すべてを終わらせたかった。
そのために不幸にしてやろうと思った。
費やした時間は十年。十年賭けて、不幸になるように、土台を整えた。
――と、言えば、曲解されることなく、自分の気持ちが伝わるだろうか。
*
世界滅亡を企んだヴァン・グランツの凶行を止め、英雄として名を広めた者たちは、ルークとティアを除いて転落した人生を送っていた。
キムラスカ王女は二十歳以上年上の伯爵の元へ降嫁し、ガイラルディアは政治から遠ざけられ名ばかりの貴族となり、ジェイドは軍を退職して研究者として国家に尽くし、アニスは内職ですこしでも生活費を稼ぐ日々。成功しているのは今やルークのみといってもいい。
聖女と呼ばれたティアはいつの間にか行方不明になっていた。
祖父テオドーロを尋ねた姿が目撃されたのを最後に、ティアの足取りは掴めない。噂では、恋仲であったルークの愛人としてファブレ公爵家に潜り込んだとされているが、真偽の程は定かではなかった。かつての仲間に話を聞いても、隈を拵えた顔で知らないと首を振るばかり。
いつしか人々の記憶から聖女ティアの存在は薄れていった。
元々ユリアと違って、ティアの存在は人々にとっては不透明なものだったのだ。ユリアの子孫であるが、ユリアほど世界的な偉業を成し遂げたわけでもなく、彼女の姿を目撃した者は聖女と聞かされてもピンと来ず、同姓同名だと誤解される有様。ティアの名前は世界に大々的に広まったが、彼女が世界を救った英雄と言われても、具体的に何の功績で英雄の一人として数えられたのか真に理解していなかった。
ダアトが教団のイメージアップにティアを利用して、ティアがユリアほどの力を持っている、世界滅亡を企んだ兄を止めようとした聖女だと謳っただけで、具体性が欠如していたのだ。
そのため、ティアの存在が人々の記憶から忘れ去られるのは驚くほど早かった。
聖女の名を冠したティアの行方よりも、世間は他の、より関心を引く刺激的なニュースに惹かれた。
ファブレ公爵家の敷地に構える、別邸で日々を過ごすティアは世間の流れから置いて行かれていることも知らず。
ましてや、人々の記憶から存在が消えていることも知らずに、未だ英雄としての影響力を持っているものだと思い込んでいた。
「父上! 母上が妊娠したって本当ですか!」
ルキウスは期待に染まった顔で父に尋ねた。
間髪入れずにルークから返された肯定に、ルキウスの口元が喜びに綻ぶ。
「おめでとうございます! 弟かな? 妹かな?」
「さあ、どちらだろうな」
「俺、弟がいいです。ああでも妹でも良いなあ。可愛いんだろうな。楽しみです」
「ああ、そうだな」
ルキウスが生まれてから10年以上の歳月が経過している。愛人ティア・グランツの存在を知るファブレの者たちは、もうミリアの子が望めないものだとばかり思っていたが、ここにきてミリアが妊娠したという。つまりは、ルークとミリアの間に性交渉があったということで。妊娠四ヶ月と聞いて、下世話な者たちは思わず妊娠時期を数え、先日の夜会だと当たりを付けた。
久しぶりの慶事にファブレ公爵家は喜びに湧き、眉間に皺が定着したクリムゾンの表情も柔らかい。明るい雰囲気が満ちる本邸とは違い、別邸では怒りと悲しみが渦巻く負の空気が漂っていた。
ミリア妊娠――ティアには知らされないように配慮されていたが、彼女に悪意を持つ者は別邸の使用人たちを初めにそこそこいた。ついうっかりという形を装って使用人の口から漏らされた言葉は、ティアの心を見事に抉った。
(いったいどういうことなの)
ティアは苛立たしげに下唇を噛んだ。窓辺に置いたイスに座り込み、窓の外を眺める。森林が広がり、その先にあるはずの本邸を睨んだ。正しくは本邸にいるはずの恋敵と、愛する人を睨みつけていた。
(ルーク……最低だわ)
ルークに裏切られたという思いでいっぱいだった。ファブレ公爵家の後継者であるルキウスが産まれた以上、ルークがミリアと性交渉を結ぶ必要はない。家のためとは言え、ルキウスが産まれる前にミリアを抱いていたことすら業腹だったのに、何故ルークはティアを裏切り他の女を抱いたのか。いくらなんでも今回ばかりは許せない。
(変わったと思ったのに、ちっとも変わってないじゃない。相変わらずルークは人の気持ちを考えもしない。アニスに言われたことを覚えてないの? 私を傷つけていることに思いもしないなんて……失望させないで。私はいつでもルークを見限ることができるのよ。そのことを忘れたというの?)
ルークを愛しているからこそ、裏切られた悲しみと怒りでティアの心が引き裂かれた。苦悶と憎悪が面に現れる。ティアは秘密裏に投与されていた薬の影響も相俟って、とてもではないが、この世のものとは思えない顔になっていた。
ティアはイスから猛然と立ち上がると、憤りが露になった荒々しい足取りで部屋を出る。廊下を突き進み、別邸を出ると、その足で本邸に向かった。ティアの形相を見た別邸の使用人は驚いた顔をしたあと、彼女の背を追いかけた。
本邸に向かったティアは勢いのまま、本邸に入りこもうとした。だが本邸の門前に控えていた門番により足を止められてしまった。
「そこを退きなさい」
「本邸への立ち入りは禁止されています」
「いいから退きなさい。ルークの怒りを買いたいの?」
「公爵様から貴方の立ち入りは禁止されています。このことはルーク様も承知しています。お引取りを」
「っいいから退きなさい! フェ レェ ズェ……」
「譜歌!?」
頑なに退こうとしない門番に怒りが膨れ上がったティアは武力行使に出ることにした。ユリアの譜歌を歌い、ナイトメアで眠らせようとする。――だが、門番には効かなかった。
(何故……っそういえば!)
十年前、ファブレ公爵家に転がりこんだとき、ティアは公爵に言われて、ファブレ公爵家全員に味方識別をしたのだ。ティアを蛇蝎のごとく嫌っていたファブレ公爵がティアの武力を奪い取らないわけがない。ティアに味方識別をさせて、凶器をそれとなく遠ざけていたのだ。今さらそのことに思い至ったティアはハッと顔色を変える。勤続16年の門番は剣を抜いた。ティアを切る気だ。
ティアはすっかりと鈍ってしまった体を動かして、どうにか別邸に引き返そうとするが、門番が切り掛かる方が先だった。
「きゃああ!」
ティアの背中に鋭い痛みが走る。思わずティアは地面に倒れこんだ。斜めに走った切り傷から鮮血が溢れ出して、苦痛に顔を歪ます。
「わ、私にこんなことをするなんて……っルークは貴方を罰するわ。かならず!」
「うるさい、公爵家に仇なす敵め。おとなしくしろ!」
門番は苦痛に呻くティアを思い遣ることなく、荒々しく両手を縛り上げる。そうして声をあげて、人を呼んだ。本邸を見回っていた白光騎士団がぞろぞろと現れて、門番に話を聞くと、皆一様にティアに厳しい目を向ける。このまま出血多量で死なれるのも面倒だと言わんばかりに、白光騎士団の一人がティアに近づき、仕方なく止血した。
酷い。なんで自分がこんな目に合わなくてはならない。ただ通すように言っただけなのに。美しい背中に蚯蚓のような傷が残ってしまうじゃないか――痛みと怒りと悲しみで綯い交ぜになった感情がティアの双眸を潤ませる。誰も同情を差し伸べることなく、白光騎士団の誰かが公爵とルークを呼んだらしく、二人が現れた。公爵はルークを背に従えて、ルークの背後に白光騎士団が並んだ。
「いったい何事だ?」
「この者が譜歌を使って侵入しようとしました」
「……またか」
門番が応えると、公爵は厳しい顔をした。
「違うわ! 私はただルークに逢おうとして……通してくれないから!」
「不審人物を通さぬよう門番は仕事したまでだ」
「っ……!」
公爵はぴしゃりとティアの言い分を切り捨てると門番を労った。
「よくやった。臨時手当てを出しておく」
「ありがとうございます!」
公爵の言葉に門番は礼を言う。そのやり取りはティアを惨めな気持ちにさせた。ルークの妻である自分を切り付けた男を褒めて、臨時手当を与えるなど、いくら嫌っているからって酷すぎるだろう――いつまで経っても自分を認めてくれない公爵を恨む。
(酷いわ。いくら私が気に入らないからって……! けど、もうそれも終わりよ)
自分を愛しているルークがこんなことを許すはずがない。ティアを切り付けた門番を庇ったことで公爵も、ルークの怒りを買ったはずだ。シュザンヌもナタリアも自分の味方をしてくれるはずだ。ティアはルークに縋りつくような目を向けた。そうすれば、ルークは可哀想に、なんて酷いことをするんだと、心配と門番への怒りに満ちた顔で駆け寄ってくれるものだとばかり思っていた。
ルークと視線がかち合う。
ゾッと背筋が凍りついた。
(ルーク?)
薄い翡翠色の双眸が無感動にティアを見下ろしていた。
ティアが想像するどの表情もルークは浮かべていなかった。愛する人が切り付けられたというのに、ルークが浮かべる表情は無だ。心配も、悲しみも、怒りも浮かべず、地面に倒れ伏しているティアを無感動に見下ろしている。路傍に転がる小石を見るような視線だった。
(どうして)
公爵は背後にいるルークがどれほど冷たい表情をしているのか気付いていない。ルークの背にいる、白光騎士団たちも同様だ。ただ一人、ルークの視線の先にいるティアだけが彼の表情に気付いた。
「一度ならず二度までも公爵家を害するとは。これ以上貴様を此処に置いておくわけにはいかない。ルーク、いいな」
ルークの表情を凝視していたティアは公爵が告げた言葉に驚愕する。この程度のことで追い出そうとするなんて、信じられなかった。本邸への立ち入りはたしかに禁止されていた。だが、同じ敷地内で暮らしているのだ。許してくれてもいいだろう。大体譜歌を使用したと言っても効果を発揮しなかったのだから、危害を加えたわけではない。弁明すべく口を開いた。冷えたルークの表情は気にかかったが、当然のように彼が庇ってくれると思った。その思い込みは容易く否定される。
「はい」
ルークは頷いた。公爵は目を瞠り、満足そうに口元を綻ばせた。
「ルーク! どうしてっ……あなた変わるんじゃなかったの!? 公爵の言いなりになるなんて! お人形はやめたんじゃなかったの!?」
「息子を侮辱するな。寄生虫が」
「きせ……なんですって!?」
「今の貴様は寄生虫そのものだ。ルークに、我が家に寄生して、何の不安もなく生活する」
「私はルークの妻よ!! そうでしょう、ルーク!」
「妄言も大概にしろ。息子の妻はミリアただ一人。貴様など、かつて息子と苦楽を共にした旅の仲間の誼で、此処に置いていただけだ。その縁に縋って十年もルークに寄生するとは厚かましいにも程がある」
寄生虫呼ばわりされてティアの頭は沸騰した。冷静さを欠いた頭では公爵の話を受け止められない。
公爵はティアがルークの愛人である事実を否定して、彼女の存在をただの仲間に貶めた。仲間だった頃の縁に縋り、十年間も公爵家に寄生したとして、愛人の事実を捻じ曲げたのだ。
この瞬間、観客と化していた白光騎士団たちは、ティアのことを、ルークの妻気取りだった厚かましい勘違い女に認識を改めた。
元々ルークを愛していると口にしながら、彼を貶める言葉を日常のように使うティアに対して良い印象を抱いている者などおらず、その認識は、さも当然のように彼らの中に馴染んだ。
「……ルーク、何か言いたいことがあるか?」
「いえ。ありません」
「ルーク! あなたは私を捨てるの!? 浮気しただけじゃなく、私の方を捨てるなんて最低よ……っ! 私はいつでもあなたを見限ることができるのに、それを忘れたというの!?」
ティアが悲痛な声で訴えるたびに、鼻白む視線が増えてゆく。自らの悲劇を主張するが、彼女が口にする言葉は、神経を疑うような言葉ばかりだ。
ルークは溜息を落とすと、ティアに近寄り、彼女の傍らに跪いた。方膝を地面につけて、彼女の顔を覗き込む。
ティアの顔が期待に明るく染まった。
口を開いたルークが、そっと言葉を落とす。
「俺はとっくの昔にお前のことを見限っていたよ」
ティアの思考が白く染まる。
「お前は俺のことを誰かの言うことを聞くお人形だと言った。そのとおりだ。俺は今まで人形だった。でも、それも今日限りだ。十年間賭けて、ようやくこの日が訪れた。やっと終わる」
嬉しいよ、とルークは呟いた。
小声で吐き出されたルークの言葉は公爵たちには届かなかったのだろう。何を話しているのだと、訝しげな視線を向けている。ルークはそれだけいうと、あっさりと立ち上がり、ティアの傍から離れた。
「何を話していたんだ」
「ミリアのお腹の子に障るといけないから、あんまり声をあげないで欲しいと」
「……そうか」
ルークは平然と嘘を吐く。その姿を見たティアは悟ってしまった。
愛しているとルークがティアに返した言葉はすべて偽りだったのだと。
(ああ、そういえば――ルークは、自分から私を愛してくれると言ってくれたことはなかった……)
いつも、ティアが愛していると先に口にしていた。返って来た言葉にティアは満足していたが、なんてことはない。ただルークは鏡のように愛の言葉を反射しただけだ。それに気付かず、十年間、ずっとティアは馬鹿のようにルークから愛されていると信じていたのだ。
(酷い……)
自分がいったいルークに何をしたというのか。ティアはルークを恨む。悲しみと怒りと、憎悪に身が千切れそうなほどの苦しみを覚えた。アイスブルーの双眸から大粒の涙がはらはらとこぼれ落ちる。
「貴様のためにこれ以上手を煩わせたくない。即刻出て行け」
公爵は冷たく告げると、白光騎士団たちに命令して、ティアを家の敷地内から追い出そうとする。両腕を掴まれ、罪人のように引き摺られて、ティアは公爵家から放り出された。
(ぜったいに、ゆるさない)
私をこんな目に合わせた奴ら全員に、復讐を。その思いだけで、ティアは立ち上がり、屈辱と怒りに塗れながら公爵家の前から歩き出した。十年間、世間に触れていなかったティアはまだ自分には復讐を遂げる力があると信じていたのだ。厳しい現実に直面するまで。惨めな思いでファブレ公爵家から離れて行くティアの背に声がかかる。
「ティア様!」
振り返ると、別邸の使用人――メイドが心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「あ、あなた……」
その使用人は、ティアが殊更厳しく当たっていたメイドだった。十六、七歳ほどの若々しい美貌を保つ少女でその若さに羨望して、いつルークが奪われるのか気が気ではなくて厳しく当たった。彼女はただ仕事をこなしていただけなのに、言われないと何もできない人形呼ばわりしたり、侮蔑の言葉を投げた。ファブレ公爵家を追い出されたことで、今までのしっぺ返しをしようというのか――警戒心を剥き出しにするティアをメイドは労わった。
「私ティア様が心配で追いかけてきたんですが……大丈夫ですか?」
「え? え、ええ……大丈夫よ。ありがとう……」
思いがけない言葉をかけられて動揺する。普段のティアならば、同情するなと突っぱねただろう。だが、愛する人に裏切られたばかりの今のティアにはそれはできない。精神的に弱っていることもあり、人の厚意がたまらなく嬉しかった。メイドはティアの心を慰めるように気遣ってくれた。
「そのお怪我……」
「これは……本邸に入ろうとしたら門番に切られて……」
「まあ、なんていうこと! なんて痛々しい……よければ私の家に来ませんか? そのお怪我が治るまで」
「ありがとう。でも悪いわ」
「遠慮しないでください。そうだ、悪いというのでしたら、家の滞在と交換条件として、私の姉の一人に譜歌の歌い方を教えてくださいませんか? よく音程が外れるらしく、前々から一度でいいからティア様のご指導を賜りたいと言っておりまして」
「……そう。それじゃあ、あなたの家にすこしお世話になっても良いかしら。もちろん、お世話になる分、働かせてもらうわ」
音律士としての自尊心を擽るメイドの言葉にティアは警戒心を解いた。ルークたちに対する復讐心が萎えたわけではないが、自分を気遣ってくれるメイドにわずかながら心が穏やかになる。メイドに案内されるままティアは彼女の背を追いかけた。
――メイドは澱んだ目で小さく笑んだ。
*
遠くの方で歌が聞こえる。――と思った瞬間、ティアは抗い難い睡魔に襲われて目を閉じた。全身から力が抜けて、座っていることすら困難になり、頭から倒れ込む。その先にあるものは、ローテーブル、そして熱々の紅茶が入ったティーカップだった。
ティーカップを巻き込む形で倒れてしまったティアは顔面に焼けつくような痛みを覚えたが、苦痛の声すら漏らすことができず、さらにローテーブルのつるりとした表面に頭をぶつけた。ティーカップはティアの重みを受け止めれず割れてしまい、破片がティアの顔をずたずたに切り裂いた。傷口から熱湯が入り込んでまるで拷問を受けるような痛みだった。
悲鳴をあげたいのに、睡魔に襲われた体はティアのいうことを聞いてくれなかった。ティアはは口を開けることすらままならず、ただ痛みを堪えるしかない。
「……起きてるかしら」
「意識はあるはずだわ。……あのときの姉さんと同じように」
歌が止む。二人の女性の声がした。凍てつく冬のように冷たい声だった。一人は見知らぬ女性の声、そしてもう一人はティアをこの家まで連れてきたメイドの声だった。先程まで談笑していたのに、そのときに感じた温かみを取り払って、メイドは冷たい声で話していた。
「姉さんの仇、取らせてもらうわよ。起きなさい」
メイドはティアの前髪を掴み、面を上げさせる。ティアは眠気で落ちそうな瞼を何とか持ち上げて、メイドを見た。メイドはティアの顔を見て、にやぁと憎悪を剥き出しにして笑った。
「あら、無様ね。あなたのご自慢の美貌は見る影もないわよ。これじゃあどんな男性だってあなたを醜女と言うでしょう」
「……んで、」
「なんで? そうね。このまま悲劇のヒロイン気取りされるのも気分が悪いから、理由を説明してあげましょう。あなたに話しても理解できるとは思わないけれど。……ああ、でもすこしは理解できるようになったかも知れないわね?」
メイドは無邪気に笑う。子供のようなあどけない笑みと共に向けられた悪意は、ティアの心を呆気なく挫かせる。恐怖が全身を満たした。ごくりと唾を飲めば、メイドは勿体ぶったような話し方でしゃべった。
「十年前。私の一番上の姉さんは、とても美しい人だった。婚約者も決まっていて、ファブレ公爵家のメイドとして使えていたの。今の私と同じようにね。姉さんと私は十歳年が離れていて、早くに病気で母を亡くした私にとって、一番上の姉さんは母代わりの存在だった。――あなたがファブレ公爵家を襲うまではね」
メイドはティアの前髪を強く握った。頭皮を引っ張られる感覚に苦痛の顔を見せると、メイドはその顔に唾を吐いた。ショックで呆然としているティアを無視して、メイドは話を続ける。
「姉さんはその時、旦那様たちにお茶のお代わりを運んでいる最中だった。姉さんは廊下を歩いている最中に譜歌で昏倒させられて、今のあなたのようにティーポットや食器を巻き込んで倒れたわ。全身、切り傷と大火傷に見舞われた姉さんは、その後しばらく治療を受けることができず、苦しんだまま息絶えたわ。譜歌のせいで皆すぐにはまともに動けなかった。動けるようになってから、お邸の皆がしたことは、公爵様たちの安全の確認よ。奥様はあなたの譜歌のせいで体調を崩してしまい、医者は私の姉よりも奥様を優先させた。当然よね。だって、シュザンヌ様はファブレ公爵様の奥様で、王妹ですもの。だから、奥様たちは恨んでいない。――けれど。あなただけは許せない。あなたがファブレ公爵家を襲撃しなければ、姉さんは今も健康でいてくれて、愛する人と幸せになっていたかも知れないのに」
メイドは今にも泣きそうな顔をすると、ティアの前髪から手を離した。いきなり離されたせいで、ティアは顔面を床に打ち付けてしまう。倒れ込むティアにもう一人の女性が近付いた。その手には、まだ熱い紅茶が入ったティーカップが握られていた。
「……私たちは、姉さんを間接的に死に追いやった貴方を許さないわ。だから、そのために復讐の力を蓄えた。あなたが姉さんにしたことを、味合わせてやろうと思ったのよ。私は譜歌を覚え、妹は貴方に近付いた。助かったわ。ルーク様が妹を貴方付きにしてくれて。そのおかげで妹は貴方への復讐心を鈍らせることなく今日まで過ごせた。こうして貴方がファブレを追い出されたのは予想外だったけど、ローレライの思し召しかしら。こうも私たちに都合良くいくなんて」
女性はティーカップを傾ける。熱湯が、ティアの全身に降り注いだ。
「っっっ!!!!!!!」
声なき悲鳴をあげる。全身が赤く色付き、苦悶に喘ぐ。
「私の譜歌はどうだったかしら。無理やり眠らされた恐怖、あなたも理解した? それでもまだ姉さんの痛みには届かないのでしょうね。だって、あなたが使った譜歌は、私達が使う譜歌よりも効果が高いユリアの譜歌だもの。眠らせるだけで、人の命を奪うことができるんですってね。姉さんはさぞかし怖かったでしょうね……」
そういうと、女性はティーポットを持って再び傾ける。ティアの全身に熱湯が降り注いだ。全身を襲う熱い痛みと、睡魔にティアの頭の中はぐちゃぐちゃだった。苦痛の声もあげることができず、ふーっと獣のような荒い息を繰り返すことしかできない。
「ああ、安心して。殺す気はないわ。ここで貴方を殺して、人殺しの汚名をかぶる気も、貴方を楽にしてやる気もないから。もっと貴方の不幸を見たいもの。それに、」
こんな目に合わせるなんて、訴えてやる。――ティアの思考を見透かしたように、女性は口端を持ち上げて笑った。
「今の貴方に何ができるのか、興味があるの。貴方が権力で私たちを潰そうにも、貴方のために権力を使ってくれる人なんてもう誰もいないから。最後の頼みの綱だったルーク様に不興を買ってしまったものね」
「実力行使で来るなら来なさい。今度こそ貴方を牢屋に送ってやるわ」
メイドは情けと言わんばかりにティアの口の中にアップルグミを押し込んだ。飲み込む力もないティアを笑いながら、メイドはティアの足首を掴んで家の裏口まで引き摺ってゆく。
「貴方の不幸を私たちは遠くから見守っているわ」
「せいぜい、不幸になってちょうだいね」
ゴミのように投げられる。ティアはしばらくその場で蹲り、痛みに呻いていた。誰かが助けの手を差し伸べてくれるかと思ったが、そんなことはなくて。メイドの家の家人と思しき者たちは不快そうな顔でティアを一瞥して去ってゆく。誰もティアを助けてくれなかった。このまま此処にいれば死を待つばかりだと気付いて、何とか立ち上がり、歩き出した。
ふらふらとバチカルの城下町に下りる。ティアの様子に気付いた住民が医者を慌てて呼びに行き、大丈夫かと善意の声がかかる。そこでようやくティアは意識を失うことができた。
「ティアさん、お怪我の様子はどうだい?」
「あ……先生」
客室のベッドから、ティアは窓の外を眺めていた。こんこんとドアをノックする音に反応して、ドアに視線を向けると、初老の男性医師が現れた。男性医師はティアの容態を気遣ってくれた。
――ルークの家を追い出されて、メイドたちに酷い目に合わされてから、二週間も経過していた。
バチカルの城下町で気絶したティアはその後宿に運ばれ、医者に診てもらったらしい。全身大火傷の上、顔中に傷を覆ったティアの惨状を見て、街の人たちは皆優しかった。行く当てもお金も持たないティアを初老の医者は置いてくれている。お金のことで遠慮するティアに対して、医者は働けるようになったら返してくれればいいから、と言ってくれたので、申し訳ないと思いながら甘えていた。
「すこしは良くなったようだね」
「はい。まだ、痛みますが……」
「当分痛みは治まらないだろう。ゆっくり治せばいいさ。はい、これ。家内が持って行けとうるさくてね」
「あ、ありがとうございます」
医者は、一口サイズに切られた林檎が乗った皿を差し出した。
「安かったようでたくさん買ってしまったらしい。アッシュ殿下に子供が産まれたから、祝賀ムードで物が大安売りさ。特に必要ないものまで買ってしまって困るよ。殿下の子供が産まれたのはめでたいことだが」
「アッシュ……そう、ナタリアがアッシュの子供を……」
ナタリアはアッシュとの初恋を実らせていたのか。二人から結婚式の招待状が届かなかったことが気になるが、届いたところで、ティアはファブレ公爵家から出ることはできなかっただろう。十年間、ルークなんかに騙されて、時間を無駄にしたことが非常に悔やまれた。親友のお祝いをしたかった、と心の中でぼやく。ティアの発言に医者は目を丸くした。
「ナタリア? ナタリア殿下とアッシュ殿下はご姉弟だろう。血の繋がりはないが……。ナタリア殿下はさる伯爵の元に嫁いで、子供を産んで、幸せに暮らしていると聞くよ」
「え!? ま、ってください! それならアッシュは、」
「アッシュ殿下なら侯爵家の娘とご結婚されたようだよ。……ティアさんはずいぶんと世間に疎いんだな」
「……すいません。ここ数年、家にいたもので……」
「そうか。なら、仕方ないのかも知れないね。気になることがあるのなら、私が知っていることなら答えられるよ」
「ありがとうございます。それじゃあ、あの、先の英雄……ルークを除いて、アニスたちがどうなったのかご存知ですか?」
「ああ、英雄――……」
アニス・タトリンは、大詠師モースのスパイだった事実が判明して、英雄から一転、犯罪者になった。査問会が開かれて、事情が考慮されて逮捕されることは辛うじてなかったが、針の筵の中で生活を送っている。内職をやっていて、外には一歩も出ない生活を送っていると聞く。
ジェイド・カーティスは、ジェイド・バルフォアに名を改めた。タルタロス襲撃の事実が判明して、大佐の任を解かれた。教団と懇意にしていた容疑がかかったが、確証はないため不問になった。現在は研究者としてレプリカ研究をしており、その研究に骨を埋める覚悟らしい。
ナタリア・ルツ・キムラスカ=ランバルディア王女は偽姫騒動の件もあり降嫁した。伯爵の元で二人の子供を産んで幸せに暮らしている。
ガイラルディア・ガラン・ガルディオスは皇帝陛下の不興を買い、朝廷から遠ざけられたらしい。領地も持っていないから日々の生活に困る有様で、庶民のように働いて生活していると聞いたよ。
ティア・グランツ。そういえばティアさんは彼女と同名だねえ。ユリアの子孫で聖女らしいけど、彼女の噂はさっぱり聞かなくなってしまったな。随分前に結婚したらしいが、詳しいことはわからないよ。
――伝え聞く仲間の現状にティアは衝撃を覚えた。十年間、ファブレ公爵家で軟禁されている間に仲間の生活がこれほどまでに変わり果てていたなんて。しかも自分が結婚しているなんて、いったいどういうことだ。ティアは混乱したものの、自分が英雄のティアであることを示そうとした。が、遠くから「先生!」と患者が呼ぶ声に引かれて、医者は話を切り上げてしまった。
「おっと、患者が呼んでるから私はもう行くよ。ティアさんは安静に」
「は、はい……」
医者が部屋から出て行く。ティアは途方に暮れた。
怪我が治ったら、仲間の元を尋ねようと思っていた。ルークに酷い目に合わされたティアを仲間はきっと慰めてくれるだろう。そしてティアに親身になって、ルークを叱ってくれるはずだ。そうしてティアは元通り、ルークを導くお姉さんのように生きるつもりだった。
ルークが自分を憎んでいたなんて、きっと何かの誤解だ。自分達はすれ違っただけだと、そう思っていた。ルークとティアの仲を応援してくれた仲間たちなら、その誤解を解いてくれる。彼女達を頼る気だった。
(どうしよう……)
ティアは仲間たちが辛い目に遭っていることも知らず、十年間とりあえずは平穏に暮らしていた。満足のいく生活を送れていたわけではないが、仲間たちに比べたら、ずっと良い生活をしていただろう。仲間たちが辛い時に力になることもできず、自分が辛い時にだけ助けてくれなんて、いくらなんでも虫が良すぎる。
(……とりあえず、お爺様の元へ帰ろうかしら)
祖父の元へ帰り、そこでゆっくりと復讐計画を練ろう。メイドたちには復讐して、ルークの心を取り戻して――。祖父の引き止める声を無視して、家を出たのは自分なのに、この期に及んでもティアはまだ都合良く祖父が自分を迎え入れてくれるものだと思っていた。今のティアはまだ誰かが助けてくれると信じていたのだ。
――十年を賭けてルークが整えた不幸が始まることを知らずに。
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