「……いってらっしゃい、ルーク」
「……ああ、じゃあ、行ってくるよ」

 ティアは微笑みながら、ルークの背を見送った。隣にいる、美しく着飾ったミリア夫人は決して視界に入れようとはせずに。扉の前で一列に並んでいたメイドたちは二人の姿が見えなくなると、ようやく面をあげる。メイドたちの前にいるティアに気を配ることなく、彼女達は一様に仕事に戻った。ぽつんと玄関に取り残されたティアに誰一人見向きもしない。まるで透明人間になったような気分だ――ティアは屈辱に下唇を噛むと、自らの居住区である別邸に戻ることにした。

 ファブレ公爵邸の広大な敷地の中には、本邸と別邸がある。本邸はクリムゾン、シュザンヌ、ルーク、ミリア、それに一部の信用が置ける使用人が住む。別邸は林の中に作られた、小さい邸である。個人が住むには十分な大きさだが、本邸と比較すると小さく、まるで家畜小屋のようだった。その別邸の住民はティア一人だ。本邸から別邸に戻ったティアは別邸の使用人――二人しかいない――にお辞儀と共に出迎え入れられたが、無言でその前を通り過ぎると、寝室にこもった。寝室には、ベッドと、本棚しかない。本棚の中には、童話と恋愛物語を中心に少女趣味な本が並んでいる。綺麗に整えられているベッドに潜り込み、布団をかぶったティアはぎゅっと目を瞑った。

(ルーク)

 自分一人しかいない、冷たいベッドの中で、本来ならば夫になっている人の名前を呼ぶ。ルーク・フォン・ファブレ。彼は今頃、公式上の妻であるミリアと共に夜会に出席している。その隣で、ルークの妻として挨拶しているミリアを想像するだけで、泣きたくなるほどの悔しさと苦しみにティアは襲われた。本当ならば、ルークの妻として、メシュティアリカ・フォン・ファブレとして挨拶しているはずだったのに。

 現実は、ミリアが妻であり、ティアは愛人でしかなかった。

(どうしてなの……? どうして私が愛人で、あの女が妻なの? 私とルークは深く愛し合っているのに。私が貴族じゃないから? そんな下らないことで……私こそがルークの妻なのに!)

 明かりもつけていない、暗闇の中。ベッドに縮こまりながら、そんなことを考える惨めさに涙がこぼれ出た。一人きりのベッドに耐え切れない。ルークの妻として名乗ることができない現状を恨めしく思い始めたのはいつだ。自分をルークの妻として認めてくれなかった、ファブレ公爵やインゴベルト国王を恨む。そうして、ティアが座れない妻という椅子に光栄にも座ったミリアを憎む。
 自分こそが、ルークの妻。愛されているのは自分。呪文のように心の中で繰り返してみても、安堵は一向に訪れてくれない。一人きりの夜はおのずと悲しみが溢れた。あの子が健やかに生まれていれば変わっただろうに――ティアは自らの腹にそっと手を置いた。この腹は、あの日以来、新しい命を育もうとしない。

(”ルキウス”)

 ルーク似の息子の顔を思い出して、ティアは唇を固く結んだ。ルークに瓜二つの息子をティアは我が子のように思っていた。あの子の生まれ変わりがルキウスだと、いつしか強く思うようになっていた。

 ――ティアは一度、ルークの子を妊娠して産んだ。その子は死産だった。ファブレ家の墓にはいれられなかったが、ひっそりと無名の墓に眠っている。遺体を見ることも叶わなかった。産後、ティアは我が子を一目見ることなく、容態を崩して長らくの間ベッドから起き上がれない状態が続いたのだ。意識不明の重体にまで陥ったという。その間に、ファブレ公爵によって死産した子供は埋葬されたのだ。

 ティアが健康な子供を産めなかったから、他の女の胎から生まれてきたのではないか――都合の良い思い込みだとわかっていながらも、そう思い込むことをやめられなかった。精神的に参っているのかも知れない。それも仕方ないことだろう。ルークの事実上の妻として収まりはしても、満足のいく生活とは程遠い。ストレスが溜まっているのだ。
 
 ティアはファブレ公爵邸から出られない。愛人が家にいるなど世間体が悪いからだ。それも、その愛人が、世界の危機を招いた悪名高いヴァン・グランツの妹だと知られればファブレ公爵家の名は地に落ちる。ファブレ家に入るとき、ティアは公爵に厳しい言葉を浴びせられた。その時いくつかの約束事をした。ファブレ家から出ないこと、ルークがティアを不要になった時に即刻ティアを追い出すこと、立場以上の振る舞いはしないこと――それらすべての要求を飲んでもなお、ルークの傍にいたかった。それがどれほど精神的苦痛を与えようとも。ティアがルークの家にいることは、一部の人間しか知らない。アニス、ナタリア、ガイ、ジェイドといった苦楽を共にしたかつての仲間のみである。ダアトには退職届を出して、テオドーロにはルークとの交際に否定的なことを言われたときに縁を切った。唯一の家族であった祖父を捨ててまで、ルークの傍を選んだティアは彼に固執せずにはいられない。

(……私、どんどん醜くなっていっているような気がするわ)

 ミリアを羨み、憎み、自分とルークの仲を認めてくれない者たちを呪う。こんな日が来るとは思いもしなかった。煌びやかなシャンデリアの下、ルークとミリアは談笑しているのだろう――想像は、また一つ、心にしこりを作った。


 その夜、ルークはティアの元に戻ってくることはなかった。




2014/03/02

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