翌日、和平使者一行はセントビナーを出立した。
 門を潜る前とはちがって、グレン将軍に兵を借り受けた一行は大所帯になっていた。ルークとイオンのために馬車が用意され、ジェイドも同乗する。ガイは卸者の隣に座り、イオンの温情により逮捕を免れたティアもガイとは反対側に座った。
 
 馬車はフーブラス川の手前で降りる手筈になっていた。
 本来ならば、街道沿いの道を行くことになっていたが、漆黒の翼の破壊行為により橋が壊れ、復旧までに時間が掛かる。そのため、フーブラス川を経由して、キムラスカに向かうことになる。
 馬車で川を渡ることはできないので、やむなく和平使者一行は徒歩での旅を余儀なくされた。
 
 ルークは窓際の席に座り、外の景色を楽しんでいた。
 と、いっても見渡す限り緑豊かな平原が続くだけで、面白いものなんて特に映っていない。ただ、果てしなく続く空と、どこまでも続く大地を、隔てる建物が何一つない。それだけ。ルークは翡翠の目をまぶしそうに細めて、眺めていた。
 賓客用の馬車は、外装も内装も豪華で立派だが、お世辞にもソファは座り心地が良いとはいえない。舗装されていない道を突き進んでいるので、車輪が小石や木の枝に乗り上げるたびに、革張りのソファに微かな衝撃を伝えてくる。ルークたちが尻にわずかながら痛みを覚える中、ちんまりと座ったミリアだけが元気だ。
 
 馬車がフーブラス川にたどりつく頃には、誰もが馬車から降りたいと思っていて、ルークは馬車のドアが開けられると早々に飛び出た。草を踏みしめて突き進むと、人が渡れる程度に浅く、しかし気軽には渡れない程度に幅がある川が目の前に立ちはだかった。
 
「ルーク様、川の流れがけっこう激しいようなので、足を取られないように気をつけてくださいね」
「おー」

 川の流れはすこし早くて、石にぶつかって上がる水飛沫が、ルークの膝下まであった。ルークは足元でおろおろと周囲を見回すチーグルを無造作に拾い上げて、自分の肩に乗せる。安堵したように「ご主人様ありがとうですの」と声をあげるミュウに鼻をふんと鳴らして、川に足を浸した。
 靴とズボンに浸水する水は冷たく、一瞬で体が冷えてしまう。ルークはぐっと奥歯を噛みしめて、気合いを入れて川を渡る。ジェイドはイオンの体調を慮り、彼を背におぶって渡った。ティア、ガイも続いて、精鋭兵たちも続いた。

「ふえっくしょん! さ、さみぃ……」

 川を渡り終えるとルークは体をがたがたと震わせた。ずずっと鼻を啜り、精鋭兵が作ってくれた薪にあたる。冷えた体に厚手の毛布がかけられて、沸騰したお湯でつくられた紅茶を差し出されたが、それでも寒さは去ってくれない。マグカップを両手で包み震える。

「この時期の川に入るものではありませんね……。ルーク、それにガイも、靴を脱いで乾かしてください。足も凍傷にならないよう、薪のそばで揉んで下さい」

 ジェイドが顔を顰めて靴を脱いで、素足をタオルで拭く。足の爪先が真っ赤になっていた。ルークとガイも見習って靴を脱ぐが、二人はジェイドと同じように顔を顰めてしまった。
 
「うわあ、真っ赤ですね」
「すげー冷たかったからな」

 冬の寒さが厳しいシルフデーカン(2月)の川に入るなんて、風邪をひけといってるようなものだ。ミリアがルークたちの足に治癒術をかけるくらい、痛々しい足になっていた。ルークは薪の近くで足を揉んで血行の流れをよくしていたが、次第に面倒くさくなったようで手を止めた。

「……ミリアずりぃ!」
「そ、そんなこと言われても……」

 ルークはミリア一人だけピンピンしているのを見て、恨めしそうにぼやく。ミリアは困ったように眉を落とした。
 途中、地震が起きたが、大した揺れではなく、一同はその場でやり過ごす。しばらくして、体が温まると、薪を片付けて再び歩き始めた。
 
 
 
 すこし歩くと、精鋭兵が警戒したように「すこしお待ちください」声をあげた。
 
 「どうした」
 「妖獣のアリエッタがいます。……魔物に気付かれました。戦闘準備に入ります!」
 
  アリエッタに向かう者、魔物に向かう者、ルークとイオンを守る者、精鋭兵は自らに与えられた役目を実行する。アリエッタと魔物を分断し、精鋭兵は譜術攻撃で魔物を倒す。兵の攻撃を回避していたアリエッタは魔物が倒されて、衝撃を受けたように魔物の名を呼んだ。その隙を縫って、アリエッタに猛攻を仕掛け、防衛一辺倒になったアリエッタの全身に剣戟が襲い掛かった。
 悲鳴をあげて倒れたアリエッタの顎に剣先が突き付けられる。悔しそうに顔を歪めたアリエッタの手足を、他の兵が捕縛した。
 
「妖獣のアリエッタ捕縛完了」
「ご苦労。……さて、どうしてやりましょうか」
「パパとママだけでなく、みんなまで……! 絶対に許さないんだからぁ!」

 アリエッタは地面に伏せながらも、憎悪に染まった眼で指揮官であるジェイドを睨む。ジェイドの眼鏡奥の赤色の双眸が、無感情に、アリエッタを見下ろした。はらはらと状況を見ていたイオンが、アリエッタを庇おうと、兵の囲いを抜け出そうとする。が。
 
「絶対に許さない、ですか。それは、私の台詞ですよ」

 何をいうのかと、アリエッタは訝しげにジェイドを見る。

「私の部下を殺したのは、あなたたち六神将でしょう」

 アリエッタは目を瞠る。ルークとティアはごくりと唾を飲み、ガイはタルタロスで見た光景を思い出して顔を顰める。ミリアはガイと同じように、血の惨劇を思い出して、気持ち悪くなって思わず口を手で覆った。
 アリエッタを庇おうとしたイオンは、それがどれほど傲慢なものか気付いて、立ち尽くした。

「あなたが私を仇だというのなら、あなたは私の部下の仇の一人ですよ」

 アリエッタの眼が揺らいだ。でも、だって、とアリエッタはもつれる舌で弁解しようとするが、ジェイドのほうが言葉を紡ぐのが早かった。

「私は和平交渉をかならず成功させなければならない。この任務は、殺害された部下と共に受けた最後の命令です。失敗するわけにはいかない。――和平の邪魔立てをするというのなら、誰であろうと、排除させていただきます」

 仇云々を抜きにして、とジェイドは感情が消えた声で告げた。アリエッタの顔色が青くなり、ジェイドを見上げる目に恐怖が浮かんだ。
 ジェイドの手が、コンタミネーションで出現した槍を掴む。そうして、アリエッタの左胸に、ひたりと槍先を当てた。このまま槍に力をこめれば、アリエッタの薄い胸を、心臓を突き刺すのだろう。簡単に想像できてアリエッタは慄いた。
 
「……ぁ、アリエッタはモースの命令に従っただけだもん! モースが、スパイからイオン様がタルタロスにいる情報を受け取ったから、そこに行けって! マルクト軍を襲えって言ったんだもん……!」
「ほう、スパイが、ですか?」
「う、うん! そうです! スパイがタルタロスの行路を教えてくれたから、アリエッタたち、マルクト軍を襲えたんです! アリエッタはお友達を貸しただけ! だ、だから、アリエッタはなにも悪くないもん……!」

 アリエッタの声が次第に震え始め、とうとう、大粒の涙を流した。しゃっくりをあげるように、ひくひくと泣き声をあげる。幼い子供のような姿に、憐れみを覚えてしまうが、ジェイドだけはちがった。ジェイドの口元がゆっくりと笑む。
 
「助かりたいですか?」
「っ、あ、アリエッタ……」
「このままなら、あなたは私の手によって確実に死にます。……そうですねえ、私の槍はあなたの心臓を突き刺し、あなたは痛みと恐怖に体を震わせて、ゆっくりと自らの血の熱さを理解しながら死ぬことになるでしょう」
「……アリエッタ、死にたくない……死にたくないです……」
「では、スパイについて、あなたの知ってることをすべて話しなさい。そうすれば、慈悲を与えましょう」

 アリエッタは救いを見出して、本当かとジェイドを見上げる。ジェイドは笑みを深めた。アリエッタはごくりと唾を飲んで恐々と自分が知る情報を出した。

「……モースは、スパイは、イオン様の傍にいるって言ってました。アリエッタは、アニスだと思います。アリエッタ、知ってます。アニスが、モースによく手紙を送ってたこと……その手紙、一度鳩から奪って、読んだこと、ある、から」
「――馬鹿なこといわないでください! アニスがスパイだなんて! そんなわけあるわけないでしょう!」

 アニスがスパイ。ジェイドはわずかに瞠目して、静かに目を細めたが。イオンはアニスに向けられた容疑に、我慢できなくなったように吠えた。
 
「なぜアニスがモースのスパイをやらなきゃいけないんですか? アニスは導師守護役なんですよ。いくらアリエッタがアニスを嫌いだからって、そんなこというなんて、あんまりじゃないですか!」

 イオンは憤慨した。隣にいたルークはびっくりして後ずさる。アリエッタは傷ついたように顔を歪め、言い返した。

「本当だもん! アニスはアリエッタからイオン様を奪った! それなのに、それなのにアニスはイオン様よりモースのいうことを聞くから……! だから、アリエッタはアニスが嫌い! 大嫌い!」

 アリエッタはどうして理解してくれないのかと少ない語彙で訴えるが、イオンの心にはちっとも響かなかった。イオンにとって、アリエッタは自分が助かりたいあまり、自分の嫌いなアニスをスパイに仕立てているようにしか見えなかった。
 アリエッタを見る、イオンの眼が、軽蔑に染まっていく。アリエッタは悔しくて涙をこぼした。ルークはイオンとアリエッタを交互に見ると、難しそうな顔で言った。

「……あのさ。俺、思い出したんだけど」

 ルークに視線が集まる。
 
「エンゲーブで、アニスが鳩に手紙を括りつけてどこかに送ってるのを見た。誰に送ったのかは知らねーけど、アリエッタのいうこと、頭ごなしに否定すんのもどうかと思う」
「……ルークはアリエッタの味方をするんですか?」
「味方とかそんなんじゃねーよ。俺はただ事実を言っただけだ。あのさ、イオン、おまえ、さっきから、いったい何をそんなにカリカリしてるんだ?」

 ルークが怪訝な面持ちで見ると、イオンは目を瞠目させて、気まずそうに顔を伏せた。

「……僕は、アニスが犯罪者扱いされるのが嫌なだけです。犯罪をした証拠もないのに……酷すぎます」
「でしたら、証拠があればいいんですね?」
「ジェイド?」
「ルークとアリエッタ、二人がアニスを怪しいというなら、調べてみる価値はあります。その結果、アニスの容疑が晴れれば、イオン様も文句はないでしょう。私としても安心できます」
「安心……?」
「アニスがスパイだった場合、こちらの動向が筒抜けになる恐れがありますから。アニスがスパイではない確証が欲しいんですよ、私としても。……アニスを調べます。いいですね?」

 イオンの顔色は白く染まった。イオンは顔を伏せたまま「……構いません」と答える。その顔が、あまりにも辛く、苦しそうで。ルークは口を挟んだことをすこしだけ後悔した。

「さて。話は纏まったところで……約束通り慈悲を与えましょう」

 ジェイドはにこりと笑うと、アリエッタの胸から槍先を離す。そうして、安堵に和らいだアリエッタの耳の横に、槍を突き刺した。
 
「次に私たちに敵対攻撃を仕掛けたとき、この槍の錆にします。……いいですね?」

 アリエッタは引きつった顔で、何度も頷いた。

「よろしい。行きなさい」

 今度こそアリエッタから槍を離してジェイドは去るように促した。アリエッタは慌てて立ち上がると、姉弟の死体とイオンを交互に見やり、離れがたい表情をする。だが、武器を構えたままのマルクト兵に気圧されて、悲しそうに離れて行った。
 
「これでもうアリエッタは敵にはならないでしょう」
「大人げねーな……」
「彼女は部下の仇の一人ですから」

 ジェイドはさらりと返すと周囲を見回した。グレン将軍に兵を借りなければアリエッタの襲撃を防ぐことができなかった。精鋭兵を労い、出発を促す。
 
「で、おまえは何やってるんだよ?」
「え、あの……ジェイドさんが怖くて……」

 ジェイドがアリエッタに槍を突き付けて脅迫したころから、ミリアはルークの後ろでこじんまりと隠れていた。魔物や人の戦闘では自身に害が及ばないため徐々に怯えなくなっていたが、精神的なものはどうもダメらしい。ミリアは青ざめた顔で腹部を抑えている。
 
「怖い?」
「その……精神的に追い詰めて嬲られた末に自殺に追い込まれそうな恐怖を……こう、自分の手を汚さずに相手を死に追いやりそうな……アリエッタさんじゃないのにわたしも脅迫されたように感じて、ちょっと胃がきゅっと。あいたたた」
「おまえの中でジェイドとんでもない悪人だな!?」

 ルークは腹を抑えて蹲るミリアに呆れた視線を注いだが、ジェイドが「そろそろ行きますよ」と声をかけてきたので、ミリアをその場に放置して行くことにした。ミリアは泣きそうな顔でついてきた。
 
 フーブラス川はかつて戦場の舞台になったらしくゾンビが無数に湧いていた。ゾンビは幽霊のミリアも見えるようで――たぶんミリアがあの世に両足突っ込んでいるせいだろうが――彼女が重点的に狙われた。
 
「いやぁああ!! なんでわたしばっかり!?
「……仲間にしようとしているんじゃないでしょうか」
「イオン!?」

 悲鳴をあげて逃げ惑うミリアのおかげでルークたちはゾンビにあまり狙われずに済んだ。ルークはミリアに腕を伸ばすゾンビを切り倒すが、なにしろミリアがちょこまかとするせいで、飴が蟻の巣で転がって蟻を呼ぶような事態になってる。

「バカ、おまえ、おとなしくしてろっつーの! 守れねーだろうが!」
「おとなしくしてたら死んじゃいます! わたし、幽霊ですが二度死ぬのは嫌です! 痛いんです! 死ぬのはとても痛くて怖いんです!」
「お、おう、そうか」

 思いがけず強い口調で返されてルークは気圧される。ルークの声しか聞こえていないガイたちは、いったいどういうやり取りがミリアとルークの間に繰り広げられているのか想像したものの、まったく見当つかない。
 
「キリがないですね」
 
 次から次へとゾンビは湧いた。ジェイドはゾンビが纏まっている姿を見かけ、一網打尽にすべく、エナジーブラストを炸裂させた。奇しくも、ミリアの目の前で。
 ゾンビの全身が爆発によって引きちぎられる光景を、ミリアは特等席で見せられた。
 
「……」
「……ミリア、生きてるか?」
「……」
「あー泣くな泣くな」
「あんな光景見せられちゃ、泣くのは無理もないですよ」
 
 ミリアがジェイドへの恐怖感をさらに募らせたのは言うまでもない。手足どころか腸がはみだして、首がもげたゾンビの死骸を全身に浴びながら、ミリアは涙ぐむ。ルークとイオンは憐れみながら慰めた。その後、ミリアはぐずぐず鼻を啜りながらルークのうしろをくっつき回っていた。ジェイドと距離を大きく開けていたのが、彼女のトラウマを物語っている。
 

 フーブラス川から南下してカイツールに到着すると、アニスが旅券なしに国境を越えようと兵士に言い寄っていた。素気無く追い払われてぶーぶーと口を尖らせるアニスだったが、ルークたちに気付くと明るい表情で駆け寄ってきた。

「ルーク様! それにイオン様も無事だったんですね。心配してましたよぉ」

 アニスはルークの腕に抱き着くと、くねくねと身をよじる。ミリアは初めて見る人物を不思議そうに見ていた。ルークはアニスの勢いに押されていたが、鬱陶しそうにアニスの腕を解く。
 
「アニスも無事だったんだな」
「はい。心配してくれたんですかぁ?」
「ああ、あんなところから落ちたからな……」

 ルークは高いところから落ちて生きていたアニスに感心した。が、そういえば幼馴染とミリアもタルタロスの上から飛び降りてきたことを思い出して、案外といけるものなのかもしれないと思いなおす。
 
「無事で何よりです」
「大佐も心配してくれたんですかぁ?」
「ええ、あなたがイオン様から預かっているものを心配してました」
「ぶー!」

 ジェイドは不貞腐れるアニスを気にせず、和平親書は無事かと尋ねる。アニスは無事だと返したが、ジェイドは念のため確認するといって和平親書を出すように告げた。アニスは素直に応じ、和平親書を手渡す。
 
「……ふむ。大丈夫そうですね」
「ほら、だから言ったじゃないですかぁ」

 アニスは手を差し出して和平親書を受け取ろうとするが、ジェイドはイオンに手渡した。
 
「え? 大佐?」
「ここからはキムラスカですから。イオン様が持っていたほうが体裁がいいでしょう」
「……あ〜、そうですね」

 アニスは納得する。ジェイドは何気ないふりをしていたが、眼鏡の奥の双眸は鋭かった。イオンは、ジェイドがアニスを疑っていることを態度で理解して、和平親書を胸元にしまいながら憂鬱そうな顔をした。
 
「――ルーク様、危ない!」

 ミリアの緊張感に満ちた声が、危機を知らせる。ルークとイオンは同時に顔をあげた。国境の門から、人が飛び降りてくる。ルークは反射的に剣を鞘から抜いて、相手の剣を受け止めた。

「くっ……!」
「――やるじゃねえか。だが、甘いっ!」

 アッシュが敵意に染まった眼でルークに剣を振り下ろす。鋭い剣戟が次々に襲い掛かりルークはなんとかアッシュの剣を受け止めるものの、頬に剣傷ができて、ゆっくりと後退させられていく。ジェイドたちが隙を窺うが、下手に手を出せばアッシュのみならずルークにまで怪我をさせてしまいそうで、手を出せずにいた。
 
「ええと、ヒール! バリアー! リカバー!」

 あたふたとするミリアが治癒術を連発してくれるおかげで、ルークの体の傷はたちまち癒える。治癒術の範囲を指定していないせいか、アッシュの体の傷まで癒えている。ふいに、アッシュは夢から覚めたような表情で、手をぴたりと止めた。
 
「俺は……?」
「――アッシュ! 貴様、なにをやっている!?」
「ヴァン!?」
「ヴァン師匠!」

 ルークは嬉しそうに、アッシュは警戒心に満ちた声で、キムラスカ側から現れたヴァンを見る。アッシュはルークから離れ、困惑と敵意に満ちた顔でヴァンに掴みかかった。
 
「ヴァン! これはいったいどういうことだ!? なぜ俺はこんな服を……! あいつは俺の、」
「アッシュ、おまえまさか……! ――仕方ない。すこし眠っていなさい」
「なにをっ……ぐっ……貴様……!」

 アッシュは呻くと急に崩れ落ちた。なんとか意識を保とうとして唇を噛む。血は流れたものの、意識を留めてはくれず。アッシュは悔しそうな顔で、その場に崩れ落ちた。ヴァンは凍り付いた眼で、アッシュを見下ろしていた。
 ルークの背筋にぞっと冷たいものが走る。
 
「ヴァン師匠……?」
「……ルーク、無事でよかった。私は用事ができたから、おまえはこれで帰りなさい。ガイ、道中ルークを頼んだぞ」
「え、ああ、はい……」

 ヴァンはルークに対しては穏やかだった。ガイは目を丸くしながらも頷く。懐から取り出した数枚の旅券をルークに手渡すと、アッシュを抱き上げた。そのままどこかに連れ去ろうとするヴァンの背を、ジェイドの冷たい声が止めた。

「……待ってください、ヴァン謡将。鮮血のアッシュはルーク様に襲い掛かり、我々の任務を妨害しました。こちらが引き取ります」
「……それはできない。任務を妨害したのは申し訳ないが、アッシュは教団の規則で裁く」
「そんなことで納得できるとでも?」
「納得してもらおう。導師イオンを和平交渉に連れ出したマルクトには」
「――あまりマルクトをなめないでいただきたい。こちらはタルタロス、第三師団の犠牲を払っている。セントビナーに勝手に検問を敷いたこと、これもお忘れなきよう」
「……それほどカーティス大佐がアッシュに固執するとは。だが、残念ながら、アッシュは引き渡せん。それに、カーティス大佐もアッシュには消えていてもらったほうが好都合なのでは?」

 ヴァンは笑みを浮かべた。ジェイドは眉を顰める。
 
「私には貴殿が罪の象徴を目視し続けられるほどの人間とは思えん」

 ジェイドの眼が鋭く細まった。

「……なるほど、そういうことですか。なら、余計に彼を「ジェイド。待ってください。」……イオン様?」

 二人の会話に、イオンが口を挟んだ。イオンはちらりと横目でルークを窺う。ルークは固い表情で二人を見ていた。ジェイドは口を閉じた。
 
「…わかりました。ひとまずは引き下がりましょう。ですが、次にアッシュを見かけたときはこちらが彼を預かりますので」
「そうならないようにしましょう」

 ヴァンは笑みを浮かべたままアッシュを連れて離れて行く。
 
「――ヴァン、待ちなさい!」
 
 ティアが血相を変えてヴァンを追いかけていく。ルークはヴァンの背に声をかけて引き止めようとするが、なぜか、舌が引きつって、できなかった。ヴァンがアッシュを見下ろしていた、冷たい表情を思い出す。
 
「……グランツ総長って、あんな顔するんですね」
「……ああ」
「ちょっと、怖いですね」
「…………ああ」

 ルークはミリアの頭を一撫でして気持ちを切り替えると、固い表情で黙り込むジェイドとイオンを交互に見た。どうにも、この二人は自分に関する何かを隠している。そんな気がしてならなかった。そして、今の二人は話す気がないことも。
 
「いつか、絶対話してもらうからな」

 ルークの真剣な顔を見て、イオンは何かを言いたそうにしたが何も言わなかった。ジェイドはややあって頷いた。ようやくキムラスカに戻ってきたというのに、ルークの心は晴れなかった。遠くのほうで、ゆっくりと近づく雨雲が見えていた。
 

 
(2016/08/06)
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