マルクト帝国首都・グランコクマ宮殿。
ジェイドは早急に荷物を箱に詰めて、出国する準備を整えていた。ピオニーの言うとおりキムラスカ王国に向かうための準備だ。半日で何とか準備を終わらせると、ピオニーの私室を訪ねる。話は通っていたのだろう、すんなり護衛はジェイドを通した。
ドアをノックして入室を促す声を待ってから、入る。
部屋は月明かりが満ちてずいぶんと明るかった。譜業灯の明かりすらいらない。
ピオニーは「おう、来たか」とドアに背を向けて部屋の奥に固まっているブウサギの群れの中心でしゃがみこんでいる。ブウサギたちが寝ているところを突っ込んでいったのか、殆どのブウサギは目を閉じて寝息を立てているか、もしくは睡眠を邪魔するピオニーを半目で睨んでいるかのどちらかだった。
あきらかにブウサギは迷惑そうな顔をしているのだが、ブウサギ陛下はめげずに、ブウサギの頭を撫でていた。
見慣れたやり取りだ。ピオニー陛下は基本的に自分が思うことを貫く。ジェイドは幼馴染がこうと決めたときの決断力と実行力を知っていた。わかっていたのだ。
「陛下、私がここに来た理由は見当がつくでしょう。余計な前置きはいいので、サッサと本題に入ってください」
「……お前にその態度を許した俺も馬鹿だったんだろうさ。その件については俺にも問題あるんだろうが、なあ、ジェイド」
いつもとは違って、ピオニーの声には笑みが含まれていなかった。依然と背を向けたままブウサギの頭を撫でる手つきも変わらない。だが。――寝ていたブウサギが突然怯えたように鳴いた。ジェイドは静かに息を飲む。
場の空気が瞬く間に塗り替えられていく。
夜の眠りに誘う心地よい空気が、緊張感に張り詰められた。ジェイドは知らずのうちに姿勢を正した。
「――お前のせいで、マルクト帝国はキムラスカ王国に余分に頭を下げることになった。その責任はどう取るつもりだ?」
ようやく、ブウサギを撫でる手が止まった。ピオニーはすっと立ち上がると、ゆっくりと振り返った。と、思ったら、ノーモーションでジェイドに殴りかかった。ジェイドは慌てて顔面の前に手をかざして、一直線に顔を目掛けてきたピオニーの拳を受け止める。
ジェイドが防ぐことなど想定内だったのか、迷わずに腹部に膝を入れてくる。体を折って呻くと首の頚椎に衝撃が走った。ジェイドは床に崩れ落ちた。
ピオニーは冷たい眼差しに怒りを湛えて、床に倒れこむジェイドを見下ろしていた。
「情けないもんだな。この程度の実力しかなくて、親善大使殿と導師イオンを守りきるつもりだったとは。笑えん冗談だ」
「っく、……陛下!」
「理性はまだちゃんと働いているようだな。この状況でも俺のことを陛下と呼ぶのは褒めてやろう。だが、何故、その理性を和平の任務につけた時は働かせなかったのか。理解に苦しむ」
「陛下、いったいどういうことですか。このような暴行を加えた理由をお聞かせ願います」
ジェイドは顔を歪めながら、首を押さえて立ち上がる。衝撃から立ち直ったが、まだ痛みは消えない。しばらく痛むことは間違いなくて、ジェイドはピオニーを睨んだ。ピオニーは平然とした面持ちで皮肉めいたことを言う。
「理由なら聞かせてやるさ。腐るほどな。まず一つ目は俺の心情的な問題だ。――第三師団を壊滅させられたにも関わらず、セントビナーで応援を呼ぶこともなく和平使者たった一人で、導師イオンと、和平協力者のルーク殿を守った実力を是非見せてもらいたいというな」
「な……」
何故それを知っているのかと問う瞳に、ピオニーは調べればすぐわかることだと吐き捨てた。
「アンチフォンスロットで弱体化されたらしいな。その状態でルーク殿と導師イオンを守れると思ったんだろう? だから応援を呼ばなかったんだろう」
「……陛下の密命で動いていましたから」
「陸艦タルタロスを使っておいてよくいう。まして導師イオンの姿を隠していたわけでもない。敏い者なら、導師イオンがマルクト軍人と共に同行しキムラスカに向かってる姿を見れば何かしら勘付くだろうさ」
「……」
「話を戻すぞ。己一人守れない身でありながら、慢心を抱くとは良い気なものだ。ああ、それとも、神託の盾騎士団の実力を甘くみたか? アンチフォンスロットで弱体化させられても、神託の盾騎士団を追い払えると思ったのだろう? それとも何か、自分が弱体化させられた分、ルーク殿に働いてもらおうと思ったか? 己の不始末をルーク殿に拭いてもらおうと? 答えろ、ジェイド」
「……待ってください。さっきからいったい何の話ですか?」
「そのままだろう。天才と呼ばれたジェイド・カーティスのことだ。凡夫たる俺には想像つかない素晴らしい答えを返してくれるのだろう。さあ、答えろ。俺は凡夫だが、皇帝でもある。皇帝を納得させる答えを当然出せるのだろう?」
ピオニーの厳しい眼差しを前にジェイドは言葉に詰まった。
――ピオニーが怒っている。
言葉の節々に棘が含まれている。ピオニーが怒る理由を理解できないほど愚鈍ではなかったが、これほどまで怒るとは正直想像していなかった。
「……たしかに、私はアンチフォンスロットで弱体化させられました。ですが、元を正せばルークがラルゴに捕まったせいで――」
「俺はカーティス大佐が弱体化させられた理由を聞いているのではない。今、問題視しているのは、カーティス大佐が弱体化させられた経緯ではなく、その後の話だ」
「……その後の、話」
ジェイドは口の中でたしかめるように、ピオニーの発言を繰り返した。
「弱体化させられたあと、カーティス大佐には選択肢があったはずだ。立ち寄ったセントビナーで応援を頼むなり、俺に連絡し意見を窺うなり。簡単に考えられるだけでも二つの選択肢がある。それなのに何故、導師イオン、キムラスカ王位継承権第三位という、二名の高貴な者を連れてたった一人でそのままキムラスカを目指した? 第三師団壊滅を隠してまで」
「……ですから、和平交渉は密命でした。私としては、隠密に行動するしかない」
「杜撰な言い訳だな」
ピオニーはジェイドの言動を言い訳だと切り捨てた。
「タルタロスで行動したこと、導師イオンの姿を隠さなかったこと。これについては一時不問にしても、だ。――和平親書をアニス・タトリンに預けたことをどう釈明するつもりだ? あれには、マルクト皇帝の名と御璽が捺されている。本来ならば、誰の手にもわたることなく、和平使者が直接、その手で、キムラスカ国王に手渡すことが望ましいことは理解していたはずだ。中身を確認するために、キムラスカ国王の側近やお前の部下が確認することも想像には入れてあった。だが、なぜ、おまえの部下でもなく、キムラスカ国王の側近でもなく、和平に協力してくれた導師イオンや、ルーク殿でもなく、導師守護役に大切な和平親書を手渡すことができた?」
「それは、」
ジェイドは弁解できずに口を閉じた。導師イオンがどうにも頼りなく、彼に和平親書を預けておくよりも、しっかりとしていたアニスに手渡したほうが安心できた。だが、それを言うのなら、そもそもにして、何故、和平親書という大切なものを他人に預けるのだと責任を問われるだろう。
ジェイドはアニスに和平親書を手渡したわけではない。
和平仲介役の導師イオンに手渡し、導師イオンが和平親書の管理に不安があるからという理由でアニスに預けたのだ。
導師イオンに和平親書を預けたのは、己の手から手渡されるよりも、導師イオンの手から渡されたほうが形式的に良いと思ったからだ。
その言動が通用するとは、今のジェイドには思えなかった。
例えば、ピオニーならこう言うだろう。
形式にこだわるのなら、キムラスカ国王と謁見する場所で、導師イオンに手渡し、導師イオンを介してキムラスカ国王に手渡してもらえばよかったと。
そういうパフォーマンスをすべきであったと。
そうすれば、和平使者が和平親書をこれまで大切に所持していたことがキムラスカ王国に示せた。和平仲介役として同行したイオンの面子も潰さずに済んだ。
謁見の間で、アニスの手から導師イオンの手に和平親書が渡されたら。キムラスカ王国はジェイドたちの姿を眺めながら、マルクト帝国と導師イオンに対してどういう感想を抱いたのだろうか。
――間違いなく、信用することはできないだろう。
ジェイドは今頃自分が慢心していたことを自覚する。浅慮であった。軽率であった。と、認めた。同時に、何故それほどまで、アニスを信じたのだと自らの心に訊ねた。
「お前が和平親書を預けたアニス・タトリンは、大詠師モースのスパイだった」
――アニスを信じたことに、深い後悔の念を抱いた。
「……まさか、タルタロスが襲われたのは」
ジェイドは推測を口にしかけ、押さえる。こんな時になって、ようやく働き出した頭脳が打ちたてた推測に怖気が走った。否定してほしい想いでピオニーを見る。冷然とした面持ちの前に、心が折れそうになった。
「……本当に?」
「残念だ」
足元が崩れ落ちるような感覚がしたかと思えば、なんてことはない。ジェイドの膝はたしかに力を失って、片方の膝が地についていた。とほうもない絶望感に喉が震えた。嘘だと頭を両手で抱えた。蹲るような姿を見せるジェイドを、ピオニーは怒りを内抱した眼で見つめていた。膝を折るのは、まだ早い。そう言うかのように、現実感を突きつけるピオニーの声に容赦は存在しなかった。
「ジェイド、お前がアニス・タトリンにタルタロスの行路を教えた。お前がアニス・タトリンに和平親書を預けたから、大詠師モースは和平妨害を企んだ。お前がアニス・タトリンを信用し、盲(めくら)になっていたせいで、第三師団は壊滅させられたんだ。おまえの部下が死んだのは、直接的には神託の盾騎士団兵だとしても、殺害に至る動機を作り上げたのはおまえ自身だ」
ピオニーは告げる。
「……そう思えば、ルーク殿がラルゴに捕まったのもお前の責任なのかも知れんな。お前がアニス・タトリンにタルタロスの行路を教えなければ、タルタロス襲撃は行われず、ルーク殿が危険に晒されることもなく、お前自身もアンチフォンスロットで弱体化させられることはなかったのだから」
ジェイドは奥歯をぐっと噛み締めた。獣が鳴くような、唸り声をあげる。
「さて、ジェイド。お前の天才的な頭脳ならば、お前が置かれている現状をすでに理解できていると思うが。俺はお前に相応の罰をくださねばならない。わかるな?」
蹲ってる暇などない。ピオニーはそれを知らしめるために、ジェイドの体に軽く蹴りをいれた。こつんと足の爪先で小突くような蹴りだ。最初に入れた一発ほど、痛みはない。
「……はい」
ジェイドは緩慢な動きで、それでもしっかりと面をあげた。夜闇の中、ジェイドのワインレッドの双眸は不気味に映える。
「――お前はこれから、キムラスカ王国に向かい、その身を生涯レプリカ研究に費やせ」
その程度が罰になるのか。ジェイドはピオニーを凝視するが、ピオニーは自嘲するかのように口角をつりあげた。
「お前のしたことは決して、許されるものではない。王族の身を危険に晒し、あげくにこき使ったことも。アニス・タトリンというスパイを信用するあまりタルタロスを強奪され、部下を殺害させたことも。本来ならば、死刑に相当する罪だ。だがな、事情が変わった」
「事情、ですか」
「ああ、そうだ。ナタリアが偽姫であったため、王位継承権の資格なしと判断され、対処を誤ったキムラスカ国王に不信が募り、キムラスカ議会が王位継承権を取り戻した。王権制度は一時撤廃だそうだ」
「……なんですって?」
ジェイドは事の重大さにあまり実感が湧かず、聞き返した。
「キムラスカ王国は血統による王制を維持してきた。ナタリアを娘と認め、王女としての振る舞いを許したインゴベルト国王陛下はキムラスカ王国の従来の王権制度を否定している。元より、王権制度は貴族たちの理解があってこそ維持できるもの。王権制度を否定したインゴベルト陛下に、王位継承者の決定権は相応しくないと判断したそうだ。――これにより、ルーク殿とアッシュの価値が莫大に跳ね上がった」
「……ですが、ルークは、レプリカですよ?」
「だが、同時に、今では様々な功績を成した貴族だ。障気中和の功績を称え、滅多に授与されないランバルディア勲章と、個人としてキムラスカ貴族の位階を賜った。これはアッシュも同じだが。ルーク殿には、彼個人として大橋の建設に援助したという実績もある。何より、外殻大地効果のため、パッセージリングの操作という、彼とアッシュにしか成し遂げられないことを、ルーク殿が主動でやり遂げている。……もはや、ルーク殿が人間であるかどうかなど問題ではない。その身に流れる血はキムラスカ王族のものであることに変わりはなく、彼自身が成し遂げた功績の数々が、彼の身を助け、保証する」
「…………一時的とは言え、王権制度を撤廃するなら、ルーク達が王位を継ぐ必要などないのでは?」
「キムラスカ王国は創世歴時代から現存する、最古の国だ。長らく王権制度を重用し、そうして国を維持してきた。そんな国が、今さら王権制度を否定してどうなる? 誰が国を率いてくれるというんだ? よしんば、いたとしてもその後には誰もついてきちゃくれんだろう。インゴベルト陛下が失態を犯すまで、キムラスカ王族による治世は問題なく続いていたんだ。何千年もの間な。その実績を作り上げたキムラスカ王族を差し置いて、何の実績もない威勢だけのいい人間を誰が支持する。政治を担う貴族達は少なくとも支持しないだろうな。なら、貴族達がやることは決まっている。インゴベルト陛下を排除し、次代のキムラスカ王族に託す。……そうすることをキムラスカ貴族達は選んだんだよ。だから、王権制度を一時的に撤廃したんだ。王権制度があるうちは、王権制度で国王になったインゴベルト陛下を引き摺りおろすことはできない。いわば、王権制度の一時撤廃は、インゴベルト陛下を引き摺りおろすための一手なんだろう」
ピオニーは言葉を区切って、話を続けた。
「事実、キムラスカ議会は、ルーク殿もまたキムラスカ王族であることに変わりはなく、王位継承権も変わりないと告げた。王位継承権は一時的に撤廃されているが、それは表向きにしかならないのだろう。継承権の順位は決めかねているようだが、シュザンヌ殿が一位に繰り上がることは間違いなく、二位と三位をルーク殿とアッシュが独占することになるのは想像に難くない。暫定的にシュザンヌ殿がキムラスカ国王になるだろうが、将来的にルーク殿が国王、あるいはファブレ公爵になる可能性がある。ファブレはキムラスカ王族の親戚筋に当たる。もしキムラスカ王家が流行り病など何かしらの原因により滅亡したとき、王権制度と国を引き継ぐものとして、公爵家は必ず残さなければならない存在だ。国王になるにしろ、公爵になるにしろ、ルーク殿には保険のためにも生きていてもらわねばならない」
「つまり私は、ルークを生かすために、キムラスカ王国に出向く形になるのですか」
「そうだ。ルーク殿を生かすために、お前も生かされた」
ピオニーは言わないが、つまり、それは。
――ナタリアが偽姫だったから、ジェイドの命は救われたということだ。
もしナタリアが本物の王家の娘であったら。
ルークの価値はそこまで跳ね上がらず、ジェイドの命だとて露のように消えていたに違いない。
ジェイドは思案して黙り込む。ピオニーは厳しい声音で言った。
「余計なことは考えるなよ。お前はルーク殿を生かすことだけに集中しろ。そして、マルクト帝国の汚名を雪ぐことに心を砕け」
「――わかりました」
「わかったなら、もう良い。休め」
「はい。失礼致しました」
ジェイドは一礼して踵を翻す。ドアノブに手をかけて、ドアを閉める寸前。ピオニーの声がジェイドの背に向けられた。
「おそらく、これが俺とジェイドの今生の別れになるだろう。――達者で暮らせよ。……今まで、ありがとう」
パタン。ドアが閉じたあと、ジェイドはしばらくそこから動けなかった。目を一度瞑り、そうして、ゆっくりと歩き出す。たった一枚。ドアを隔てただけで、親友との道は別たれてしまった。きっと、もう二度と会うことはないのだろう。親友の言うとおり。
寂しい気持ちは無論あるが。意外と、心は重くなかった。これからのことを思うと、どうしたって心が沈むはずなのに。
(そうだな。ピオニー、お前の言うとおりだ)
自分の今後は決まっているが、自分の心を決める権利をなくしたつもりはない。この先、レプリカ研究に身を注いでも、どういう心でレプリカたちと向き合うのか考える必要があった。ルークを助けることをレプリカを生み出した己の義務と考えるか、彼を心の底から助けてやりたいと思うのか。さあ、どうする。決めるのは、ジェイドの心だ。
「……俺は、お前が死なずに済んで安堵したよ。きっと、ジェイドは俺の心情など考えちゃくれてないんだろうが」
ピオニーは遠ざかっていく親友の足音を、目を閉じて聞いていた。
静まり返った廊下で反響する足音。
しばらくすれば、とうとう聞こえなくなった。
夜の静寂が戻ってくる。
日常から消えたジェイドをしばらくは思い返すのだろう。皮肉と嫌味たっぷりの、だが、案外良いところもあったジェイドを。
「感傷など性に合わないな。……生きていてくれるだけでいいさ」
ピオニーは笑って、感傷を振り払った。
ジェイドは死んだわけではない。長い人生だ。いつか、元気な姿を見かける機会もあるだろう。ピオニーは少なくともそう信じていた。
心の中で親友にエールを送っていると、ドアをノックする音が聞こえた。ピオニーが待っていた、もう一人の人物だ。ジェイドと異なり、温情など与えてやれないだろうが。
「……来たか。入れ」
ドアを開け放って現れた人物は暢気な表情をしていた。しかし、その表情もすぐに改めることになるだろう。
ピオニーは海よりも深い紺青の双眸をガイに向ける。
鋭利な刃物を連想させる眼差しの前に、ガイが体を強張らせた。
ガイの変化を一つも見逃さないよう、猛禽類のような双眸を向けながら、ピオニーは口を開いた。
この後、ジェイドとピオニーは二度と再会することは無かった。
しかし、ピオニー・ウパラ・マルクトの治世において、キムラスカ王国とマルクト帝国の間に結ばれた和平条約は終ぞ破られることなく、平和な世が長らく続いたという。
その間に複数の貴族が没落したが、すべて歴史の闇に消えた。
prev next
back