助けてよおかしくなりそう
多分、園子は何気なく言ったのだろう。
『まぁ、蘭。いいじゃない? 何かあったわけでもないし、あの人イケメンだし、優しそうだから、私は皐さんの彼氏かと思ったけど』
恋愛話の好きな彼女は、よくそうやって誰かと誰かをくっつけたがる。
新一の事をネタに、蘭をからかう事がよくあるのだ。
きっと先程の一言だって、軽い気持ちで言ったのだろう。
だから、そんなに深く考えなくていい筈だ。
だが、皐は蘭と園子が帰った後も、ずっと彼女の言葉の意味を考えていた。
『私は皐さんの彼氏かと思ったけど』
頭の中でリピートされる。
その言葉が酷く恥ずかしくて、なのに心地いい。
言葉と共に沖矢の事を考えれば、心地よさに変化が訪れる。
リズムよく鳴っている鼓動が早さを増し、頬が熱い。
そして、鮮明に想い出される、あの抱き止められる感覚。
そこまで考えたところで、皐は勢いよく首を横に振った。
今までのよこしまな思いを、頭から飛ばす様に。
「……ダメだよ」
思わずポツリと呟いた言葉は、静かなリビングに虚しく響き渡る。
拒絶と共に、高ぶっていた気持ちが冷静さを取り戻した。
ああ、そうだ、彼は駄目なんだ。
かなり昔の記憶になってしまったから、忘れていた。
彼には亡くなった想い人がいるのだ。
自分とは違う、妹思いの美しい人がいたではないか。
あの美しい人に比べて、自分はどうだろうか?
一緒に住んでいるのに、本当の彼を知らない。
否、知ってはいるが、コナンも沖矢も、義兄も義姉も、何も言わない。
何も知らされない現状が、既に答えだろう。
そう思えば、胸の奥でコトリと音をたててフタが閉まった。
「ダメだよ……」
目を閉じて、胸に両手を当てる。
暗闇に閉ざされた視界。
その中で考えるのは、皐自身の存在理由だった。
時折、ふと考えるのだ。
どうして自分は、この世界にいるのだろうかと。
この世界に来る前から、皐はコナンの事を知っていた。
あれだけ国民に親しまれているのだ、名前くらいならほとんどの人が知っているだろう。
皐も、愛読とまではいかないが、本を読んでいたので、物語の流れはそれなりに分かっている。
けれど、知っているからと言って、皐が原作に関わる事はなかった。
否、初めはそれでも、やろうと思ったのだ。
自分がこの世界に来た理由など、それくらいしか思いつかないから。
しかし、原作に関わろうとすると、酷い眠気が襲ってきてしまう。
それは抗いようのないもので、気づけばいつも、終わった後。
自分の事を話そうとしても、同じ。
この世界ではない世界からやって来たんだと伝えたくても、伝えられない。
原作に出てきた人とは、会話や交流も出来るが、それはいつも蚊帳の外。
いつだって、物語には関係ない。
自分の事についてはもっと酷く、原作に出てこない両親にさえ言えなかった。
いつしか、関わる事を諦めた。
いつしか、伝える事を諦めた。
諦めた途端に、物語に関わるようになった。
原作に出て来る人々と知り合う度、眠りは少しずつ皐を蝕んでいた。
何の皮肉だ。
誰の嫌がらせだ。
すれば眠りがやって来る。
しなくても眠りが訪れる。
どうすればいいのか分からない。
「どうして……」
――どうして、私はここにいるの?
そんな独り言も、呑み込んでしまう。
皐が軽く息を吐けば、腕を大きな掌に掴まれた。
後ろから突然きたので、驚いて顔を上げれば、そこには険しい表情をした沖矢がいる。
「沖矢、さん……?」
困惑しながら沖矢の名を呼ぶが、彼は皐を見つめるだけだった。
「……あの、何かありましたか?」
無言を貫く彼に、皐は苦笑しながら尋ねる。
しかし、それでも彼は答えてくれない。
ある種の圧迫感が辺りを漂う。
皐もそれを敏感に感じ取り、息をひそめて彼を見つめた。
「…………皐さん」
長い沈黙。
その後にようやく呼ばれたのは、自分の名前。
たった一言。
呼ばれただけなのに、心が痛いほど高鳴り始める。
「何かありましたか?」
皐が尋ねた言葉と、全く同じ言葉を沖矢が放った。
それに皐は酷く驚き、目を見開く。
咄嗟に皐は何かを叫びそうになった。
それが何なのか、彼女自身にも分からない。
なぜなら、気持ちを伝えるよりも先に、酷い眠気が彼女に襲い掛かってきたのだ。
「……っ!!」
グラリと皐の身体が傾くものの、沖矢によって支えられた。
ソファから滑り落ちそうになるが、沖矢の腕に囲われ、何とかバランスを取る。
眠りそうになった弾みで、皐の頭と視線が下を向いた。
皐からも沖矢からも、それぞれの表情が見えなくなる。
しばらく二人は何も言わなかった。
痛いほどの沈黙が、その場に訪れる。
「……何も、ありません。私は、大丈夫です」
言おうとした言葉を呑み込んで、皐はニッコリと笑いながら沖矢を見上げた。
それに沖矢は返答せず、緊張した様子で彼女を見つめている。
しかし、それもすぐに姿を消し、代わりに現れたのは、穏やかな笑顔だった。
「……そうですか。すみません、体調が悪そうに見えまして、僕の勘違いだったようですね」
「いいえ。ご心配をかけてしまって、すみません。私は、部屋で休んでいますので」
自分とは違う温もり、違う香りが皐を包み始める。
それから逃れる様に、皐は沖矢から離れた。
「送りましょうか?」
「いえ。階段を上るだけですから、ご心配には及びません」
後ろからかけられる声に拒絶を返し、皐はフラフラしながらリビングを出た。
覚束ない足取りになりながらも、寝室に辿り着いた皐は、力が抜けたようにベッドへと倒れ込む。
そのまま、グチャグチャになりそうな思考から逃れる様に、皐は意識を暗闇へと沈めた。
助けてよおかしくなりそう
(逃げる事しか出来ない私を許して)
- 5 -
*前 | 戻る | 次#