ファンだから駄目なんだよ
無意識の内に辿り着いたのは、玄関の前だった。
いつも、何気なく使うはずの扉。
ノブを握って回せば、簡単に外の世界へと行けるのだが。
――怖い。
目の前にある、たかが薄い板一枚の存在が恐ろしくてたまらない。
もしも、ノブを握れなかったら?
もしも、扉をすり抜けてしまったら?
もしも、もしも、もしも――
グルグルと頭の中を回る不安と恐怖。
そこには、小さな諦めもあった。
いつか、この世界から消える。
それは、以前から考えていた事だった。
眠って覚めたらこの世界にいて、気づいた時には今までの自分は手の届かない場所。
何もかもを失って、自分が何のために生きているのかも分からなくなって。
それでも前を向いて歩けてきたのは、暖かな人達が支えてくれたから。
今思えば、普通とは思えないほどの眠りは自分の存在をこの世界に留めるためのものだったのか。
世界にとっての異物――本来は存在しない者。
何かしらの特別な人間でもなく、ただ非力なばかりの存在である皐には、この場所に存在するだけでも重荷になっていたのだろう。
そう考えれば納得出来た。
原作に関わると眠くなるのは、本来の道筋を変えないため。
かと言って関わった彼らから無理に離れようとすれば、皐と言う異物が作った小さな亀裂が綻び、やがて大きな穴となる。
その穴が出来た結果が、存在しない未来へと繋がるのだとしたら。
「このまま消えれば……」
全て元に戻るのだろうと、漠然と考えた。
“工藤皐”と言う存在が消え、皆の記憶からも消え去り、過去の軌跡も、何もかもが消える。
それはけれど、本来あるべき姿に戻るだけの修復作業。
この結末が正しいのだとすれば、このまま皐がこの世界から消え去れば――
「元に戻る……それが一番いいのかな……」
「お前は、本気でそう思っているのか?」
諦めたように皐が笑えば、低い声が背後から響く。
その瞬間、皐は身体を硬直させた。
「皐」
たった一言、名前を呼ばれた。
それだけで全てを支配された様な感覚を覚える。
「こちらを見るんだ」
ここで振り返ってしまえば、取り返しのつかない事になる。
何となく、そんな予感めいたものが脳裏を過った。
しかし彼女の意思とは裏腹に、身体は彼の声に反応してゆっくりと赤井の方へ向く。
視線をそちらに向ければ、そこには変装を解いた赤井の姿があった。
彼と目が合った瞬間、皐は呼吸を止めた。
かち合った視線の先。
己を見つめる翡翠の瞳。
それを見た瞬間、皐の身体を見えない鎖が縛り上げた。
苛烈。
激烈。
猛烈。
熾烈。
垣間見えた瞳の奥に、蠢く熱がうねりを伴う。
それは激しく、しかして冷たく。
静かなる膜に覆われ、凍てつく理性の奥深くでこちらを見つめている。
この時、初めて皐は知った。
はるか昔、薄れた記憶の彼方。
画面越しに見た、不敵な狙撃手。
連邦捜査局の特別捜査官、赤井秀一。
その彼が、今、ここにいる事を。
「皐」
名前を呼んで、引き止められる。
進もうとした道を塞がれ、追い込まれているようだった。
一歩一歩こちらに近づいて来る赤井。
それを皐は、黙って見る事しか出来なかった。
既に決着はついていた。
視線が合った、その時に。
正面から一発。
放たれた弾丸は、皐の身を貫いている。
「…………ぃで」
もう、身動き出来ない。
逃げられない。
一歩ずつ近づいて来る狩人は、弱りきった標的を回収するだけ。
距離が詰められ。
手を伸ばされ。
頬を触れようとした、その瞬間――
「触らないで!!」
それでも、最後の足掻きとばかりに皐は叫ぶ。
触れなかった。
感じなかった。
当たり前が、崩れさった。
これでもし、赤井の手がすり抜けたら。
そう考えるだけで、背筋が凍る。
自分は彼に――彼らには必要ない存在だと、言われているようで。
今まで必死に築き上げたモノが壊れてしまう様な気がした。
だったら、このまま消えさせてくれと思うのだ。
何が理由でこの世界に来てしまったのかは分からない。
その謎は確かに残るが、消えてしまえば、長年の苦悩から解放される。
「もう、終わりたいの」
そう言って、皐は赤井を見つめた。
涙が溢れて、視界がぼやける。
彼がどんな顔をしているのかなど分からない。
けれど、その綺麗なエメラルドが自分に向けられている事だけは分かった。
「すまんが、それは出来ない」
低い声が響く。
それは、約束を交わした時と同じように、優しく穏やかだった。
けれど、そこには少しの憂いも含まれている。
「お前が終わりを望んでいても、俺にはお前が必要なんだ」
ぼやけた視界の中でも、ずっと止まっていた手が再び近づいて来る事に気がついた。
皐は近づく掌に怯え、小さく身体を震わせた。
見つめていた視界を閉ざし、自分の身体を守る様に抱き締める。
「心配するな、お前は俺が守る」
耳元で聞こえる囁き。
低くも優しい声に、皐は少しだけ力を抜いた。
「皐」
そっと触れた大きな掌。
ビクリと大きく震えた身体。
しかし、赤井の手が皐の身体を通り抜ける事はなかった。
閉ざした視界の中、微かではあるけれど、確かに感じる彼の温もり。
「だから、消えるな」
流れる涙を優しく拭われる。
皐は目をゆっくりと開き、頬を触れる赤井の手に自分の手を重ねた。
触れられなかったあの時とは違い、今度はしっかり触れられる。
「…………っ」
その事に安堵した皐は、身体に込めていた力を抜く。
無意識に詰めていた息を吐き出し、鈍い動きで座り込んだ。
張りつめていた糸が切れる様に、全身が脱力する。
時同じくして、瞼が下がってきた。
元々あった眠気も強まり、意識も徐々に遠くなる。
意識を手放す直前。
全身が暖かな何かに包まれる。
――ゆっくり休め。
遠くから、優しい声が聞こえた気がした。
ファンだから駄目なんだよ
(そう言って泣く私を、君は優しく抱き締めた)
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