です。キムラスカもこの規律を受け入れているはずなのに……」
「――妖獣のアリエッタを捕らえたと聞いたが真か」
「アルマンダイン将軍!」
現れたアルマンダイン将軍はぐるりとその場を見回す。地面に押し倒されたアリエッタと、音叉を胸元に掲げて地位を誇示するイオンの姿を視界に留めたが、鉄仮面のような表情はぴくりとも動かなかった。しかし、ルークを視界に入れたとたんに顔を喜色に染めた。
「おお、そちらにおわすは、もしやルーク様では?」
「え? ああ、そうだけど……えーっと……」
イオンたちの存在を無視してアルマンダインはルークに話を振る。当然無視されたイオンたちは面白くなかったが、彼らが口を挟むよりも先に、アルマンダインが口火を切ってしまった。
「申し遅れました。私はアルマンダインと申します。キムラスカ王国軍大将にしてカイツール軍港の司令官と同時に伯爵位を授かってます。ファブレ公爵家が襲撃されたと聞き、その後ルーク様の行方が知れず、御身の無事を心よりお祈りしていました。ミリア殿下が凶事に見舞われた中、ルーク様だけでも無事が知れて安堵しました」
「あ、ああ……ありがとう。って、ちょっと待てよ。ミリアが……なんだって?」
アルマンダイン大将は涙ぐんで無事を喜んでくる。暑苦しいものを感じて身を引いていたルークであったが、最後の言葉に引っかかりを覚えて尋ね返した。アルマンダインは目を丸くしたが、まだルークが現状を知らないのだろうと、ミリアの悲報とそれに伴い変化を遂げた状況を詳細に伝えた。
「あの日たまたま来訪していたミリア様が襲撃の被害に遭われ、今もなお意識がお戻りにならないのです。医療譜業を使い処置を施しているおかげで何とか生き長らえていますが、自力で食事もすることもできない状態が続き、だんだんと痩せ細ってしまわれています。考えたくありませんが、このままでは遠からず……」
「そんな……」
幼馴染の現状に愕然とするルークに追い討ちをかけるようにアルマンダインは話を続けた。
「ショックを受けているルーク様にこのようなことを言うのは、私としても非常に心苦しいのですが……襲撃事件の警備に問題があったとしてファブレ公爵が責任を問われて財産の半分が没収、元帥の地位を下ろされ、シュザンヌ様と離婚しました。シュザンヌ様は城に連れ戻され、公爵はコーラル城に居ます」
「な……っ……」
ルークの知らないうちにとんでもない問題が発生していた。蒼白い顔で呆然とするルークは言葉もなく立ち尽くす。ルークの現状を知り、ティアやガイは気遣わしげな視線を向ける。――だが、それも長くは続かなかった。
アルマンダインは憤怒を燃やしながら、強い口調で犯人を責め立てた。
「ルーク様を拉致し、ミリア殿下を昏睡状態に陥れた、公爵家を襲撃した犯人はローレライ教団の兵士、ティア・グランツと判明しています。犯人の身柄を引き渡すように教団に再三要請しているにも関わらず、教団は杜撰な対応をするばかり、導師イオンから謝罪文も届かない。この状況を重く受け止め、キムラスカは一週間前に教団に宣戦布告をしました」
「「え!?」」
アニスとイオンは二重の意味で驚愕の声をあげた。ティアが公爵家を襲撃したことも、教団が宣戦布告されたことも、二人にとっては寝耳に水だった。事態を把握するにつれ、二人は顔色を悪くさせる。導師イオンに和平協力をお願いしたジェイドも旗色が悪いことに気付いて、難しい顔をした。和平使者一行に波紋を与えた当人のティアはといえば現実味がないのか、呆けた顔をして「そんな……なんて早まった真似を」と何処か他人事のように呟いた。
アルマンダインたちキムラスカ側にとってみれば、ティアの暢気な態度は龍の逆鱗に触れるようなものである。彼女がティア・グランツであることを知らないまでも、アルマンダインたちはティアに怒りを抱き、彼女の態度を批判した。
「何が早まった真似か! ティア・グランツのせいでどれほどキムラスカが被害を被ったと思っている。ルーク様とミリア殿下のことだけではない、ルーク様とティア・グランツの間に発生した擬似超振動のせいで、もしかしたらバチカルの上層部が消失する事態になっていたのだぞ!? ローレライ教団の制服で他国の王族の邸を襲撃しているのだ。これは教団による敵対行為に他ならない!」
「いくらなんでも発想が飛躍してます。擬似超振動が発生したといっても、実際にバチカルが被害にあったわけじゃないんだから……それに制服でルークの家を襲ったなんて。あのとき私は我を失っていて見境がなくなっていたんだわ」
「……何をいっている? その言葉はまるで貴様がファブレ公爵家を襲撃したような……それ以前に、何故ルーク様が教団とマルクトの人間とここに……」
アルマンダインはティアの発言を聞くにつれ、さらに気分を害すと同時に引っかかりを覚えた。一つ疑問を口にすると、また一つ疑問を思いつく。ローレライ教団とマルクト兵に囲まれたルークの姿を見て、何故、ルークが彼らと共にこの場にいるのか怪訝に思った。
一方、ジェイドはアルマンダインの言葉にまずいと顔を顰めた。イオンもアニスも状況を読んで焦りを浮かべる。もしティアが、ファブレ公爵家を襲撃したティア・グランツと知られれば、自分達がどういう目で見られるのか想像に難くない。
ティア本人に罪を犯した自覚も反省もないことが最悪だった。口を開けば、火に油を注ぐような発言を繰り返す。これ以上余計なことを言われる前にティアの口を止める必要があった。イオンは今にも卒倒しそうなほど青白い顔で一歩足を踏み出すと、まくし立てるように謝罪した。
「我が僕がそのようなことをしていたなんて……申し訳ございません。即刻インゴベルト陛下に謝罪を」
導師イオンの謝罪を無視できず、アルマンダインは一先ず追及をやめてイオンに向き合う。
「王の怒りは深い。謝罪したところで受け入れて貰えると思うのはおやめになられたほうが良い」
「それは……はい……」
イオンは深刻な顔で頷いた。アルマンダインはそれを見届け、今だ石畳の上に転がっているアリエッタを横目で一瞥する。
「アリエッタはキムラスカで裁きます。よろしいですね?」
「……はい、わかりました」
了承以外の返事は状況が許さなかった。これ以上キムラスカの怒りを買うことができず、イオンは長としてアリエッタを見捨てる。教団で査問会にかけられるよりも、よほどアリエッタに重い罰が下るとわかっていても。イオンに見捨てられたアリエッタは瞠目して、この世の絶望を一気に背負ったような顔で「イオン様ぁ……」と泣いた。イオンの心に杭が穿たれるようだった。
緊迫感溢れる状況に、イオンの精神が時が経つにつれ削られていく。気絶して現実逃避したくなる中、なんとか意識を留めるために、胸元の音叉を握り締めた。白い手に血管が浮かぶほどに、強く。
イオンの返事を聞いてアルマンダインは一先ず納得したのか、今もなお呆然としたままのルークを気遣った。
「ルーク様、お疲れでしょう。すぐに宿を手配しますから、その間、私の家でお休み下さい。……そちらの方々も」
断るのは不自然だ。イオンたちは申し出を受け入れるしかなかった。
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