見えないラインのあちら側


 しっかりと握れた小さな掌。

 その事にただ、赤井は安堵した。





 一週間前のあの日。

 赤井がリビングにいる皐を見かけたのは、本当に偶然だった。

 ソファに座り、丸くなった背中。


 座ったまま、眠っているのだろか?


 その時は、本気でそう思っていた。

 彼女が座ったまま寝入るのはよくある事で、それほど珍しくもない。

 赤井も何度か、寝入った彼女を寝室に連れて行った事がある。

 翌日の彼女が面白い反応をするので、赤井は楽しみながら運んでいる。


 今日は色々とあったからな。


 一日あった事を振り返れば、思わず苦笑いしそうになる。

 受け身を取ったとは言え、皐から見れば知人に同居人が蹴り飛ばされたのだ。

 その上、長時間に渡る説教とくれば疲労がたまるのは当たり前だろう。


 皐を起こさぬよう、静かに近寄る赤井。

 手を伸ばせば触れる距離まで近づいた時、ポツリと皐が呟いた。


「……ダメだよ」


 感情を押し殺したような声が響く。

 それに驚いた赤井は、伸ばそうとしていた手を止めた。


「ダメだよ……」


 それは、誰に対する言葉だろうか。

 皐は両手を握りしめ、小さな背中を更に丸めた。

 何かに苦しんでいる様な、抗っている様な。


 多くを語らぬ彼女が何を思っているのか、赤井は知らない。

 それが今、彼女との間に大きな壁となっている気がしてならなかった。


「……っ」


 しかし次の瞬間、赤井の思考が吹き飛ぶような光景が、彼の目の前で起き始めたのだ。


 初めに、皐の背中越しに薄らと何かが見えた。

 徐々に彼女の存在が薄れ始め、皐を形作る色素が消えていく。

 見え始めたそれが、皐の座っているソファの奥にあるローテーブルだと気がついた時。


「どうして……」


 諦めたような彼女の声が、小さく響いた。


 考える間もなく皐の腕を掴む。

 薄らいでいる感触に、寒気が走った。

 力任せに引けば、驚いた彼女と視線が合わさる。


「沖矢、さん……?」


 皐に仮の姿の名を呼ばれ、我に返った赤井。

 先程の光景は何だったのか。

 そこには確かに存在している皐がいた。

 しばらく彼女と見つめ合えば、その瞳に無表情な自分の姿が映る。


「……あの、何かありましたか?」


 不安そうに笑う皐。

 それがあまりにも痛々しくて、辛そうで――


「…………皐さん。何かありましたか?」


 長い沈黙の後、彼女に尋ねれば、大きく目を見開かれた。

 反射的に口を開いた皐は、次の瞬間、大きく身体を傾けさせる。

 とっさに身体を支えると、彼女の表情は見えなくなった。


 何を伝えたかったのか、しかし、それを赤井が知る事はなかった。

 沈黙の後に現れた彼女は、完璧なほどにいつもの彼女だったから。


「……何も、ありません。私は、大丈夫です」


 優しく微笑む皐はいつも通りの微笑み。

 先程までの姿が、嘘の様だった。


 結局、当たり障りのない会話をして、皐はリビングを出て行った。

 赤井はただ、それを見送る事しか出来なくて。


 何故だ。

 彼女の方が何も知らないはずなのに、自分が何も知らない様に感じる。


 閉ざされた扉の奥に消えた小さな背中を想いながら、赤井は天井を見上げた。





 あの後、一度は皐を見送った赤井だったが、どうしてもあの光景が忘れられなかった。

 しばらくは、書斎や仕事場にしている部屋で時間を潰すように本や書類を見ていた。

 だが、あの時の彼女が気になって、内容など全く入ってこない。

 脳裏を過るのは、仕事や本の内容ではなく、薄れゆく皐の後ろ姿。


 ファンタジーでもあるまいし、人間が消えるなどありえない。

 ただの気のせいだ。

 
 そう思いたくとも、あまりにも鮮明に残る記憶と感触。

 結局、早々に諦めた赤井は、皐の寝室へ足を運んだ。


 起こさない様に忍び込み、彼女が眠るベッドに近づけば、思わず息を呑む。


――気のせいではなかったのか。


 思わず浮かんだ言葉は、声にならない。

 なぜなら、先程と同じように彼女が消えかかっているのだ。


 非現実的すぎる光景を目の前に、赤井はそっと手を伸ばした。

 その手つきは酷くゆっくりで、微かに震えている。


 眠る彼女の、悲しみに歪んだ顔。

 閉じた瞼から流れる雫を、赤井はそっと拭った。

 拭った指先に、濡れた感触は全くない。


 時は夕暮れ。

 外からの光で煌めいた雫は、溶ける様に消えてゆく。

 それはまるで、この世界から消えようとしている彼女の未来の様だった。


 赤井は無言で左手を出す。

 そのまま、シーツに投げ出された皐の右手を握った。


 色の薄い彼女の手は、その感触も薄い。

 まるで、淡く柔らかい雪をすくっているかの様。

 強く握れば溶けてなくなってしまいそうだ。


 思う気持ちとは裏腹に、自然と強く手を握りしめる。

 自分に比べて一回り以上も小さな掌は、微かな熱を持っている。

 その温もりだけが、今ここに彼女がいる事を証明していた。


「…………皐さん……」


 この現象は非科学的だ。

 一体、何が起こっているのか。

 どうしてこんな現象が起きるのか。

 何故、それが彼女なのか。


 尽きない謎は多くある。

 だが、そんな事はどうでもいい。


「…………皐……」


 偽りの声が空しく響く。

 小さな手を両手で包み、視界を閉ざして柄にもなく祈るような姿勢をした。


「…………消えるな」


 暗闇の中、微かに伝わってくる温もりを手放さないよう。

 赤井は静かに言葉を紡いだ。


見えないラインのあちら側
(行くなと叫ぶ、僕がいる)



- 7 -

*前 | 戻る | 次#



ALICE+