夜空に月が燦然と輝く。時折吹く風は、冷たく、身だけではなく心まで凍らせて行くようだった。
月がのぞめるバルコニーで、インゴベルトは一枚の写真を眺めていた。月光が照らす写真の中には、幼い娘とインゴベルトが映っている。太陽のように輝く金色の髪をした娘は、猫のように丸井若草色の瞳を笑ませて、インゴベルトの腕に抱き着いている。嬉しそうな顔をした娘は、父からのプレゼントの青い宝石が美しいネックレスをして笑っていた。
この娘はもういない。王家筋にあたる公爵家へ押し入った罪で、処刑されてしまった。インゴベルトならば、その罪を消しさる事は出来たけれど――そうしなかった。娘を、見殺しにした。
後悔はない。ただ、全身を蝕む、寂寥感がある。
バルコニーでぼうっと写真を眺めているインゴベルトを、現実に引き戻す、声が背にかかった。


「…インゴベルト様?」


インゴベルトは振り返る。すると、バルコニーに続く、寝室の窓を開けて、正式に国民に王妃と認められたルークの姿がそこにあった。外見はもはや子供とは言えぬくらいに、ルークは成長していた。すらりと伸びた白い手足、片手で間に合いそうな細い腰に、体の凹凸――目覚ましい姿へと変貌を遂げたルークを、インゴベルトは今まで抱くことができなかった。ベッドで共に寝るだけに留まっている。結婚して、何年も経っているのにも関わらず。

そのため、ルークは未だ生娘のままだった。


眠いのか、目をごしごしと擦ったルークが、とことことインゴベルトの傍まで寄ってくる。ベッドの下に置かれた靴を履いてこなかったルークは、裸足でバルコニーに出て来ようとして、慌ててインゴベルトは制止した。


「ルーク、待ちなさい。来てはならぬ」


インゴベルトがそういうと、ルークは一気に目が覚めたような顔をして、すぐに哀しそうな顔になった。


「…どうしてですか?」


ルークに獣耳でもついていれば、きっとその耳は今垂れていたに違いない。しょんぼりとした顔を見せるルークは、ひどく幼かった。実年齢が、外見と伴っていないのだ。仕方のないことだった。
幼い子供に接するような優しい口調で、インゴベルトはルークを宥める。


「お前は素足じゃろう? 汚れてしまう」
「べつに良いです。汚れても、俺は気にしません」
「随分とお転婆に育ったものじゃ」
「そういう言い方も、いい加減やめてください」
「ん?」


ルークは苦笑に似て、それでいて、どこか違う、笑みを浮かべる。
――いつの間に、こんな複雑な笑みが出来るようになったのか。


「俺は、いつまで子供でいたら良いんですか?」


ずっと、ルークの成長を見守って来た。
もう一人の、娘のように。
ルークがその想いを見抜いていることにも気付かずに。
まだ子供だと思っていた。――子供として、見ていた。


インゴベルトは言葉を失った。ルークを妻として見ていたつもりが、それはつもりでしかなく、実際は子供として見ていたことに気付かされて。
ルークは裸足で、バルコニーに出る。そうして、インゴベルトの所まで来て、手を握る。
写真が握られていないほうの手は、長い間夜風に当たっていたせいで冷え切っていたけれど、ルークが握ってくれた、そのおかげで――温かくなった。


「俺はあなたの妻なのに、あなたは今も、玉座でひとり座っている気がします」


ルークはインゴベルトを真っ直ぐ見つめた。


「――俺が隣にいることを、忘れていませんか?」


握られていた写真が、するりとインゴベルトの手から落ちてしまう。娘を追放したとき、己の手に残した、一枚しか無い写真を拾うことも出来ずに、インゴベルトはルークを見つめる。


「共にいます。ずっと」


一度目に愛した女性は、この世を去った。
本物の娘も、その顔を見ることもできないままに、この世を去っていた。
そうしてつい先日、実娘のように愛した少女も、この世を去り。
たった一人きりだと思ってしまったインゴベルトの隣には、いつの間にか、ルークがいた。
こうして、手を握っていてくれた。


――インゴベルトの喉が震える。


「っ、ルーク」


インゴベルトは、恐る恐るルークを抱き寄せる。細い体はすんなりとインゴベルトの腕に収まってしまう。まるで元々、インゴベルトの腕に収まるべく生まれたように。
インゴベルトはもうルークを抱く事が出来るだろう。娘と近い年齢のルークを抱くことで、亡き前妻と娘の面影を過去に残して。そうして、未来を生きるために。


「さ、戻りましょう。…ここは冷えます」


インゴベルトの胸元で、ルークが微笑む。インゴベルトはそれにひとつ頷いて、ルークに手を引かれる形で寝室へと戻った。バルコニーに写真を落としてしまったことを覚えていたが、取り戻ることはしなかった。娘を見殺しにした自分には、娘と共に笑い合っている写真を持ち続けていることなど、出来やしない。そうしてしまえば、過去に捕らわれ続けてしまうから。
インゴベルトは寝室の窓を静かに閉め、背を向けた。その瞬間、ふわりと吹き抜けた風は、写真を夜空へと舞い上げて――どこかへと消えていった。






END
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