数週間後、被験者ルークは自力で公爵家に戻って来た。
被験者ルークはファブレ夫妻に可愛がられているレプリカルークを見て、ひどく衝撃を受け、一悶着を起こしたようだが、両親と話し合いレプリカルークの存在を認めた。
まだ言語をろくに喋れないレプリカルークの頭を、ぎこちない手つきで撫でた彼は、その瞬間からレプリカルークの兄と自分で定めた。
己を誘拐した者は誰だったのか、とくとくと語った被験者ルークは、その後自らヴァンの元に行き、キムラスカに情報を流すスパイという危険な役割を買って出ることに決めた。


公爵の娘となったレプリカルークは、ルクレツィアと言う名前を、被験者ルークにより与えられた。愛称はルークだ。ルクレツィアというのはキムラスカの歴史の中で、もっとも知力に優れ、美姫と謳われたかつての王妃の名前だった。恐らく被験者ルークはそこから名前を捩ったのだろう。
それと余談になるが、ルクレツィアという名前を付けられた理由は実はもう一つあった。その理由とは聞いた者が思わず呆けてしまいそうな理由だ。と言うのも、レプリカルークにどういう名前を付ければ良いのか頭を悩ませていたファブレ公爵が、被験者ルークが帰還するまでレプリカルークの事を「ルーク」と呼び続けた所為でもあったらしい。
ルークが自分の名前だと認識して、そのころにはレプリカルークはルークと呼ばれるたびに反応を返すようになっていたのだ。被験者ルークがレプリカルークの名前を決めるまで、名前を決めておかなかったのが仇となったことは明白である。そのため、呆れ返った被験者ルークに冷たい眼を向けられたと、ファブレ公爵は哀愁が滲む声で後にインゴベルトに語った。
今となってはお笑い草だが、聞いた当初は呆れかえらずにいられなかったものだ。




執務室で机に向かいながら仕事を片付けていたインゴベルトは、誰かに見つめられているような気配を感じて、ペンを持つ手を休めた。書類から顔を上げると、ソファの上でお昼寝をしていたはずの小さなお姫さまが、目を覚ましていた。彼女は寝ぼけ眼をごしごしと手で擦りながら、インゴベルトを見つめている。
寝癖で鳥の巣のように飛び跳ねた髪に、思わずといった様子で口元を緩ませて、インゴベルトは名を呼んだ。


「ルーク、眼を覚ましたんじゃな」
「……おじうえ、おはようございます」
「おはよう。今メイドに飲み物を用意させよう。何が良い?」


えっと、えっと、とルークは何を飲もうか迷う。外見年齢は十三歳を超えて、だんだんと外見に凹凸が出来始めてきたところではあるが、ルークはまだ三歳になったばかりだった。しばらく考え込んだあとにルークは「オレンジジュース」と言って、はにかんだ。


「そうか。今、用意させよう。――ルーク、こちらへおいで」


おいでと口にすると、嬉しそうな顔でルークはソファから降りて駆け寄ってくる。その様子はとても可愛らしく、インゴベルトは近付いたルークを優しく抱き締めた。そのまま膝の上に乗せて、机に置いてあるベルを手に取ると鳴らした。鈴の高らかな音色が響くと、間もなくして楚々としたメイドが現れる。メイドに用事を言いつけ、部屋から出て行くのを見届けることなくルークに視線を戻す。
するとルークはご機嫌といった様子で、ぶらぶらと両足を遊ばせていた。上機嫌になる理由など思いつかなかったが、子供の機嫌は些細なことで変わることだけは経験則でインゴベルトは理解していた。
インゴベルトには被験者ルークよりひとつ年上の娘がいる。猫のような眼をした、とても愛らしい姫で、何よりも亡き王妃が命と引き換えにくれた宝だと、王妃の分まで愛してきた。――例え、その外見に、本当に我が子なのか疑惑を覚えつつも。


しかし、娘のナタリアよりも、最近ではこのルークこそに愛情を注いでいるようにナタリアには見えるらしい。ルークを城に呼び寄せるたび、ナタリアは嫌な顔をするようになった。
ナタリアは今のルークが、別人であることはインゴベルトに教えられて知っていた。誘拐されたルークが行方不明のまま見つからず、そのため病弱で今まで表に出れなかった妹のルクレツィアが、ルークの影武者をやっているとインゴベルトは説明したのだ。


嘘に近い説明であったが、インゴベルトはナタリアに真実を述べることを躊躇った。
彼女の精神はまだ幼く、正義感が強い一面もあるナタリアに真実が知れてしまうと、どんな行動を起こすか予想がつく。まず、アッシュを誘拐したヴァンとダアトに抗議を寄せるだろう。そしてヴァンの元にいる被験者ルークの身を危険に晒す。次にルークをアッシュの妹として受け入れるが、何か事があるたびに彼女はルークがレプリカであることを持ち出し、偽物とさり気なく口にする。
インゴベルトは今や可愛い姪と想うルークにそのような悲しみを味あわせたくなかったし、それ以前に娘がそうやって誰かを傷つかせるところなど見たくなかった。――けれど、そうした想いが、娘に伝わっていないことにインゴベルトは気付いていた。


コンコンと言うノック音の後にメイドが入室してくる。彼女たちは窓際のテーブルの上に手早く紅茶と、ルークが所望したオレンジジュースと蜜菓子が入った籠を置くと、さっさと退室した。
インゴベルトは膝上で大人しくしていたルークに立つように促した。


「さて、ルーク。お茶にしようか」
「はいっ、おじうえ!」


元気のいい返事に知らずのうちにインゴベルトの頬が弛む。
蜜菓子を小さな口で一生懸命食べるルークを微笑ましく見ていると、不意にノック音が響いた。


「何者じゃ」
「ファブレ公爵様です」


扉前に控えた兵士からの返答に、インゴベルトは入室許可を出した。
兵士が開いたドアから、ファブレ公爵が現れる。
ファブレ公爵はインゴベルトとルークに目を留めると一瞬驚いたような表情を見せ、すぐさま鉄面皮に変えた。相も変わらず、ファブレ公爵には愛想というものが欠如している。


「ルークの迎えか」
「はい。これ以上居座っては、陛下のお仕事の妨害でしょうから…」
「斯様なこと気にするな。余はルークと共にいる時間を作るためならば、労力は惜しまん」


インゴベルトの物言いにファブレ公爵は苦笑した。
そして疲れたような溜息を小さく吐いた。


「…だいぶ疲れているようだな」
「ええ、少し…頭を悩ませる問題が浮上しているので」
「ほう、なんじゃ」
「些細なことです。陛下が気になされる必要は…」
「話せ」
「…では、僭越ながら。――ルクレツィアの婚約者を選出しているのです」


インゴベルトは驚いた。
ファブレ公爵家の娘である以上、婚約者問題は避けても通れない道だ。それにルークは、キムラスカ王族の血筋を引く娘。その血を残すことは義務だ。しかし…。


「…まだ早いのではないか?」


ルークはまだ三歳だ。
まだ婚約者問題が浮上するのは些か早い。インゴベルトはその思いのまま口にした。


「早すぎるということはございません。私とシュザンヌは生まれながらの婚約者でありましたから。陛下もそうでございましょう」
「そうじゃがな…」
「それにルークは外見上はすでに十三歳です。結婚はまだ先としても、公爵家の娘が婚約者のひとりもおらぬとなれば、ルークに何か問題があるのではと疑う輩もおります。そうした者たちから守るためにも、婚約者の存在は在った方が良いものと妻と合意しています」
「うむ……それはわかるのじゃが」


インゴベルトの言葉はいまいち煮え切らない。
可愛いがっているルークに婚約者を用意すると言われると、どうも否定を示したくなる。まだルークは若いのだ。婚約者など当分先で良いじゃないか――インゴベルトとしては、そう思う。
しかし、ファブレ公爵の言葉も理解できるのだ。王族筋にあたる公爵家の娘に、婚約者の一人もいないとなると、石女ではないかと口さがない連中に噂されてしまう。そうなれば、いくら公爵家の娘と言えども嫁いだあとに大切になどされず、早々に愛人を作られてしまう可能性も見えてくる。そう言ったことにならぬようにも、ルークに婚約者の存在はあった方が良い。


「ルクレツィアは特殊な生い立ちですからな…そう言ったことも気にせず、後にルクレツィアを託せるに相応しい人物を選んでいるのですが……なかなか見当たらずに、頭を悩ませているのですよ…」
「そうか…」


それは大変だな、と同情めいた視線を送ると、ファブレ公爵は何やら考え込むように顎に手を当てた。


「…ところで陛下」
「ん?」
「陛下はご再婚の予定がございますか?」
「再婚か…」


正妃が没してから再婚の話は前々から出ていた。
――娘のナタリアが、出自を疑うような色彩を持ち合わせて産まれたことも、関係しているのだろう。
現国王の子供が、キムラスカ王族の象徴を持ち合わせていないことも問題視されていることは知っていた。


「余はもう若くないからな…」


正直な話をすれば、子供をつくるためだけに結婚をする気は無い。そんな政略結婚はもう充分だ。そう思うものの、そんなことを許されない立場であることは重々承知していた。日毎増えて行く見合い話をどうにか退けている現状が、長く続くとは思ってもいない。肺から吐き出した溜息がインゴベルトの苦悩を物語っていた。


「陛下もお悩みのようですな。それならば、いっそのことルクレツィアと婚姻を結んで頂けないでしょうか」
「…なんじゃと? 余とルークの年齢差を理解して言ってるのか?」
「無論ですとも」
「親子のように年が離れた余に、よくもまぁ婚姻を結ぼうなどと言えるな……」
「失礼なことを申しますが、陛下が一番ルクレツィアの夫として好条件なのです。陛下であれば娘が何者か理解したうえで、外敵から守るだけの力がございますから…」


本当に失礼なことを言ってくれたものだ。
つまりファブレ公爵は国王の権力でルークを守ってほしいと言ったのだから。


たしかに国王の妻ともなれば、絶対に守られなければならない女性だ。
王妃の座を狙いルーク暗殺しようと企む者もいるだろうが、その点はあまり心配ない。
何せ、もし、ルークが国王の妻になれば、ルークの後ろにつくのは王族筋の公爵家だ。
貴族筆頭のファブレ公爵家がバックにつくルークを害する者は、王家のみならず、ファブレ家を敵に回すも同然。国の頂点に立つ王家と、筆頭貴族を敵に回すほど命知らずな者は、国内の貴族にはいないだろう。キムラスカ王族の象徴を持ち合わせるルークとの婚約を反対する者は、おそらく存在しない。


…そう考えると、この婚約は非常にファブレ家にも、ルークにも、王家にも有益だった。
ファブレは国王の正妃を出したと言う名誉が与えられ、ルークには王家と公爵家の庇護が、王家はファブレ公爵家への繋がりをより深めることが出来て、なお且つキムラスカ王族の象徴を持つ子供を後に望める。
ルークは若いから、インゴベルトがその気にさえなれば、王族を増やすことが出来る。
王家と国の繁栄を第一に考えたら、公爵の言葉は渡りに船とも言えた。
ちらりとルークに視線を移す。ルークはオレンジジュースが並々と注がれたグラスを両手で持って、ストローで飲んでいた。頑是ないその姿が、ルークはまだ子供なのだと教える。


「…余の妻は、さすがにルークが可哀想だと思うのだが…」
「政略結婚に年齢差はつき物です。珍しくありますまい」
「……ルーク」


インゴベルトがその名を呼ぶと、オレンジジュースを一生懸命飲んでいたルークがグラスから顔をあげた。


「はい、なんでしょう、おじうえ」
「余の妻になるか?」
「つま…?」
「余と、結婚したいと思えるか?」
「おじうえと? …はい! おれ、おじうえだいすきですから!」
「そうか」


可愛がっている者に大好きだと言われて、喜ばない者が何処にいるだろうか。目も当てられないほど顔面が弛んだインゴベルトに、ファブレ公爵は見てはいけないものを見てしまったというかのように視線を逸らした。


「それじゃあ、余と結婚するか」
「はい!」
「約束じゃぞ、ルーク」
「はい、やくそくです」


あとで婚約指輪を贈ろうと言うと、ルークは婚約指輪がなにか理解してないようだったが、嬉しそうに笑った。その笑顔につられてインゴベルトも笑う。
この笑顔が曇ることのないよう、ルークを精いっぱい幸せにしようと思った。



――そしてルークが十六歳のとき。
インゴベルトとルークは密やかに婚姻を交わした。


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