深淵

 「あなたは本当に、本当にそれで良いのですか」
 「ああ。これは俺が意思というものを持った時、あの人に会った時最初に決めた事なんだ」

 その瞳に迷いはなかった。



  深淵



 世界は障気に包まれた。 何故この様な状態になったのかなどこの際どうでもいい。今一番必要とされているのはこの障気を世界から無くす事だ。このままではオールドラントは滅んでしまう。

 今より文明や科学というものが発達していた創世暦時代でさえ障気を中和出来ず、外殻大地を形成するフロート計画なるものを実行した。しかしもう同じ手段は使えない。

 方法はあるにはある。

 ローレライの剣を使い、超振動で障気を中和する。だがそれには一万人以上の第七音譜術士かレプリカの命を必要とする。当然術者もそれだけの力を使えば命はない。だがそれによりオールドラントの世界が救われる。
 世論はこの方法に傾きつつあった。何故なら一万人以上の第七音譜術士の替わりになるもの、レプリカという存在があるからだ。

 彼らレプリカは生きる術、というものを知らないし持ってもいない。自分達の生活だけで精一杯だというのに、その上レプリカも養えと国の偉い人達は言うのだ。国民の中にはそのレプリカを作られた所為で命を落とした人間(オリジナル)もいるというのに。

 オールドラントの住民からしてみれば、自分達の負担も減り、その上障気が無くなるというのなら願ったり叶ったり、というのが正直な意見だろう。

 後は術者の問題だ。超振動を扱えるのは世界でオリジナルルーク(今はアッシュと名乗っている)とルークレプリカだけだ。しかも彼らはファブレ家子息で王族、かつ次代のキムラスカ王でもある。誰も面と向かって「貴方の持つ超振動で障気を中和してくれ」とは言えない。

 障気中和は確実に術者の命が失われる。「中和をしてくれ」と云う事は「死んでくれ」と云う事と同義である。

 別の声もある。
 「本当に一万人もの人間を犠牲にする以外に方法はないのか」

 実はダアトもキムラスカもマルクトも、障気中和の研究は今取り掛かったばかりだ。
 ありとあらゆる手段を講じて「これしか方法がない」というのならまだしも、その段階にすら至っていないのだ。結果を出すには時期尚早というものである。第一創世暦のフロート計画とてそれらを考え、実行し完了するまである程度時間は掛かっただろう。一ヶ月やそこらで出来るわけがない。数年、下手すると十年近く年月を必要とした筈である。

 今を生きている人間は、問題を解決する時間や努力、手間を掛けることすら惜しいというのか。

 以前にも云った様に、この障気中和が出来るのはルークとアッシュ二人だけ。しかもルークはレプリカである。はっきりと口には出さないだけで、周りの人間は皆ルークに対し「お前がやってくれたら」という事を体中で訴えている。一番楽でしかも自分達の腹が痛まない、安易な方法を望む人間が余りも多いのだ。

 それが顕著なのがキムラスカである。バチカル王宮では「今まで自分が“ルーク”だと周りを謀っていたのだから、その罪滅ぼしとして障気を中和するのは当たり前だろう」とあからさまに口にしている。まあ、そう言っている人間は数日もすると王宮から姿を消しているのだが。

 あの仲間達は、というとどうしていいか分からず迷っている、というのが正しかった。ルークが正体を現して以来、彼らとの信頼は殆ど失われてはいたが「中和してくれ」とは流石に言えないらしい。

 どういう訳か最近アッシュが「俺がやる」と言い出し、それを止めるのにナタリアが必死になっている。このアッシュの言動は誰が見ても自棄になっているとしか思えない。ルークがする事が当然だ、という風潮に憤りを感じているのかもしれないのだが。

 「それが理由だとは思えません。だってアッシュは私が説得しようとすると、何か言いたそうにしておりますもの!」
 というのがナタリアの弁だ。

 そしてある日の事。バチカルのファブレ邸にてルークが言った。

 「私が障気を中和します」

 公爵の返事は「そうか」の一言だった。
 「では急ぎますので」
 失礼します、とルークは一礼して立ち去った。



 翌日。オールドラントに青空が広がった。