キムラスカ王国首都バチカルで、烈風のシンクと合流した導師イオンは困惑していた。
陸上走行艦タルタロスの一室。艦長や上客の一部のみにあてがわれる部屋は見るからに豪華だった。長い旅をすこしでも快適に過ごせるように、狭い一室に、最上級のベッド等の家具類が揃っている。ホテルのスイートルーム並に贅沢な一室に押し込められた導師イオンはふかふかのソファに腰を落ち着けたものの、ちっとも心が休まらなかった。
「シンク、なぜタルタロスで移動を? それになぜナタリア王女にアッシュを”ルーク”だと誤解をさせているんですか?」
陸上走行艦タルタロスは言うまでもなくマルクト帝国の軍艦だった。
大詠師モースの命令を受けた神託の盾騎士団が和平妨害の末にマルクトから奪取した軍艦を、こんなにも平然と乗り回していることに、導師は困惑と不安感を覚えずにいられなかった。
このタルタロスはマルクトの軍事的財産の一つであり、それを神託の盾騎士団が乗り回しているとなれば、ダアトの外聞が悪い。ダアトとマルクトの国交に罅を入れかねない行為だ。参謀総長のシンクが、導師の懸念を理解していないはずがない。
まるでマルクトの怒りを買っても怖くないような――導師の思考を見抜いたかのように、シンクは冷ややかな声で告げた。
「我々はこのままアクゼリュスに向かいます」
「ダアトに帰るんじゃなかったんですか?」
「アクゼリュスへ行ったあとで、ダアトに戻ります。導師もマルクトとキムラスカの和平の成立を気にかけていらっしゃったでしょう。和平仲介役を引き受けた導師には和平の成功を見届ける義務があります。……そうですね、導師」
「え、ええ……たしかに、それは僕も気になっていました。でも、それならルークたちと共に行動しても……」
「導師イオンの体力を考え、親善大使一行と行動を共にするのは無理だと判断しました。先を急ぐ親善大使一行に、導師に足並みを揃えていただくようお願いを申し上げるわけにはいきません」
「……それも、そうですね。わかりました。でも、なぜタルタロスで――?」
「……タルタロスを返還するために。アクゼリュスでマルクトに返したほうが、マルクトとしても都合がいいですから」
「……都合がいい……?」
どういう意味かと視線で問う。シンクは沈黙した。不自然に満ちた空白は、まるでシンクの心情を教えるかのようだった。
「……自分でお考えください」
ぐしゃりと勇気が握りつぶされた。イオンは目の前が暗くなったかのような錯覚に溺れる。誰にも顔が見られないように面を伏せて「そう、ですね……」と答えることしかできなかった。
(僕が、導師なのに)
誰も彼もイオンの意思を無視する。無力感が体を支配した。
「……すこし、疲れました。休みます」
「わかりました。……ごゆっくりお休みください」
シンクは義務的に答えると一礼して部屋を出ていく。イオンはその背を見送ることなく、重たい体を動かして、ベッドに倒れるように横になった。ドアが閉まる音を聞く前に入ったベッドは身を凍らせるほど冷たかった。
「おい、シンク! いったいどういうつもりだ!?」
アッシュはナタリアを客室に案内し、そこで休ませると、すぐさまシンクを探した。
導師イオンと共に一等客室に向かったと知ると、部屋の前でシンクが出てくるところを待っていた。落ち着かない心を無理やり抑制し、壁にもたれかかり、二の腕を組む。指先がとんとんとリズムを刻むこと数分。ようやくシンクが出てきた頃には、アッシュの我慢も限界を迎えていた。
シンクの胸倉を掴むと壁に押し付けた。シンクが背を圧迫されたことで苦痛の息を漏らすが、アッシュは彼の様子など気にも留めていなかった。
シンクはチッと舌打ちをつくと刺々しい声で「放せ」といった。命令に等しい声に、アッシュは我慢がならず睨みつける。
「俺の質問に答えてからだ。テメエはいったいなにを考えてやがる」
「僕が何を考えてたって、アンタには関係ないだろ」
「ナタリアを巻き込んでおいて関係ないわけねえだろうが! ナタリアを利用する気なら、容赦はしねえ……!」
「容赦ね……アンタ、僕より強いつもりのようだけれど――手加減してあげているのは僕の方だよ」
「なに……?」
シンクは胸倉を掴んでいたアッシュの右手首を掴むと力をこめた。徐々にアッシュの手首から手にかけて白く染まっていく。手首にくっきりと痣ができるほどの強い力は、アッシュの顔を瞬く間に苦痛へと変えていった。
「剣土のアンタと、拳闘土の僕。接近戦ならどっちが強いかなんて明白だろ。……ねえ、いい加減、胸倉放してくれる? ――気分が悪い」
「っ……クソッ!」
力勝負で負けたのはアッシュだった。シンクの力に耐えきれず、仕方なく彼の胸倉から手を放す。アッシュの手首にはシンクがつけた痣がくっきりと残った。アッシュは忌々しそうにその痣を睥睨し舌打ちする。
「そんなにナタリア王女が心配なら、ずっと傍にいればいいじゃないか。僕に利用されないように、ね」
シンクは乱れた襟元を正すと馬鹿にしたように唇をつりあげた。
「テメエ……」
「勘違いするなよ。僕たちに同行したいと言ったのはあくまでもナタリア王女だ。僕たちはただ王女をタルタロスに乗せただけ。僕たちがいなければ、ナタリア王女は一人でアクゼリュスに向かっていただろうさ。その場合、ナタリア王女は安否不明のまま行方知らずになっていたかもしれない……そうならなかったことに、むしろ感謝してもらいたいくらいだ」
「ふざけるな!」
「ふざけているのはアンタだろ、アッシュ。馬鹿の一つ覚えみたいに怒鳴ってばかり。話す価値もないよ」
「な……ッ」
「僕は忙しいんだ。会話をする気がないなら、鏡にでも向かって怒鳴っていればいい。アンタが嫌いなレプリカルークと同じ顔にでもね」
シンクは蔑んだ目でアッシュを一瞥すると、興味を失ったかのように艦橋に向けて歩き始めた。アッシュはシンクの背をしばし睨んでいたが、諦めて、ナタリアの元へと戻るべく踵を返した。
(いったい何がどうなっている?)
タルタロスはアクゼリュスに指針を合わせて進んでいる。通り過ぎる兵士たちが自分の姿を見て、道を開けて頭を下げる中、アッシュは思考に耽っていた。
(俺たちは導師を連れ戻しにきたんじゃないのか? なぜアクゼリュスに行く必要がある。いくら導師が和平仲介役とはいえ、その役目はキムラスカ国王と和平使者が面会を果たしたときに終わったはず。これ以上、ダアトが介入する必要はない。即刻戻るべきだ)
シンクの真意をアッシュなりに考える。理解しないままただ諾と従うのはごめんだった。
(タルタロスで行く理由も不明のままだ。……導師とタルタロスをアクゼリュスへ連れて行く必要があるのか? それにナタリアも……。ナタリアは予想外だろうが、アクゼリュスに連れて行っても構わないのだろう。しかし、いったいなぜ……この時期に……?)
アッシュは足を止めた。今のアクゼリュスは障気が噴出して大変危険な状況だ。そこに導師と王女を連れて行くなど危険行為でしかない。しかも、アッシュの聞いた話では、今年は――。
(今年はユリアの預言で、……ルーク・フォン・ファブレが死ぬ年、だ)
死にたくない一心で、アッシュはルークをやめて、ヴァンの手を取った。その後思い直してすぐに家に戻ったが、そこにはすでにレプリカルークがいた。当時のことを思い出すと腸が煮えくり返りそうになる。だから、意図的に思い出さないようにしていた。だが。
(ヴァンは、ルーク・フォン・ファブレはユリアの預言で死ぬといっていた。アクゼリュスで死ぬと……。……アクゼリュスでルークが死ぬようなことが何かが起こるのか?)
アッシュは、ルークの死因が何になるのか、ヴァンに詳細を聞いていなかった。ユリアの預言で死を詠まれた以上、それは覆しようのない未来だ。
アクゼリュスには、死の空気が蔓延している。そうだとすれば、ルークの死因は、障気か。
(障気で一気に死ぬなんてことはないだろう。せいぜいぶっ倒れるくらいだ。それなら、何が起きる? いったい何が……)
アッシュが思いつくのは、障気か、あるいは和平妨害くらいだ。キムラスカもマルクトも長年仮想敵国として睨み合っていた。近年国境沿いで頻発している小競り合いを見れば、両国の国民感情は下降の一途をたどっているのは疑いようのない事実だ。
(和平を妨害するために後ろから……なんてことは十分ありえる。他に可能性があるとしたら……。アクゼリュスと導師、か……。その符号で思い当たるのは、――パッセージリング)
アッシュは数年前のことを思い出していた。
導師が本格的に体調を崩す前のことだ。導師は六神将を連れて各地のパッセージリングを見て回った。点検が目的だった。大地を支えるパッセージリングにもしもがあってはならないと。
しかし、アクゼリュスのパッセージリングは点検していない。する前に、導師は体調を崩してしまった。
(体が弱くなったとはいえ、今は回復しているようだからな……。パッセージリングの点検を再開させたのかもしれない。だが、それならそうだと教えてくれてもいいだろう。……秘密主義のシンクにそう思っても無理だろうが。しかし、このタイミングでパッセージリングの点検をするか? しなくてはならない理由があるとでもいうのか……?)
アッシュには推測を立てることはできても、その考えが正しいと断言できる情報が何もなかった。
(しかし、アクゼリュスと導師の符号を考えると、ほぼパッセージリングに用があると見て間違いなさそうだ。このタイミングで点検とは考えにくいが、それ以上の理由も――パッセージリングを壊すというなら話は別だが、まさか、そんなことするはずがない。アクゼリュスで起こるのは、ルーク・フォン・ファブレの死のみ。その後、ルークの死をきっかけにキムラスカとマルクトの関係は悪化する。ダアトや神託の盾騎士団が、両国の争いに介入する理由はないはずだ)
アッシュは不吉な思考を追い払おうとする。しかし不思議と、不吉な考えは頭にこびりついた。まるで憑りつかれたかのように。
「”ルーク”、こんなところで何をしていますの?」
「ナタリア!? おまえ、なぜここに。大人しく部屋にいろと言っただろう」
「大人しくしていましたわよ。でも、すぐに戻ってくると言ったっきり、いつまで経っても帰ってこない”ルーク”が心配で……」
「……そんなに時間が経っていたか。心配をかけてすまない」
「え……」
アッシュがナタリアに謝意を示すと、彼女は呆然と目を瞬いた。
「……ナタリア?」
「え、ええ、すこし驚きましたわ。”ルーク”にすまないと言われたものですから」
「は? ……そのくらい、俺だって言うさ」
アッシュは心外だと眉を顰める。ナタリアがくすくすと笑う姿を見ながら、アッシュはもしかしたら、ナタリアの知る今のルーク――レプリカは謝罪もろくにしない奴なのかもしれないと思い至った。
タルタロスとカイツールで見たレプリカルークを思い出す。アッシュが知るレプリカルークは、殺人を厭い、ヴァンに懐いている子供っぽい人物だった。腹の筋肉を見せつけるような服装も、喋り方も、気に入らない。はっきり言って、ファブレ公爵の息子としてふさわしくないと思っていた。今のところアッシュの中でルークの評価はマイナスだ。
「あら、そうでしたの? それは知りませんでしたわ」
「まったく……。それよりナタリア、心配かけたのは悪いが、勝手に動き回るな。ほら、戻るぞ」
「ええ」
アッシュが溜息まじりに先導すると、ナタリアは笑みを絶やさないままついてくる。ナタリア用の客室――導師の部屋よりもランクが劣るが、それなりに良い部屋だ――に戻った。ナタリアはテーブルセットの椅子の一つに座ると、アッシュも対面に座るように促した。特に断る理由もないのでアッシュは従う。
「”ルーク”、バチカルに戻るまであなたは何をしていましたの? せっかくの機会ですわ、教えてくださいませ」
アッシュは一瞬、錯覚した。ナタリアが言っている”ルーク”は自分のことではないかと。レプリカとすり替えられた自分のことを覚えているのではないかと、期待した。
「あなたがバチカルに戻るまで行動を共にしていたティア? という女についても、教えてくださいませ」
期待は瞬時に打ち砕かれた。ほんのすこしだけ失意が胸を打つが、仕方のないことだと諦める。諦めることには、もう、慣れていた。
(……そうか、俺は、変わってしまったんだな……)
アッシュはナタリアを見て切なそうに目を細めた。かつては国の未来を語っていたのに、いつからか諦めることに慣れていた。アッシュとしてがむしゃらに生きた七年という歳月が、アッシュを変えたのだ。
「”ルーク”?」
「いや、なんでもない。……ティア・グランツなんかどうでもいいだろう。それよりナタリア、おまえの話を聞かせてくれ」
「……本当に珍しいですわね。”ルーク”がわたくしのことを気にするなど」
「そうか?」
「そうですわ。いつものあなたは、口を開けばヴァン謡将や剣の話題ばかり」
「……悪かったな」
アッシュは内心レプリカルークを罵った。七年間レプリカルークがどんな生活を過ごしていたのか、今のナタリアの一言で薄々察してしまった。不出来なレプリカの代わりにナタリアに謝ると、彼女は気分を良くしたようで、ここぞとばかりにレプリカルークに要望を伝えはじめた。
「記憶喪失になって”ルーク”が大変なのはわかりますが、だからこそ、あなたには早く記憶を……わたくしとの大事な約束を思い出してくださいませ。そうして、勉強の遅れを取り戻し、国の未来のために頑張りましょう。わたくしもそのためなら協力を惜しみませんわ」
「ああ、そうだな」
「今日の”ルーク”はやけに物分かりがいいですわね。いつもならうるさいと一蹴してますのに。すこしはキムラスカ王族の自覚が出たようですわね?」
「ナタリア、お前は……」
「ふふ、あなたが悪いのですよ、”ルーク”。……それにしても、災難でしたわね。お屋敷が襲撃されるなど……。そのせいでおば様や使用人が……」
アッシュの心臓がどきりと悪い意味で高鳴った。久しぶりに聞く、母の近況。病弱な母の身に何かあったのか不安がよぎる。
「でも不幸中の幸いでしたわ、おば様が無事で……本当に安心いたしました。一人だけ、意識不明の使用人がいるようですが、時期に回復に向かうことでしょう」
「そう……だな……」
アッシュは母の安否がわかり安堵に胸を撫でおろした。しかし、ナタリアの眼にはまったくちがう形に映った。彼女の胸中で黒い炎が煙をあげる。ナタリアの眦が刃のように鋭く尖った。
「”ルーク”、あなた、またミリアのことを心配していますの?」
「は?」
ミリア。聞いたことがあるような、ないような。印象が薄い名前を刺々しい声で聞かされて、アッシュは目を丸くしていた。その姿が、ナタリアの眼にはとぼけているように映った。
「”ルーク”、いつまでもミリアのことを気にかける必要はありませんわ。ミリアでしたら、おじ様が集めた医師たちがしっかりと診てくれています。今のあなたが何よりも優先すべきなのは、記憶を取り戻し、わたくしとの約束を思い出すこと」
「は、」
ルーク・フォン・ファブレが、今、最優先すべきなのは、和平成立に尽力を尽くすことだ。キムラスカとマルクトの和平がかかった任務は、国のため、大事な国民のためにもっとも優先されるべきことだ。そのはずなのに。キムラスカ王女の口から飛び出した言葉に、アッシュは瞠目する。間の抜けた彼の表情は、ナタリアの尖った感情を逆撫でした。好いた男が他の女を気にすることが面白くない――女の嫉妬心からくる苛立ちは、男女の機微に疎いアッシュには通用しなかった。ただ、醜いものとして、映る。
「安心してくださいませ。わたくしがあなたの代わりに、和平を無事成功させてみせますわ。元より外交の経験が不足しているあなたに、このような大事なことを任せるのは不安でしたもの。ちょうどよかったですわ」
ナタリアはルークの役に立てる優越感から誇らしげに言った。きらきらと若草色の瞳を輝かせて、まるで恋する乙女のように夢見がちに。どれほどの屈辱を婚約者に味わせているのか、自覚もせずに。がつんと頭が暗むような衝撃を与えられたアッシュは瞑目した。額を抑えて、爪先から這い上がるおぞましさと戦いながら、ナタリアを凝視することで精いっぱいだった。
「ナタリア、おまえ……」
「”ルーク”?」
ナタリアはきょとんと目を丸くした。心からの善意であることがわかる。しかし、アッシュにとっては、侮辱でしかなかった。
今のルークはレプリカルークだ。レプリカルークならばいくら侮辱されてもどうでもいいことだ――アッシュはそうは思えなかった。なぜなら、今のアッシュはルークを自分の分身のように思っていたからだ。
ナタリアは今のルークがレプリカであることを知らない。つまり、ルークに与えられた侮辱は、本来ならすべてアッシュが受けるものだ。だからこそ、アッシュはルークへの侮辱を、自分のもののように重く受け止めた。
ナタリアは記憶を、約束を思い出してほしいと口にした。ナタリアが今もなお、あの約束に固執しているのなら、なぜルークに国の未来に関わる大事な役目を蔑ろにしてまで記憶を取り戻せというのか。二人で交わした約束は、国を豊かにしようと誓い合ったものなのに。
「……ナタリアが、俺の代わりに親善大使をやってくれるのか?」
アッシュは自然とわななく唇を動かす。言葉を吟味した。本当ならば「俺に親善大使は相応しくないのか」と言いたかった。でもそんな聞き方をすればナタリアは即座に否定する。たとえ彼女の中ではそのとおりであったとしても、否定するとわかっていた。アッシュはナタリアの本音が聞きたかった。
「ええ、あなたのためなら、喜んで、やり遂げてみせますわ」
ナタリアは善意の笑みを浮かべて答えた。
アッシュの心が瞬く間に冷えていく。突然南極に放り込まれたような身も心も凍る冷たさが、アッシュの口を固く閉ざした。
ナタリアにとってのルーク・フォン・ファブレの価値が見えた。ナタリアはルークの荷物ですら背負いこもうとする。背負いこめると信じている。支えるのではなく。ルークの代わりになれると信じている。それは、つまり。――約束さえ覚えていれば、ルーク・フォン・ファブレが誰であろうと構わないということだ。
ナタリアにとっての自分の価値を意図せず見せつけられた形になり、アッシュは面を伏せた。自然と強張る表情は彼の心情がつぶさに現れていた。ナタリアは急に黙り込む婚約者に不思議がり、顔を覗き込もうとする。傷ついた翡翠の眸を見られる前にアッシュは席を立ち、背を向けた。
「すこし外の空気を吸ってくる」
「え? ……それじゃあ、わたくしも一緒に」
「いや、すぐに戻ってくるから、お前はここにいてくれ」
「……わかりましたわ。すぐに戻ってきてくださいませ」
「……ああ」
ナタリアが残念そうに眉を下げる。もうすこし婚約者と二人の時間を楽しみたかったのに、と嘆息をついた。アッシュは自らを引き留める嘆息を聞こえなかったふりをして部屋のドアノブに手をかける。今、振り向けば、ナタリアをこっぴどく拒絶してしまいそうな自分がいることに気づいていた。
タルタロスの甲板にアッシュは佇んでいた。群青色の空に時折浮かぶ鳥影が、艦橋にいくつものまだら模様を作る。太陽の陽射しが透き通った海を照らし、軍艦の下で悠々と泳ぐ魚が見えた。まとわりつく潮風に遊ばれる髪が容赦なく頬を叩くが、鬱陶しげに振り払うこともなく、雄大な海の前に打ちひしがれている。思えばずいぶんと遠くまできたものだと、今さらながら感慨に耽っていた。
(いったい俺は何をやっているんだ)
最初にヴァンの手を取ったのは、自分だった。それなのに、今もなお、己は未練がましくルーク・フォン・ファブレに執着している。その理由を考えていた。いったい自分は何を失いたくなかったのだろう。ファブレ公爵子息という地位か、国を背負って立つのだという未来への展望か、十年という貴族として生きてきた時間の間に育まれた矜持か。そうではないのだ。アッシュが本当に失くしたくなかったものは、そんなものではなかった。
(……ナタリア。母上。父上。俺は、あなたたちのもとに……帰りたかっただけなのに)
うじうじと理由を付けて、家に帰らなかったのは、自分なのに。自分の弱さを、レプリカルークのせいにして。そうして、アッシュは初恋の少女を失ってしまった。
アッシュが七年間家から離れている間に、ナタリアにも等しく同じ時間は流れていた。昔は、たしかにルークを大切に思ってくれていたのに。そんな彼女を捻じ曲げたのはアッシュだ。記憶喪失になった”ルーク”が、必要以上の不安を与えてしまったから。アッシュが素直に家に戻っていれば、ナタリアは婚約者を無意識で見下すような少女にならなかったはずなのに。
七年間、逃げ続けてきたことの代償を支払わされている気分になった。アッシュがナタリアを歪めた。母は。父は。――自分がいなくなったことで、何が変わった。
第三者がいれば、すべてがアッシュのせいではないと否定しただろう。しかし、この場において、アッシュは独りだった。誰も彼の心を知らない。寄り添って、諭して、愛してくれる人は誰もいなかった。
アッシュの目頭が熱を帯びる。視界が滲んだ。地平線が見えない空と海を睥睨した。燦々と降り注ぐ陽射しが視界いっぱいに広がる。白い光に灼かれて消えてしまいたかった。舌打ちをつく。
「……くそ、まぶしいな」
そうだとも。これは、まぶしいせいだ。目尻からこぼれ落ちた一筋の涙を、服の袖で拭った。ざぶんと海が波打ち走行艦にぶつかって飛沫があがる。海面を撫でては底に沈む泡沫を眺め続けた。この泡とおなじように悩みも飛散すればいい。そう願って。
「ルーク様、話があります」
ルークは訝しげに眉根を寄せた。神妙な面持ちをするジェイドに悪い予感を感じ取り、自然と表情が強張った。そばにいるミリアがさっとルークの背中に隠れる。彼女は相変わらずジェイドが苦手のようで、いつもなら揶揄っていたが、この時ばかりはそうもいかなかった。
「話?」
「ええ、もうじきあなたとの旅も終わりますから。和平が上手くいったとしても、こうして話す機会はもう早々ないでしょう。ですので、その前に、と思いまして」
「……何の話だよ」
「カイツールでの話の続き、といえば、わかっていただけますか」
「あのときの……! そうか、ようやく、話してくれる気になったんだな……」
「ええ。二人だけで話したいのですが」
ルークは頷いた。
「わかった、俺の部屋に行こうぜ。ミリアは」
「ミリアも抜きでお願いします」
「……そんなに大事な話か。すげえ嫌な予感がするぜ……。ミリア、お前はここで待ってろ」
ミリアは素直に頷いた。それを見届けて、ルークがジェイドを連れて部屋に戻っていく。ガイはその様子を遠巻きに見ていた。ティアがガイに話かけているが、彼は心ここにあらずと言った様子で聞き流していた。曇った表情で二人が消えていった方向をじっと見ている。まるで、ルークに呼ばれるのを待っているかのように。
ルークとガイの軋轢は解消されることがないまま、二人の間に流れる気まずい空気が日増しに重くなっていく。
(ルーク様もガイも早く素直になればいいのに。もう、しょうがないなあ。すこし落ち着いたら、二人が仲直りできるきっかけを作ってみよう)
ミリアは呆れたように笑った。
数分後、戻ってきたルークは紙のように白い顔色で黙り込んでいた。人を拒絶するような固い空気を全身に纏い、迂闊に触れたら壊れそうな危うさが潜んでいる。気遣わしげな視線を向けるジェイドの様子から、何かがあったことは明白だった。
ミリアとガイが心配そうな面持ちでルークを見つめていたが、彼は心配を跳ね除けるように、沈黙を保った。常にない態度を見せるルークにミリアの神経までがぴりぴりと尖っていく。何かが起こりそうな予感がしていた。
もう間もなく、船はアクゼリュスの近くに到着する。
2017/05/26
prev next
back