このままでは。このままでは、アッシュが奪われてしまう。
仲睦まじい夫とミリアの話をメイドたちの話で聞いてしまい、ナタリアの心は限界だった。愛する人が略奪される恐怖、自分の立場が奪われることへの焦燥感、ミリアを持ち上げる貴族――何よりも堪えたのは、夫の自分に対する素っ気無い態度。
愛し合って幸福な結婚をしたはずなのに、アッシュはナタリアだけを愛してくれると言ってくれない。自分が愛を囁いても複雑な表情をするだけで、愛を返してくれない夫の態度は、心の移り変わりようを教えるようで不安だった。
自分とアッシュは政略結婚でも、愛情を育んで、幸せな結婚をしたはずなのに。どうして応えてくれないのか。どうして自分だけを愛していると言ってくれないのか。ミリアは政略上、仕方なくもらっただけだと、どうして安心させてくれないのか。どうして自分の元に来ないで、ミリアの部屋で夜を明かすのか。
どうして、どうして、どうして――どうして、子供が出来ないのか。せめて子供が出来れば。夫の関心を取り戻せるかも知れない。ナタリアは子をかすがいにして、夫の愛情を取り戻したかった。なのに子供はいくら待っても生まれない。
このままでは、このままではミリアが先に子供を産んでしまう。そんなことは耐えられない。耐えられるはずがない。ミリアと共にいる夫の姿を想像して頭を抱えたナタリアは、将来の約束をした、あの頃の綺麗な思い出がぐにゃりと変形していくようで悲痛なうめき声をあげた。そのとき腹の底から不快なものが込み上げて、ナタリアは吐きそうになった。もしかして。そう思ったのは、それを喉から手が出るほど望んでいた証拠だった。
「”ルーク”! わたくし、妊娠しましたわ!」
花も恥らう乙女の笑みを浮かべて告げた妻の言葉に、アッシュの思考回路は一時停止した。ナタリアは愛しげに腹を撫でている。アッシュはナタリアに視線を向けたが、すぐに逸らして、彼女の背後にいる王城仕えの老医師に目をやる。すると老医師は苦虫を踏み潰したような、かと思えば嘆くような表情をしていた。
「……妊娠か。医師に見せたのか?」
「もちろんですわ! 産まれる日が楽しみですわね」
「……もしそうなら体に障ったらいけないから、私室で大人しくしていてくれ。今は仕事中だ。あとで行く。すこし詳しい話を聞きたいから、医師は残れ」
「ええ……わかりましたわ。あとで必ずわたくしの元に来てくださいませ」
妊娠をよろこぶ表情を見せない夫に不満げな顔をしたナタリアであったが、逢う約束を取り付けたことで、一先ず不満を抑えた。ナタリアは執務室から出て行く。突如現れたかと思えば、嵐のように去っていく彼女の背を見送り、アッシュは部屋に残るように命じた老医師に話を聞いた。
「妊娠とはいったいどういうことなんだ?」
王城仕えの医師は、ナタリアに不妊薬を処方する役目を持っている。万が一ナタリアが妊娠した場合、それとなく子供を流すという嫌な役目も与えられていた。老医師は話しにくそうな顔でしゃべりはじめた。
「……王妃様は妊娠しておりません。想像妊娠ではないかと」
「……想像妊娠?」
「私は精神科医ではないため、はっきりとしたことは言えませんが、おそらく王妃様の精神状態は極限にあり、自己防衛のため、想像妊娠したのではないかと」
「――――」
もしそうだとしたら、そこまでナタリアが追い詰められていたという証左だった。
このままナタリアが妊娠してもいないのに、妊娠したと言いふらせば、彼女の立場はさらに悪くなる。王妃が精神を病んだと貴族達は当然のように口外するだろう。街下まで話が流れれば、ナタリアは一貫の終わりだ。
「妊娠した事実はないのか?」
「ありません」
「……そうか」
アッシュは思い悩む素振りを見せると、ナタリアをまず精神科医に診てもらった。
精神医学の専門医に診てもらった結果、想像妊娠であることを突きつければヒステリックな声をあげて否定し、妊娠の初期症状を激しく訴えて、自分はアッシュの子を妊娠していると言い張った。
精神科医は王妃の心の病を認め、それにより、王妃は精神病にかかったのだと医師に太鼓判を押される結果となってしまった。アッシュは即、国の中枢を担う事情を知る者達を呼び、王妃の今後について相談した。
どのような結果になるのか最初から予想していたが、矢張り厳しい結論を下された。
お飾りの王妃であるナタリアは精神を病んだことで、お飾りの役目すら果たせないと言う判断を下されたのだ。
妊娠してもいないのに、妊娠していると口にする王妃の存在は国民にすぐに知れてしまう。それはつまり、ナタリアの心の病が知れてしまうということだ。国民人気の高いナタリアの心の病に、国民は王妃の療養を求めるだろう。そうなれば、ナタリアはもう二度と王妃として立つことはできない。必然的にミリアが王妃になる。
そのことに思い至ったインゴベルトが、娘に現実を突きつけて、彼女を守ろうとしたが、ナタリアは自分がアッシュの子を妊娠していると言い張り、そんな自分がミリアに負けるわけがないと言った。ナタリアが本当に心が病んでいるのかどうかわからない。もしかしたら、ナタリアは自らの腹に子供がいることに縋り、それを否定する周囲に意地になっていたのかも知れない。しかしそれは、ナタリアの立場を危険に晒すだけの行為であった。
そのことを教えてもナタリアは聞く耳を持たず、自分は妊娠していると言い張るばかりで――流石にこれ以上、インゴベルトがナタリアを庇える余地は存在しなかった。
「――どういうことですの?」
ナタリアは離宮に行くことを命じられた。アッシュは感情が窺えない目で一瞥して、すぐに逸らす。ナタリアは夫の態度に頭が熱くなった。
「貴方はいつもそうですわ! わたくしとろくに目も合わしてくれず、かと思えばアレには視線を合わして、さらには――わたくしに離宮に行けと申しますの!? わたくしは貴方の子を身篭っておりますのよ!?」
「……だから、想像妊娠だと言っているだろう。その証拠に、おまえの腹はいつまで経っても膨らまない」
「わたくしの子は成長が遅いのですわ! 貴方の子ですのよ、”ルーク”。わたくしのお腹の中で、産まれようと日々成長している我が子の存在を、貴方は否定なさるというの!?」
「そもそも、妊娠しているというような事実は無いと言っているだろう……」
妊娠していると信じ込むナタリアに、アッシュは頭が痛くなり投げやりな態度しか取れない。ナタリアは夫の態度に腹を立てて、時間が経つごとにヒステリックな怒号をあげた。憤怒で顔を赤く染めて怒号をあげるナタリアの声は大きすぎて、耳が痛くなり、しゃべっている内容が聞き取れない。アッシュは仕方なく、ナタリアに話を合わせることにした。
「あまり騒ぎ立てていると、腹の子に障るんじゃないか?」
「! ”ルーク”認めてくださったのですね……!」
「王城は騒がしいからおまえも気が安らげないだろう。出産に備えるため、離宮に移ってくれ。――子供が大きくなったら、城に戻ってくれば良い」
妊娠もしていないのに、生まれもしない子供が大きくなるわけがない。それはつまり帰ってくるなと言う意味だった。そのことも知らずにナタリアは眉を垂れ下げて、駄々を捏ねるように緩やかに首を振った。
「でも、わたくしは城で産みたいですわ……」
「離宮の方が、子供の成長に適しているだろう。ここは何かと騒々しいからな」
「でも、わたくしが離れている間にあの女が……」
ナタリアはミリアの存在が気にかかり、離宮に移る決心がつかない。女という表現を使ったのはミリアに対する敵意の表れだ。アッシュはそういう女性のどろどろとした一面に耐性がないため、今のナタリアが醜く思えた。もうとうに愛情など果てたとは言え、ナタリアがアッシュの中で初恋を捧げた少女であることに変わりは無かった。初恋のやわらかな思い出が、土足で汚されていく不快な感情に苛まれる。思わず眉間に皺を寄せた。アッシュの中で次第にナタリアに対する恐怖感が、嫌悪へと変わっていく。
危うく感情の変化が態度へと出そうになり、アッシュはナタリアに対する諸々の感情を押し殺す必要があった。その結果、素っ気無くなった。
「ナタリア、今は耐えてくれ」
「……今を耐えれば、この子が産まれれば、あの女は必要なくなりますわね?」
「ああ、そうだな」
「――わかりましたわ。わたくしが妊娠したことを知れば、あの女はわたくしを殺そうとするはずですもの。わたくしは、この子のためにも離宮に移ります」
決意した面持ちを見せるナタリアに、アッシュの心は冷えていた。茶番劇だ。滑稽な芝居に付き合わされる役者とは今のアッシュのことだろう。アッシュは薄い笑みを佩いて、鷹揚に頷いてみせた。
「ああ、頼む」
かつての親友をあの女と罵り、悪意と敵意を漲らせるナタリアには、ほとほと愛想が尽きていた。恐怖よりも嫌悪感が強く、最早傍にいることすら厭わしい。
誰が人に悪意を募らせる女を見て、その女に好意を抱くというのだろう。たとえ愛情を抱いていたとしても、日々誰かを罵る女を見ていれば、百年の恋も冷めるというものだ。
男は女に夢を見たい生き物であることも知らず、自分勝手な感情を押し付けてばかりの女に、アッシュはナタリアに対して夢を捨てた。それはナタリアへの決別に踏み切る一歩だった。
END.
もう1話書かないとなんかしっくりこないので続き書く。
この展開察してた人どのくらいいるのだろう。最後は夢主視点で終わります。
2012/12/15
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