斜めに傾く世界。
目の前に見えるすべての景色が、斜めに傾いて見えた。
がしゃんと花瓶が重なり合う不協和音が耳を劈く。頭部に火傷しそうな熱を覚える。そこかしこが熱く、痛くなった。
(なにが起きたの?)
歌が聞こえたような気がした。澄んだ声で奏でられる歌の出所を探して、視線を走らせて、次の瞬間には、とてつもない眠気が襲った。仕事中に眠るなど、とんでもない。生真面目な彼女はそう思い、眠気から抵抗しようとしたのだ。だが、抵抗は形にならなかった。
ふと、気付けば、世界は斜めに傾いていて。
倒れたのだと、気付いた時には、意識は闇に染まりかけていた。
ファブレ公爵家は常にない喧騒に包まれていた。
白光騎士団の騎士たちは忙しそうに行き交い、家人の安否を確認している。悲鳴があがり、悲痛な顔がそろう中、彼女はぼうっと廊下に佇んでいた。横たわった自分の体を、第三者のように、じっと見ていた。
母屋から離れた廊下に、一人の騎士が現れる。白銀の甲冑に身を纏った騎士は、廊下の片隅で花瓶を巻き込んで倒れている彼女――メイド――を見つけ、血相を変えた。
「ミリア……! なぜおまえがこんな目に!」
プラチナブロンドの髪の騎士はメイドの傍に膝をつく。ヘルメットを上げて、蒼海の眼と、青褪めた顔を晒す。同世代の中では、腕が立ち、男前だと評判の騎士だった。
騎士は唇をわなわなと震わせて、ぐっと息を飲むと、メイドの口元に手を寄せる。そして、彼はぐっと眉間にしわを寄せた。――険しくなった表情が、何を意味するのか。考えたくもない。
見ていられなくて、そっとその場を離れる。足音も立てず。
彼は目の前から去っていく彼女に気付かず、横たわった女性の体を抱き上げる。ぽたりと流れ落ちた血が絨毯と、彼の甲冑を汚した。
(わたし、死んじゃったのかな?)
ならば、今ここにいる自分は何なのだろう。誘拐されたルークを探しに行くという、ガイの後を追いかけながら、彼女は首を傾げた。今の自分がいったい何なのか、いわゆる幽霊というやつなのだろうが――あまり深く考えたくない。だから、自分に直接関係するものから目をそらした。
(ルーク様が心配だわ)
彼女が聞いた歌の正体は、譜歌というものらしい。
譜歌を使って侵入した賊は、ルークと擬似超振動を起こしてマルクトへと飛ばされた。
邸の安全は早々に確保されたが、ルークの無事は確認されていない。彼女はルークを好ましく思っていたから、心配だった。
ルークは彼女から見て雲上人であったが、王侯貴族にしては珍しく気さくで、使用人と話す人物だった。庭師のペールと花壇の話をしたり、彼女も掃除中に声をかけられたことがある。失敗してメイド長に叱られていたところを、ルークが不器用にフォローしてくれたこともあった。
彼女の担当はシュザンヌ夫人で、ルークと話す機会はあまり恵まれなかったが、それでも恩がある人物だ。安否を確認するまで落ち着かない。
「ローテルロー橋が漆黒の翼に壊されたなんて……」
マルクト帝国南ルグニカ平野北東部にあるローテルロー橋は破壊されていた。漆黒の翼がマルクト帝国軍の追跡から逃れるために、ローテルロー橋を爆破したらしい。
南ルグニカ平野とイスパニア半島をつないでいた橋が破壊されたことで、イスパニア半島の南、ケセドニアへの流通が困難となり、各国の物流が滞ることが懸念されている。当然、物価は値上がりするだろう。
ケセドニアで商人たちが厳しい表情で情報を共有する中、ガイも同じような表情で立ち往生していた。物価の値上がりも気になるが、それよりもルークの行方が気になる。
ガイは東アベリア平野北部にあるバチカルから、ザオ砂漠を強行突破した。このままローテルロー橋を通り、マルクト帝国に入ろうとしたのだが――この有様だ。
「ルーク、いったいどこに行ったんだ?」
ルークと賊の間で発生した擬似超振動の観測地はタタル渓谷だった。
タタル渓谷は、イスパニア半島の北東にある。タタル渓谷をおりて南に向かえばケセドニアにたどり着くのに、どういうわけかルークはどこにもいない。
ケセドニアでルークを探したものの見つからなかった。タタル渓谷で動かずに待っているかと思い、探しに行ったものの見つからず。イスパニア半島をさ迷っていたらいずれケセドニアにたどり着くだろうが、それまでルークが無事とも限らない。
ガイはいてもたってもいられず、右往左往する。その様子を眺めていたら、彼女までも落ち着かない気持ちになって、そわそわしてしまった。
「ガイ・セシル様ですか?」
「ん?」
ルークが人込みに紛れていないものかと目を凝らしていると、声をかけられた。神託の盾騎士団兵だ。ケセドニアはダアトによって自治権を認められた、独立地区だ。神託の盾騎士団兵士の姿は多い。
「グランツ総長からお手紙です」
神託の盾騎士団兵士はそう言うと、ガイのもとに一通の手紙を差し出した。ガイは礼を言って、すぐさま開封する。
「ルークが見つかったのか!」
ガイの表情が明るくなった。どうやら神託の盾騎士団兵がルークのもとに連れて行ってくれるらしい。ガイは神託の盾騎士団と行動を共にして、ルークのもとに向かうことにした。
「おいおい聞いてないぞ……!」
ガイの緊迫した声を聞きながら、彼女は真っ青な表情で立ち尽くしていた。
神託の盾騎士団と行動を共にしたガイはグリフィンに乗せられて、軍艦に到着した。
マルクト軍艦だ。譜業狂いといってもいいガイは軍艦の設備が気になって気になって仕方なかったが、ルークの無事を確認するのが先だとグリフィンからおりると探しに行こうとした。だが、神託の盾騎士団に止められて、しばらく待っているように言われた。
そうして、ガイは惨劇を見てしまった。
神託の盾騎士団がマルクト軍に攻撃を仕掛け、一方的に虐殺する現場を。
まさか神託の盾騎士団がマルクト軍を攻撃するとは思わなかったのだ。ダアトは武力の所有が両国から認められているものの、宗教団体だ。防衛以外の武力を持ち合わせてはならない。だというのに、マルクト軍に自発的に攻撃を仕掛けている。ガイは血相を変え、ルークの安全を確保すべく、その場を飛び出した。止める神託の盾騎士団兵士の声も聞かず。彼女も慌ててガイのあとを追いかける。
彼女は殺しあいする人達が怖くてしかたなかった。戦闘経験ゼロのメイドなんてそんなものだろう。戦闘する人達の群れの中を、メイド服で走る彼女の姿は異様としか言いようがない。だが、彼女は誰にも気付かれず、ガイのあとを追って現場を抜けることに成功した。
「いた! ルーク!」
(ルーク様!)
緊急停止した軍艦の外に、ルークはいた。どうやってか脱出したらしい。傍には、マルクト兵と、神託の盾騎士団兵と思しき者たちがいた。
ルークたちの旗色は悪い。
「教官! どうして!?」
銃を突きつける女に、神託の盾騎士団の女が叫ぶように問う。
(……あれ? この声……どこかで聞いたことがあるような……)
ガイはルークを助けるべく、軍艦の上から飛び降りる。彼女を置いて。
(えええええー!?)
彼女は真っ青になった。戦闘経験ゼロ、運動能力は一般人でしかない彼女に、この高さを飛び降りれるわけがない。
(ど、どうしよう、え、あ、う……ええい女は度胸!)
彼女は目を瞑りながら、えいと軽くジャンプするように飛び降りた。
「〜〜っやっぱりこわいいいいいい!!」
キャーと悲鳴をあげて彼女は落下する。スカートがびろーんと上に向かって広がる。ばさばさと服が顔を殴打し「いたっ、うっ」と彼女は情けない声をあげ続けた。地面まであと数メートル。
「は? なんだ今のこ――ミリア!? おま、ばっかやろう!!!」
ルークの怒声混じりの声が聞こえてくる。はい、バカです――と彼女も自分で思う中、ふいにぽすっと軽い音を立てて落下が止まる。地面に直撃して、内臓その他もろもろが飛び散ると思ったら、おや?
彼女がそっと目を開けると、ルークが下敷きになっていた。
「ま、間に合った……」
ルークはどうやらミリアを受け止めてくれたらしい。ルークの両腕はしっかりとミリアを抱き止めていた。ルークは万感の想いが詰まった溜息を落とすと、ミリアを睨んだ。すうっと息を吸い込むと怒鳴った。
「こっっっのばっかやろう!!」
「ひゃう!?」
彼女は耳元で怒鳴られて飛び跳ねる。慌ててルークの腕から脱出しようとするが、ルークは説教するために逃がさなかった。
「全然運動できねーくせに無茶すんな! つかメイド服きて高いところから飛び降りてんじゃねえ! スカートの中、丸見えだったぞこのバカメイド!!」
「ルーク様に迷惑をおかけして申し訳ございませんでした!」
バカ、大バカやろう、と何度も言われて彼女は縮こまる。
「ったく、このバカメイドは……おい、ガイ! こんな奴連れてくんなよ!」
「……は? ル、ルーク? おまえ、何を言ってるんだ?」
「なにって、……ミリアだよ、おまえが連れてきたんだろ」
「……ミリア? どこに?」
「どこって……ここにいるだろ?」
ルークは捕まえてるミリアを突き出す。ガイたちの眼から見て、ルークは腕で輪っかをつくっていた。まるで何かを捕まえているように、歪な、輪を。
「……なにも、いないぞ?」
ガイたちは困惑する。ルークは困惑した。ルークの腕の中では、縮こまってるメイドがいる。
いるのに、ガイたちは見えないらしい。ガイとメイドを交互に見るルークの眼には疑問が詰まっている。
「うそだろ? ミリアがここにいるのに、どうしたんだよ、ガイ」
「そのう、ルーク様……」
非常に、申し上げ難いのですが。と、彼女は小さな声で言った。
「私、どうも死んじゃったようで。幽霊? みたいなんです。今のところ、ルーク様以外に私が見えたことはありません」
「は、」
「はあ!??」
(2016/06/15)
ルークと幽霊(仮)の話。
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