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眠い。
とにかく眠い。今、起きたばかりだと言うのに、思考は既にボンヤリとしている。
『ちょっとー!! 皐ちゃん。聞いてるの?』
電話越しに叫ぶ有希子の高い声を聞き、眠気が飛んだ。そのおかげか、遠のいていた意識が戻ってくる。
「…………うん……聞いてるよ。それで? 優兄が、何だっけ?」
『優作ったら、また今日も朝から出かけて……やっと帰って来たと思ったら、ベロベロに酔っぱらってるのよー……もぉ、頭にきちゃう!!』
「パーティか、何かあったの?」
『それが、分かんないのよ。私に黙って出かけちゃうし……しかも、シャツにキスマークなんてつけちゃって! あー悔しい!! アタシも浮気してやる!!』
いつもの痴話喧嘩とはいえ、キスマークをつけられてしまったとなると、流石の皐でも優作を庇う事は出来ない。
「有希姉、落ち着いて……大丈夫。優兄は、有希姉が大好きだから……浮気なんて、しちゃダメだよ」
『でも〜!! キスマークよぉ!?』
駄々をこねる様に言う有希子に、思わず皐は苦笑した。
「うん。だから……やっぱり有希姉は、優兄に愛されてるよ」
『どうして!?』
「だって……普段の優兄は、キスマークを女の人につけられるような人じゃないでしょ?」
『それは!! そうだけど……』
少しずつ冷静になり始めた有希子の声を聞きながら、皐はアクビを噛み殺した。
「お酒で酔っても、女の人に誘われても、優兄は有希姉の待つ家に帰って来たんだよ? ほら、有希姉は愛されているんだよ」
『…………でもぉ……グスッ』
高い有希子の声が徐々に泣き声になってきた事で、皐は困ったような表情をする。
「大丈夫だって。有希姉が心配しなくても、優兄が夢中になる女性は、有希姉だけだと思うよ」
実際、若い頃には義妹の皐にまで嫉妬をしていた男である。
――初めの頃は、どうやって接していいか分からなくて、人見知りの私をダシに、有希姉と出かける約束してたしなぁ……
昔からなんでも余裕にこなす優作だったが、彼も人の子。初恋の人が相手では、話のきっかけや会う口実をアレコレ悩んで空回りしていた。
もちろん、そんな優作の事を知るのは、両親が亡くなった今では義妹の皐のみ。妻の有希子は勿論、息子の新一ですら知らない優作の姿であろう。
――有希姉に構ってもらいたいけど、私が居るから構ってもらえない。けど、私には嫌われたくないから強く言い出せない。でも、有希姉に構ってもらいたい。その無限ループに陥った時の優兄の表情は、中々に傑作だったよねぇ
今ではもう、見る事のできないレアな表情。しかも、思い人である有希子には絶対に悟らせないという、見事な顔芸を披露してくれるので、皐は気がつくたびに笑いを堪えるのに必死だった。
恋は人を変えると言うが、早い話、かの有名小説家も例外ではなかったわけだ。
『皐ちゃん?』
その時の事を思い出したせいか、クスリと皐が静かに笑っていると、不思議そうにしている有希子の声が聞こえてきた。
「ああ、ゴメンなさい。なんでもないよ……とにかく有希姉、浮気だけはダメだよ。きっと有希姉が浮気したら、優兄がショックで死んじゃうから」
『……そうかしら』
「そうだよ。だから絶対ダメ……」
有希子の声は半信半疑だが、あの推理オタクが思考を空回りさせるような相手など、後にも先にも有希子だけであろうと皐は思っている。
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