ティアが目を覚ましたのは昼近くだった。
思う存分睡眠を貪ってぼうっとする頭を動かして周囲を見回す。テーブルに置いてある二個の総菜パンに視線を止めると、お腹の虫が元気に鳴いた。あたたかなベッドを抜け出して、テーブルに近づく。椅子に腰をおろすと、一つのパンに手をのばし、包装紙を剥がした。
早朝から開いているパン屋で売ってる、総菜パン。
ブラックペッパーとケチャップで味付けされているウィンナーロールは、この店自慢のパンだった。肉厚のウィンナーをパリッと噛むと、じわりと肉汁があふれ出して、固めのロールパンに肉汁が染みる。ケチャップは酸味を抑えていて、ブラックペッパーがよくきいていた。歯ごたえがあり、満足感を得られる一品で、働く人に大人気のパンだ。
「おいしい……」
パンのおいしさに目を緩めつつ、テーブルの上に置いてあったメモに手を伸ばす。そこに書かれていたのは、アニスの不在理由だった。
家に帰る、もしかしたら泊るかも――その内容を見て、ティアは眉を顰めた。
(お父様にお話を聞きに行くのはわかるけれど、泊るかもしれないなんて……いくらなんでも、のんきすぎるわ)
アニスがのんきなのは知っていたが、現状を理解しているとは思えない行動に頭が痛くなった。アニスはティアを馬鹿にしているが、年下の子供の浅知恵と侮蔑の視線に気づかないほど彼女は愚鈍ではない。
ティアにはティアの言い分がある。
そもそもにして、ルークの情報を掴んできたのはティアだ。やりたくもない娼婦のまねごとをして、全身を入念に洗いたくなる嫌悪感と戦って。その間アニスは宿屋で待機していた。自分の見た目が幼いという理由で。
たしかにアニスの外見は幼いが、そういう少女を好む男性はたくさんいる。ティアはそのことを知っていた。彼女とて、伊達に情報部に所属していたわけではないのだ。
結局のところ、アニスは自分が娼婦のまねごとをしたくないから言葉巧みに逃げたのだ。
(所詮、子供ね)
話を聞くふりをして、本音は両親が恋しいだけだろう。呆れとほんのすこしの羨望――ティアは家族に会えない。両親は逝去し、兄は世界の敵だ――を胸に秘めて、残り一口になったパンを口の中に押し込んだ。テーブルの上に置かれた水差しを手に取り、備え付けのコップへと水を注ぐ。パンと一緒に、ハーブの香りがする水を一気に飲み干した。
一先ず、アニスの話を待たなければ。しかし時間を無為に過ごすのも勿体ない。そこでティアは、イオンとマルクトの状況を探ることにした。身支度を整えてから宿屋を出る。
白い月が、真昼の空に浮かびはじめていた。
導師イオンの優しさは世界中知るところで、彼はダアトでは慈善活動に精を出していた。――と、いうことを思い出したティアは、もしやと思いダアトにある孤児院に向かった。
孤児院は子供たちで賑やかだった。庭で駆けまわったり、木の下で本を読む子供もいる。孤児院の子供たちは、ティアを見て一瞬足を止めたが、すぐに笑顔で駆けよってきた。
「おねえちゃん、どうしたの?」
「なんか用?」
「いっしょに遊ぼうぜ!」
「だっこしてー!」
警戒心が薄いのではなく、ティアが着ている軍服のおかげで子供たちの警戒心を解いたらしい。ティアの軍服は神託の盾騎士団兵士の中でも特殊で、情報部所属の軍人にのみ許されたものだ。それを知る子供たちは、ティアが情報を求めていることを知り、矢継ぎ早に問いかけた。
小さくてきらきらした目を向ける子供たちは可愛い。ティアは怖がらせないように微笑みながら、やわらかい声で尋ねた。
「ええっと、あのね……最近イオン様がきてないかしら? イオン様に用があるのだけど、なかなか会えなくて……」
子供たちは顔を見合わせて首を傾げた。
「イオン様なら今日はきてないよー」
「この間きたよ」
「ね」
「またこないかなあ」
「イオン様ね、いっぱいおもちゃ持ってきてくれたんだよ! いっぱい!」
どうやらイオンは健在のようだ。慈善活動ができているようなら、イオンの方は何も問題ないのかも知れない。
(もしかしたら、イオン様はルークが捕まっていることを知らないのかしら……?)
ルークが捕まっていることを知れば、イオンなら救出しようと考えるはずだ。そうせず慈善活動に精を出しているということは、情報が遮断されている可能性がある。
もしかしたら、イオンは、ルークの現状も世界の状況も何も知らないのかも知れない。
ともあれ、イオンの無事が確認できただけでも大きな収穫だ。
(イオン様は元気でいらっしゃるようだし、ルークの救出を優先させたほうが良さそうね)
イオンは命を脅かされる危険性はなさそうだ。子供たちに話を聞いたティアは「ありがとう」とお礼を言って子供たちの頭を撫でた。子供たちはにっこりと笑って、ティアの用が済んだと知ると、各々の遊びに戻っていく。
一人の小さな女の子が残った。女の子はもじもじと体を揺らしながら、話たそうにしていた。
「どうしたの? もしかして、他にも話したいことがあるのかしら?」
女の子はパッと表情を明るくさせると、耳を貸して、といった。話したくてしょうがないようだ。ティアは屈んで女の子の視線に合わせる。耳を貸した。
「あのね、内緒だよ? わたし、イオン様の本名知っちゃったんだ! わたしは特別だからって」
(イオン様の本名? ……イオン様って、導師になる時にお名前を変えられたのかしら)
不思議がるティアに女の子は小声でいう。
「イオン様の本名ね、フローリアンっていうんだって! わたしとお姉ちゃんだけのヒミツだよ」
女の子は緑の髪をしていた。
どこかで見覚えのあるような――そう思ったものの、ティアは誰と似ていたのか思い出せなかった。
「そう……秘密を教えてくれてありがとう」
「ううん! お姉ちゃんばいばい!」
「さようなら」
話したいことを話すと、女の子はすっきりとした顔で手を振って去って行った。思いがけずイオンの本名を知ったが、導師に特別な感情を抱いていないティアは(アニスが知ったら喜びそうね)という感想以外出てこなかった。イオンの無事も知れたのでティアは孤児院を後にして、一度宿屋に戻り、服装を変えると次は酒場へと向かった。
酒は堕落のもととして、ダアトでは表向き禁じられている。
とは言え、法律で禁じられているわけではないため、子供の目につかない場所で皆が楽しんでいた。ティアが来たのは、夜は酒場になる大衆食堂だ。格安で料理と酒を提供してくれるため、旅行客や男性に人気だった。
酒の匂いと騒音が入り混じる酒場に足を踏み入れて、カウンターへと向かう。途中、ティアの肢体に目を止めた酔っ払い客が声をかけてきたが、冷ややかな睥睨で一蹴する。バーテンダーにアルコール度数が低い果実酒と、つまみにチーズクラッカーを頼み、酒を楽しむふりをしながら耳を澄ませた。
「……カの次期国王はルーク・フォン・ファブレ様だとよ」
「ファブレ公爵のご子息か。まあ妥当なところだな」
「ナタリア様が亡くなって、ルーク様くらいしか後継者いないからな。マルクトとちがってキムラスカは王族不足だ」
「ルーク様の政治能力は不明だが……期待しておこう。ナタリア様よりはマシだといいが」
「あの王女様はなあ、慈善活動や福祉活動に精を出しながら、それらを放り出して親善大使一行に同行してたからな……。亡くなった人を悪くいうのは好かんが、ナタリア王女がしていたのは慈善活動じゃなく、偽善活動だと思ったよ」
カウンターの近くのテーブルから話が聞こえてくる。気づかれないよう視線を走らせると、どうやらキムラスカの行商人のようだ。何かを仕入れて、これからバチカルに戻るのだろう。
(ルークがキムラスカの次期国王……大丈夫かしら?)
ナタリアの悪口に不快な気分になりつつも、気になるのはルークの今後だ。ティアはルークに淡い想いを抱いていた。
「マルクトはピオニー陛下が帰還して安泰か。新将軍も決まったようだしな」
「ああ、ユリアの子孫とかいう……」
(え?)
ユリアの子孫。自分たち以外にもユリアの子孫がいたのか、とティアは声をあげそうになった。なんとか動揺を抑えつつ、果実酒を一口飲む。
「名前は……なんだったっか。えーと、ヴァ、ヴァン、ヴァンデルカ、だったか?」
「そんな名前だったような……。まあ、とにかく、マルクトとキムラスカが和平のためにその新将軍とセシル将軍の婚約を考えているそうだ」
「ほお……。そりゃいい。戦争はもうごめんだからな」
「武器は売れていいが、食料が厳しくなるのはなあ」
ティアはカウンターにお金を叩きつけると、酒場を飛び出した。宿屋への道を駆ける。すっかりと日が暮れて月が明るく道を照らしていた。
(いったいどういうことなの? マルクトの新将軍って、ヴァンって、もしかして、兄さん? じゃあ、ルークを監禁しているのは、――マルクトは……)
アニスに早急に伝えなければならない。もしかしたらマルクトはすでに兄の手に落ちているかも知れないと。ジェイドとガイの安否が心配だ。もしかしたら、彼らはもう――。
自分が知らないところで、事態が進行している。それも悪いほうへと。じわじわと背筋を這う不安感にティアは身を震わせた。宿屋に戻ると、借りている部屋へと駆け込む。部屋の明かりはついておらず、アニスはまだ帰っていなかった。
アニスは大丈夫のはずだ。ただ、家に帰っているだけで。ティアの気持ちも知らず、明日にはきっと、元気な顔を見せてくれるはずだ。
「大丈夫、大丈夫よ……アニスは、帰ってくる」
自分のベッドに入ってひとり身を震わせる。不安感に苛まれて長い夜になりそうだった。
翌日、疲れが出たのかティアは高熱を出して寝込んだ。
嘔吐を繰り返してベッドの住人になりながら、ぼうっとする頭でアニスの帰りを待ちわびる。アニスはいくら待っても帰ってこなかった。
体調が戻ったのは四日後のことで、その間、食事の世話をしてくれた宿屋の店主に礼をいってお金を弾んだ。そうして、情報収集をしたティアはアニスが”アニスを殺害して逮捕された”事実を知った。
世界が急速に変わっていく。それはあたかも白いキャンバスに黒い絵の具をぶちまけたような変化だった。
ルークがファブレ公爵夫妻とバチカルに帰還した。アリエッタがグランコクマ襲撃の首謀者と判明し、マルクト軍による討伐部隊が派遣された。ルークがインゴベルト陛下の養子になった。アニスが情状酌量の余地なく処刑された。マルクトとキムラスカが導師イオンの手によって和平締結した。アリエッタが討伐部隊により死亡、討ち取ったのはマルクトの新将軍ヴァンデスデルカだった。シンクは参謀総長に戻り、主席総長の座はラルゴが継いだ。
変わりゆく世界にティアだけ、取り残されている。
ティアはアニスの処刑を止めようとした。アニスがアニスを殺害したなんて何かの間違いだ。アニスが殺害したという少女は、きっとアニスと入れ替わったレプリカにちがいない。ルークとアッシュに起きたことが、アニスにも起きたのだ。図らずもアニスと同じ思考に至ったティアはアニスの両親の元へと向かい、真相を明らかにしようとした。
だが、アニスの両親は「わたしたちの娘は死んだ」と一点張りで、耳ごなしに否定して話を聞いてくれなかった。
それどころか、ティアに不快そうな顔を向けて――アニスの両親にとってティアは娘の死を愚弄する人間でしかなかった――家から追い出して鼻先で扉を閉める始末だ。それにはティアも憤慨した。彼らは自分の忠告を無視して、本物の娘を死に追いやろうとしている。
アニスの両親に話をしても無駄だ。そう思ったティアは武力行使に出た。アニスを救出すべく、譜歌を使って牢屋に侵入したのだ。しかしあえなく失敗に終わり、犯罪者としてティアまで追われる立場になってしまった。
ダアトから居られなくなった彼女が向かった先はバチカルだった。
結論だけ言えば、王子になったルークには一歩も近づくことはできなかった。それどころか姿形すら見ることが叶わなかった。王子になったルークの身辺警護は厳重で、護衛もナタリアの比ではなかった。
キムラスカ王族のたった一人の若者。もはやティアの手の届く男ではない。
意気消沈したティアは激動する世界についていけなかった。決裂し殺害しようとしたはずの兄の元に向かったのがその証拠だ。
兄なら、兄さんなら慰めてくれるはず。そんな甘っちょろい考えでグランコクマに行っても、兄はティアを見ても柳眉一つ動かすことなくすれちがった。まるで路傍に生えた雑草の前を通り過ぎたかのように。
兄さん、とティアが呼び掛けても立ち止まることなく、腕を掴んで縋っても、素知らぬ他人を見るような顔でやんわりと振り払う。
兄の変貌にとうとう心は限界まで打ちのめされた。
ジェイドとガイの行方は知れず、ナタリアとアニスは死亡し、ルークとは連絡が取れない。なぜか兄はティアを赤の他人だと思い込み、将軍として生きている。
ティアが最後のよりどころにしたのは、ユリアシティにいる祖父だった。幽鬼のような顔で必死の思いでユリアシティに向かう。その間ずっと不安感に苛まれていた。
祖父にまで拒絶されたらどうしよう。祖父を自分を覚えていなかったら。自分の代わりのレプリカがいたら。アニスの身に起きた出来事が自分にも起きないとは思えなかった。
アラミス湧水洞の曲がりくねった道を突き進み、ユリアシティに続く譜陣に足を踏み入れる。音素を集めて譜陣が一際明るく輝き、ティアの体がゆっくりと融けていく。
そうしてたどり着いたユリアシティには人っ子一人いなかった。
見慣れた街並みは廃墟のように色褪せている。静謐を通り越した無音の世界がそこにあった。
「うそ」
街はいつもと変わりない。ただ住民がいないだけだ。
ティアはおぼつかない足取りで祖父を、友人を、知人を探した。街中を駆けずり回って。街に荒らされた痕はなく、忽然と住民だけが消えていた。
どこかに住処を移したのか。それならなぜ祖父はメモを残さず、家財もなくなっていないのか。街には人間以外のすべてが残されていた。
いったい祖父たちの身に何が起きたのか。痕跡を探そうにも何一つ見当たらなかった。
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