キムラスカ・ランバルディア王国には、家格の差は多々あれど様々な貴族がいる。
オールドラント最古の現存する王国として、長い歴史を持つだけあって、殆どの貴族が何代も続く格式高い家だ。貴族と平民の間には天地のごとく深い溝が横たわり、それは一朝一夕で埋め切れるものではない。当然ながら貴族同士の結婚が望ましく、またその婚姻も、家のつながりや何らかの価値を見出してする政略結婚であるため、当人の私的感情はあまり考慮されないものである。そのため、かつて世界を救ったルーク・フォン・ファブレが結婚するときも、妻となる女性は当然ながら貴族であると民衆は信じて疑わず、事実その通りとなった。
ミリア・フォン・ショウブ。
社交界を賑わした、美貌の伯爵令嬢。数多の男貴族が惚れこみ、彼女の寵を競ったといわれる、令嬢。何人の男と関係を結んだのかわからず、一部のくちさがない者からは高級娼婦と呼ばれ、それでもなお美しい笑みを絶やさなかった令嬢だ。
ファブレ公爵家から持ち込まれた婚約話にショウブ伯爵家はすぐさま首を縦に振り、彼女を売り渡した。当然だ。ファブレ公爵家は王族の親戚筋である。ルークの妻となったミリアが男児を産めば、その子が王になる可能性も否定できない。女児を産んでも、その子が王妃になる可能性だってある。どちらにせよ、高位の王位継承権が与えられるのは考えるまでもなかった。この機会を逃すまいとショウブ伯爵家はすぐさま縁談を纏めた。
ミリアは利口な女性だった。すぐさま男遊びをやめ、結婚に備えた。様々な男に惜しまれ、結婚した彼女は自らの立場を自覚していた。旦那である、ルーク・フォン・ファブレも同様である。ルークの妻として振る舞い、社交界に現れると、仲睦まじい夫婦の様子を見せた。ミリアは早々に子供を産み、産まれた子供は幸い男児であったため跡取りの心配も早々に消え失せた。
ファブレ公爵家の実情を知らぬ者たちはいう。
あそこの若い夫婦は仲睦まじいと。
しかし。
ルーク・フォン・ファブレと、ミリア・フォン・ファブレの間に産まれた息子ルキウスの見解は世間と異なる。
「仮面夫婦ですよ」
ルキウスは自分の家族が異様であることを、物心つく頃には理解していた。
美しく優しい母と、人の感情の機微に悟い父。祖父母と自分。5人家族の中に、もう一人父と同年くらいの女性がいる。とは言え、家の主である祖父は、その女の存在をまったく認めていない。そのため、ファブレ公爵家の敷地内にひっそりと建てられた慎ましい――庶民の家宅の二回りは大きな家である――別宅に暮らしている。食卓に並ぶことを許さず、本邸への立ち入りを禁じられた女の名前はティア・グランツ。
世間一般でいうところの愛人という存在だった。
ルキウスは物語の中でしか知らないが、過去に世界を揺るがす大騒動が起きた。
その事件により、預言一色に染まっていた世界は預言からの離脱を決め、人々は自らの意思で生きることに決めた。言うのは簡単だが、政治経済における預言の依存度は尋常ではなく、数年の間、世界は激動の時代だったという。激動の発端となった大騒動の中、父はその中心人物となり、世界中を駆け回ってティアと苦楽を共にして、添い遂げようとしたらしい。
母とナタリア王女は賛成したが、祖父は断固反対の姿勢を取った。インゴベルト陛下が賛成すれば、いくら祖父が反対していても、父と愛人の結婚はまかり通っただろう。王の命令とあらば。しかし、陛下の支持は祖父に傾いた。父と愛人の結婚話は流れ、父と母の結婚話が持ち上がり、二人は結婚し、ルキウスが産まれた。
父と愛人は別れないまま、それから10年、今日に至る。
ヒステリックな声が聞こえて、ルキウスは足を止めた。
別邸のほうから聞こえた声は父の愛人のものだった。苛立ちを含んだ声は甲高く響き渡り、しんと静まり返る林にいるルキウスの耳にまで筒抜けだった。木陰に腰をおろし、読書に励んでいたのに、これではうるさくて本の内容が頭に入ってこない。不快も露にルキウスは顔を歪め、小さく溜息を吐いてセレニアの花で作られた押し花のしおりを挟むと本を閉じる。そうして別邸のほうに視線を向けると、開け放たれた窓が見えた。その先にいる人物の顔も。
ティア・グランツが柳眉をつりあげて怒鳴り声をあげていた。ティアの責め立てる声には熱がこもり、その声を向けられたメイドは肩を竦ませてじっと嵐が過ぎ去るのを待っている。
(また当り散らしているのか)
ティア・グランツは癇癪持ちのようにすぐに怒る。ふとした拍子にキレる彼女の怒りを買わぬよう、ティア付きのメイドは神経を配っているのだが、些細なことでもすぐに怒鳴り声をあげる彼女の怒りの沸点を見極めることは困難だった。何しろティアときたら、飲みたかった紅茶の種類が違うという理由でも怒るのだ。アールグレイを注文したくせに、いざアールグレイを持ってくると、ダージリンが飲みたかったのにという。そんな女の怒りを買わない方法などあるわけがない。ティア付きのメイドの顔は日毎暗くなりストレスを訴える者が多いため、定期的にメイドを入れ替えなければならない。困ったものだと、病弱なシュザンヌに変わり家を回している母は言ったことがある。
自分に向けられた怒鳴り声でなくても、他人が怒鳴られている姿を見るのは良い気分ではない。ルキウスは怒鳴るティアの真っ赤な顔を見ながら、首を傾げた。
(父上はあんな女のどこが良いんだ?)
不思議だった。たしかに美しい女だと思う。何故片目だけ隠すような髪型をしているのかわからないが、マロンペーストの長髪は天使の輪ができて、遠目から見ても美しい。女らしい身体つきに、たわわに実った大きな胸は見るからに柔らかそうだが、あまりにも大きくて引いてしまう。ティアは外見だけを見ると美しい女だ。だが、どうにも高圧的で、他人を見下すような物言いをする女であることをルキウスは知っていた。メイドや父に対してそのような姿を何度か見かけているから。
自分に対してはティアは優しいが、それはルキウスが父譲りの容姿をしているからに過ぎない。もしルキウスが母似であったら優しく接しないだろう。
(そもそも、父上は今もあの女を愛しているのか?)
ティア・グランツと父は恋仲だった。確かにそうなのかも知れない。だが、年月を経て、環境が変われば人の気持ちも変化するものだ。同じ気持ちを維持し続けることは、とても難しい。
(どんなに美しい花だとて、枯れれば捨ててしまう。そういうものだろう)
ティアの醜い姿をルキウスは何度となく見ている。父がルキウスと同じものを見ていないとは誰が断言できるだろうか。愛した女性が他の人間に対して高圧的で虐げるような真似をしたら、とてもではないが、ルキウスはそんな女を愛した自分を嫌悪するだろう。見る目がなかったと。
(あの女は、父上にとっては、押し花にするほどの価値がある花だとでも?)
まさか、とルキウスは失笑した。閉じた本を再び開くと、セレニアの花で作られた、押し花のしおりが地面に落ちた。親指と人差し指でしおりを拾い上げる。枯れないよう、美しさを維持し続けるために作られた押し花。それが、ルキウスの中で、ティア・グランツと重なった。
ファブレ公爵家という箱庭に閉じ込められたティア・グランツ。しおりの中の押し花は枯れずに美しさを保っているが、ティアは果たしてどうなのだろうか。
「ルキウス、何をしている」
「お爺様」
ざっと草を踏む足音が聞こえたと思いきや、祖父が現れた。家の中だからか、護衛の姿は見かけない。それでもいざ侵入者が現れれば懐に潜ませた武器で戦うのだろう、ルキウスと同様に。
「暇なので、次の講師が来るまで読書しています」
「そうか」
「言われないと何もできないなんて……あなたってまるでお人形さんね。いつかのルークみたい」
窓をすり抜けて聞こえた、呆れたような声と、他人を蔑む言葉。ルキウスは眉間の皺をさらに深め、祖父は侮蔑と憤りに満ちた声で呟いた。
「……またあの女は……」
ルキウスは祖父が不思議だった。ティアを蛇蝎の如く嫌っているのに、それでもなお、彼女を処分しない理由が。父に配慮しているのだろうか。
「ルキウスはアレをどう思う?」
「どう思う?」
「鸚鵡返しするな。わかっているだろう。ルークの次はお前だ」
「私ならばすぐに処分します。たとえ周りが何といおうとも」
ルキウスが返した言葉に祖父は小さく笑む。
「おまえはそれでいい」
2014/03/02
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