ミリアによって、バチカル城に連れ戻されたナタリアは自室に引きこもっていた。レースの天蓋付きのベッドの中で、枕をさめざめと涙で濡らす。静寂に満ちた部屋に、ナタリアの嗚咽交じりの泣き声が落ちる。

(なぜ、どうしてですの)

何故、どうして。そんな言葉ばかりが、ナタリアの脳内をぐるぐると駆け巡る。

(どうして、わたくしが王族の血を引いていないだけで!)

アッシュとの婚約を破棄されなければいけないのだろう。ナタリアは納得がいかなかった。
三年間、ナタリアはアッシュの事を待っていた。その間、インゴベルトよりいくつか縁談が持ち込まれたが――いつ帰還するか分からない婚約者を待ち続けることは、王女として許されなかった――それらを引き伸ばしてもらっていた。せめて、ルークの成人式が終わるまでは、と。帰還するのが、恋情を捧げたアッシュなのか、幼馴染として愛したルークなのか分からないが、待っていたのだ。一縷の希望に託して。
二人のルークが帰還した時、ナタリアは神に感謝した。愛する人と、大切な幼馴染を帰してくれて、ありがとうと。ナタリアはその時、これから先、アッシュと共に歩いていく長い人生を確かに夢想した。
その夢想は、叶えられるはずだった。――ナタリアが王族の血さえ、引いていれば。

(どうして、王族の血が何だと言うのです! わたくしは民に認められた王女! お父様だとて、わたくしを娘と認めてくださったではありませんか! それなのに…何故!)

疲労が滲んだ顔で会議室を出てきたインゴベルト国王は、ナタリアに告げた。
ルークの婚約者はミリアに決まった。時間がかかったが、アッシュの婚約者も決まった。次はナタリアの婚約者を決めねばならないな――と。

次期キムラスカ国王がルークになることは、ナタリアも薄っすらと理解していた。世界を救済し、諸外国の首脳陣に顔が利くルークは、国民の人気が高い。そんなルークを差し置いて、アッシュや、ましてナタリアが玉座を継ぐことは無いとさすがに理解していた。アッシュの功績はルークに劣る、ナタリアが王に立つにはその血が邪魔をする。ナタリアの妹のミリアは、国民人気は高いが、王に立つには頼りない。
ナタリアは自分やアッシュが王位を継げないのは残念だが、それでも良いと思っていた。かつてのルークは我儘な人間であったが、今のルークは優しく、人のことをちゃんと思いやれる人間だ。まだまだ未熟なところがあるルークを、アッシュと二人で支えて、国を繁栄させていこうと思っていた。ナタリアの中では、ルークが国王になり彼の隣にはティアが座り、公爵となるアッシュの隣に自分が座り、妹のミリアはピオニー陛下の妻になるという素晴らしいビジョンを描いていたのだ。
ルークはティアのことを想っているし、彼女は英雄の一人。少々ティアの身分は国王となるルークには不釣合いではあるが、ティアとルークを結婚させることはそれほど困難ではないだろう。ダアトからの後ろ盾も期待できる。ミリアをピオニー陛下に嫁がせれば、マルクトとの恒久的な和平にもなる。
ナタリアが思い描いたビジョンはとても素晴らしく、実現すれば世界平和に繋がると彼女は確信していた。
自身の血筋のことがアッシュとの結婚の障害になっても、そのビジョンを話せば、父や他の貴族から理解を得ることも難しくないはず。ナタリアはそう思って、自身の味方になってくれる父を始めにいろんな貴族の理解を得ようとしていた。その努力は実を結ばず、ナタリアの思い描いているビジョンとはまったく違う方向へ、事態は進んでいた。

(アッシュ以外の婚約者などわたくしにはいりません! アッシュがいるのに、どうして他の男性と結婚せねばならないのです!?)

アッシュはナタリアの気持ちを一ミリたりとも気遣わず、国王の決定に諾と従った。国王の決定に従うことが正しいことは理解しているが、納得は出来なかった。
どんなに、悲しくとも、悔しくとも、納得出来なくとも。ナタリアには何も出来ない。国王の決定を覆すことなど、王女に出来るはずも無い――そこまで思考を巡らせたナタリアだったが、それはまるで神に導かれるようにして、唐突に、天啓がひらめいた。

(――いえ!)

ルークが国王になれば。
インゴベルトの決定を、ルークなら覆す事が出来る。ルークが国王の座に着くまで、まだ時間はある。

(…いざとなれば、お父様を…)

恐ろしい考えがナタリアの脳裏を埋め尽くす。
しかし、彼女は自身の思考に疑問は抱かなかった。
父を暗殺するような事態は回避したいと言う思いはあれど、ナタリアにとってはインゴベルトの存在よりも、幼き日に大切な約束を交わしたアッシュの方が比重が傾いている。父が、自身の恋愛を成就させる障害になるなら、その前に排除すべきだと言う考えがあった。

(ルークが国王になる前に、アッシュがわたくし以外と結婚することがあるのなら、わたくしはお父様を…)

あくまでも、それは最終手段だとナタリアは心に決める。ナタリアが今やるべきことは、次期国王となるルークに恩を売っておくことだ。その恩は、ルークが国王になったとき、アッシュと自身の結婚で返してもらう。

ナタリアの代りに、アッシュの婚約者に選出された女性は全員排除する。排除させる手立てに幸いとナタリアは困る事は無かった。毒殺したり、没落させたり、相手の女性にアッシュ以外に男がいる事にしてしまえば良い。公爵家ともなれば、相手の女性に黒い噂や悪い噂があれば婚約を取り止める事もある。アッシュの婚約者に不幸が度重なれば、いくらアッシュが若手の男貴族として有望株だとしても、彼と結婚したいと思う貴族は居なくなるはず。
そうしてアッシュが独りになった時、自分がルークの後ろ盾を得て、彼の結婚相手として名乗り出れば反対する者もいないだろう。

そのために、ナタリアがやるべきことはまず一つ。
ルークに恩を売ること。
ルークの恋を成就させること。

「…泣いてる暇なんかありませんわ」

枕から顔を上げて、上体を起こす。ベッドから降りたナタリアは、愛する男との恋愛を何としてでも成就させるべく、ドレッサーに近づいた。綺麗に磨き抜かれた鏡の中のナタリアの目は充血して、涙の跡が濃く残っている。
こんな顔では、これから先の長い戦いに挑めない。周囲に泣いたことを知らせぬよう、ナタリアは化粧を丁寧に直す。そうして、部屋を後にした。
毅然と背筋を伸ばしたナタリアが向かう先は、――ダアトだった。




・・・・・・・・・・




ダアト――大聖堂。一角に備えた譜業オルガンの奏者が指を動かすたび、大聖堂に音が反響した。
オルガンの音に合わせて、ひとつの歌声が響き渡る。大聖堂の一番奥、ステンドグラスを背景に、白地に緑の紋様が入ったワンピースを身に纏うティアは清らかな歌声を響かせていた。ユリアの譜歌にこめられた意味を、あたかも再現するかのように、時折彼女の手が動く。その手を視線で追いながら、長イスに腰掛けた信者たちは一様に、聖女ユリアとティアの姿を重ねていた。

「レィレィ…」

ティアの歌声が、ユリアの譜歌の最後を締めくくる。オルガンの音も、終わった。オルガンと歌声のすばらしい協奏の余韻に酔いしれていた信者たちは、ハッと我を取り戻すと、大きく拍手をした。うるさいくらいに響いた拍手の音は大聖堂の外まで響き渡り、ダアトに訪れたばかりの信者を驚かせる。拍手を浴びてティアは口元にやわらかな笑みを浮かべて一礼する。
信者たちの反応は、今回のコンサートの成功を告げていた。
信者たちをぐるりと一巡した詠師は客たちの興奮が鎮まるのを待って、口を開いた。

「これにて、今日のユリアの大譜歌コンサートは終わりです。次回は七日後に行います。本日はコンサートに参席してくださり誠にありがとうございました」

コンサートが終了すると、信者たちは残念そうな顔をしたが、次々と帰って行った。大聖堂の大きなドアが閉まると、他の出入り口から教団員が続々と入り、大聖堂の掃除が始まった。

「今日のコンサートも良かったよ。また七日後頼む」
「はい」

詠師の言葉に、ティアは一、二もなく頷いた。


帰って良いといわれたので、ティアはワンピースの裾を翻しながら神託の盾騎士団本部へ戻る。ティアの私室は、今や導師の私室の近くにあった。
ティアの現在の階級は律師。導師、大詠師、詠師に続いて高位の階級であった。三年前、世界を救済したときの功績が高く評価されて、響長から、律師に位があがったのだ。聖女の位もあるため、律師の中ではティアが一番偉いことになる。

預言離脱の方向で世界が纏まって、早三年。
地に墜ちた名誉を挽回するために、先の騒動で英雄として名が知られたティアを聖女ユリアの再来として、ローレライ教団はティアを祀りだした。このまま順調に行けば、ティアは導師か大詠師になるだろう。

長い廊下を歩いて私室にたどり着く。ロックを解除して、ティアは部屋の中に入った。一人用の私室で、それなりに広い。
ベッドとクロゼットに机、テーブルセットといった最低限必要な家具が主を出迎える。それと、部屋の主が女性であることを配慮して、ドレッサーも置かれていた。ドレッサーの上には化粧品が入ったポーチがある。ポーチに入りきれなかったグロスがぽつんと置かれているのは、ご愛嬌と言ったところか。

「ふう…」

溜息を吐いて、ティアは窮屈なワンピースを脱ぎ始める。このワンピースはティア好みの可愛らしい形で、柄も好みなのだが、如何せん細身で胸のところが若干窮屈だった。ワンピースが床に落ちた。
クロゼットから、代わりの服を取り出す。律師用の、導師と詠師服に似た服装だ。肌があまり出ないようになっている。白無地に紋様が描かれ、裾が引きずるように長い。着替えていたら、とんとんとドアが軽く叩かれた。誰だと尋ねると、ティアのこまごまとした世話をしてくれる教団員だった。

「何の用?」
「律師に逢いたいというお客様がいらっしゃっているのですが…」
「客? …誰かしら」

今日はもう疲れたので、誰とも会いたくない。
ティアは眉間に皺を寄せたが、その皺はすぐに解けた。

「ナタリア王女様です」
「! ナタリアが? すぐに通してちょうだい」
「畏まりました」

ティアの命令を受けて、教団員はすぐさま引き下がった。その間に、ナタリアが訪れる前に着替えを済ませておくことにした。
教団員は忠実に仕事をこなし、ナタリアを伴って再びティアの私室のドアを叩いた。ティアはナタリアを笑顔で出迎えた。イスに座るように勧める。教団員はティアとナタリアの分のお茶を用意して出て行った。

「久しぶりですわね、ティア」
「ええ、久しぶり。元気にしてた?」
「ええ、わたくしの方は。ティアは…貴方も元気のようで何よりですわ」

ナタリアは微笑む。すこしばかり、彼女の化粧が厚い気がしたが、気のせいだろうとティアは彼女の異変を看過した。
二、三、世間話をして、ティアは本題に入る。

「ところで、今日は突然どうしたの? 何か用事?」
「あら、用事がなくては、お友達に逢いに来てはいけませんの?」
「ナタリア…。アルビオールのおかげでキムラスカとダアトの行き来が容易になったとは言え、王女の貴方が私の元にいきなり訪れるなんて、何か用事でもない限りしないでしょう? そう思ったから尋ねたのに…意地悪なこと言わないで」
「ごめんなさい。実は、今日の上層部の会議で、ルークが次期国王になることが決まりまして」
「ルークが…そう、おめでたいわね」
「ええ。それと同時に、ルークの婚約者が決まったのです」
「…婚約者…? ルーク、に?」

ティアは目を見開いた。ルークが次期国王になることは、ティアも予想範囲内だった。しかし、婚約者の件はさすがに予想外だった。いずれルークに婚約者が出来るだろうと思ってはいたが、まさかこんなに早いとは思わなかった。ルークが帰還して、まだ二ヶ月も経っていないのだ。
ティアがダアトで律師の仕事をこなしている間に、ルークと婚約した幸運な女性がいる――彼女の中で嫉妬心がむくりと顔を出した。眉根を寄せたティアに、ナタリアは気遣う表情をしながら、ルークの婚約者の名前を告げた。

「ルークの婚約者は、妹のミリアです」
「! ミリアがルークと…」

ミリア・ルツ・キムラスカ=ランバルディア。彼女には、ティアは苦い思いばかりさせられた。
ルークとミリアが婚約――他の女性でもルークの相手役を譲る気はなかったが、ミリアだけは、絶対にルークの相手役を譲る気にはなかった。ティアとルークの歪な関係性に気付き、指摘し、ティアの本心を曝け出したミリアにだけは。
もしルークとミリアがくっつくような事態になったら、ティアはもう二度とルークを手に入れることは出来なくなるだろう。たとえばもし、ルークがティアやミリア以外の女性と結婚しても、ルークの心はティアに捕らわれたままだろうが――ミリアが相手だと、ティアのルークへ向ける呪いに似た束縛をきっとどうにかしてしまう。
それだけは避けなければいけなかった。ティアはルークを手放す気など、今も――これから先も、無いのだから。

「わたくしは当然お父様たちに反対致しました。ルークはティアのことが好きだから、ミリアと結婚するのを待って欲しいと。でも、お父様たちはわたくしの意見を聞いてくれなくて…」
「……」

悲しそうに、ナタリアは瞼を伏せた。ナタリアも、ルークとミリアの婚約を邪魔することが出来ず、歯痒い思いをしているのだ。

「ルークにミリアとの婚約を破棄させようとも、ルークは優しいですから。お父様たちに遠慮して、きっと、断ることは出来ませんわ。でも、わたくしは、大切な幼馴染が意に沿わない結婚をしようとしている姿を見過ごすことは出来ません」
「…私にどうしろと言うの?」
「ルークに逢って、ティアの想いを伝えて欲しいのです。貴方が素直になれば、ルークも自分の気持ちに素直になるはずですわ」

ナタリアが真剣な眼で、ティアを見つめた。ティアは考え込む素振りを見せて――頷いた。ナタリアの言葉は、ティアにとっては渡りの船だったのだ。
 ティアから届いた手紙をペーパーナイフで開封する。
 折り畳まれた手紙の文面に目を通して、まず最初に抱いたルークの感想は落胆だった。


(やっぱりティアは俺を……)


 まだ都合の良い人形扱いする気なのかと、疲労が滲む溜息を落とす。


 ティアが自分に向ける感情が歪だった。
 そのことにルークが気付いたときには、もう遅かった。
 仲間たちはルークとティアの関係に恋愛を見出して歓迎するような素振りを見せていたし、ティアは仲間たちの応援を歓迎してミスリードを繰り返した。
 ティアは巧妙にもルークと自分の関係が恋仲であると周囲に錯覚させていた。
 彼女自身もおそらくは気付いていない。けれど、彼女は無意識で、無自覚に、ルークを貶めることで、周囲を欺いていた。
 ティアのおかげでわかったこともある。あの旅で得た経験はルークの成長の糧になった。けれど、だからこそ、もう二度とティアと係わり合いになりたくなかった。

 手紙の文面には、背筋が冷えるような言葉が並べ立てられていた。ルークの身体を心配する言葉、それとなく愛情がこもった言葉、近況報告――――赤の他人が見れば微笑ましさを与える文面であるが、ルークの眼には身勝手な感情を押し付けてくるティアの姿が手紙越しに見えるようで。ただの紙切れが、ひどく重たく感じて、封筒の中に戻した。
prev next
back