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愛=煩悩

08



家族旅行2日目。
昨日はあまり堪能できなかった海辺の散歩を楽しもう、と絵梨は波打ち際を散策する。
浜辺の潮風は気持ちよかった。
しゃがんで手で砂の感覚を楽しんだり足だけ海に入って楽しんでいたりした絵梨に、焦ったように雅臣が近づいてきた。

「ねえ!」
「雅臣さん…どうしたんですか、そんなに慌てて?」
「弥を見なかった?」
「いえ、見てないですけど…。弥くんがどうしたんですか?」
「実は、ずっと姿が見えないんだ。」
「えっ!?いつからですか?」
「朝食はみんなで一緒にとったよね。でも、そのあとから…。」
「…まさかとは思いますけど、1人で海へ行くなんてことは…?」
「いやここへは毎年来るし、浅瀬で遊ぶように強く言い聞かせてあるから大丈夫だとは思うけど…」
「…」
「…ごめんね、きみまで不安にさせちゃって。」

眉を顰めて考えこんでいる絵梨を、雅臣は辛そうに宥める。

自分が一番心配しているはずなのに…。

絵梨はキュッと唇を引き締めると、長男に促すように言った。

「いえ。とにかく、手分けして探しましょう。」
「うん、ありがとう。」

運がいいことに、雅臣と別れてすぐ要と椿と梓が近くを通った。
一通り説明すると、要は兄らしく弟達に指示を出す。
その様子を珍しいものを見るようにしていた絵梨だったが、ハッと気を取り直して要に声をかけた。

「確か、近くに遊歩道がありましたよね?私はそっちの方を探してみます。」
「いや…きみはコテージに戻った方がいい。」
「え…?」
「午後から雨が降り出しそうな予報だったし、きみはこの辺りの地理には慣れてないでしょう?」
「確かにそうですけど…弥くんのことが心配です!探させてください!」
「…」
「…」
「ふう…わかったよ。そのかわり、きみは俺と一緒に来て。遊歩道は俺と一緒に探そう。」
「はい!」

引くつもりのない絵梨との睨み合いの後、要は観念したように妥協案を提示した。
話がまとまると2人は駆け出す。
遊歩道はそう遠くないところにあった。
何度も大声を出して弥の名を呼ぶが、返事はない。
要の言った通りに雨が降り出し、いつの間にか風まで出てきて2人の体から体温を奪っていった。

「…っ、くしゅん!」
「絵梨ちゃん。大丈夫?」
「はい。」
「さっきから雨が強くなってきたからね。無理しないで。」
「平気です。弥くんの方が心配で…くしゅん!」
「こんなに濡れて、そんなにくしゃみして…。何が平気なの?」
「それなら、なおさら早く弥くんを見つけないと。」
「…ったく、きみは…。意外と強情なんだね。」

少し怒ったような要の声に、絵梨の視線が下がってしまう。
誰かに怒られることなんてあまり経験したことがない。
まして年上の家族というと父親しかいなかった絵梨はうろたえてしまった。
何も考えられずにいると、突然温もりを感じる。
温もりだけでなく、背中に回る大きな手…。

「要さ…」
「…やっぱり。体、冷え切っちゃってるよ…。」
「…っ!」

掛けられた自分を心配する声。
込められた腕の強さ。
要の体温。
絵梨の心臓は必要以上に動いていた。

「…ありがとう。こんなになるまで、必死に弥を探してくれて。」
「それはっ…弥くんは、私の弟で…っ!」
「うん、そうだね。でもね。俺にとって、きみも大事な妹なんだ。だから、無理させたくない。…分かって?」

妹。
要の言葉が絵梨の心にズキリと刺さる。

「要!」

そこに遠くから右京の声が響いた。
思わず腕を振りほどいた絵梨に要は何も言わず、すぐ上の兄と話し始めた。
どうやら弥が見つかったようだ。
すでにみんなもコテージに戻っているという。
要も絵梨も安堵のため息を吐き出した。

「…本当にごめんなさい。」

目に涙をいっぱいためた弥がみんなに謝る。
誰にも見つからないように1人かくれんぼして遊んでいたら、寝てしまったらしい。
可愛らしい理由にみんなの肩から力が抜けた。
子供扱いされてむくれる弥に、椿が追い打ちをかける。
それに輪をかけて右京が罰として夕食の手伝いを言い渡した。



この騒動以外のんびりと過ごした一日だったが、夜になっても絵梨の頭が変に冴えてしまっていた。
原因は何となく分かる。
要の言動のせいだろう。
冷たいものでも飲んで気を落ち着かせるかと、絵梨はキッチンに向かう。
するとそこには原因がいた。

「あれ、絵梨ちゃん?どうしたの、こんな時間に。」
「…眠れなくて。要さんこそ、どうしたんですか?」
「俺も眠れなくて一杯飲んでたところ。そしたら風が気持ちよくてさー、ちょっと夜風にあたりにいこうと思ったんだ。ああ、そうだ。せっかくだし、絵梨ちゃんも一緒に行かない?」
「…そうですね。迷惑じゃないなら…」
「ははっ。俺から誘ったのに、迷惑も何もないよ!それじゃあ、行こうか。」

ぐいと飲み残しを呷ろうとした要を、絵梨は慌てて止める。

「あっ!」
「なに!?」
「それ、よかったら一口ください。」
「…これ?」
「はい、喉が乾いちゃって。」
「…まあ、絵梨ちゃんが欲しいって言うならいいけど。」
「ありがとうございます。」

受け取った残りを一気に喉へ流してグラスを片付けると、絵梨は待っていた要の後を追ってコテージを出た。

「雨が止んで良かったね。」
「はい…夜風も気持ちいいです。」
「そうだね。」

波の音に乗せて、柔らかい風が吹いている。
要は言葉少なで、海を眺める表情がとっても穏やかだった。
こんな顔の要を見たのは、初めてのような気がする。

「あのさ…。スカしてる、って笑ってくれてもいいんだけど。」
「…はい?」
「俺、夜の海が好きなんだ。真っ暗になると、空と海の境目がなくなるでしょ。広い空間に投げ出されて、なんだか心もとないような…そんな感じがいいなあって。」
「心もとないのが…いいんですか?」
「そう。こういう、自然の力を感じる場所に立つとね…。人間なんて無力で、天与の恵みのもとに生かされているだけの存在だってことを痛感するから。些細なことで悩んだりくじけたりすることが、とても瑣末なことに思えるんだ。」
「…」
「だからたまにこうして、夜の海を見るんだよ。心の中を空っぽにできるからね。」
「…要さんって…」
「ん?」
「そういうことも考えられるんですね…。」
「んん?どういう意味?」
「意外です。要さんの頭の中は、女の人のことばかりだと思ってました。」

心底驚いたと全身で訴える絵梨に、要は心外だと口を尖らす。

「ええー?ひどいなあ。俺、これでも僧侶なんだけど。常に世界平和と心の平静と、それから少しだけ女性のことを考えてるくらいだよ?」
「…考えているんですね。」
「ははっ、言われちゃったな。」
「…でも…」
「うん?」
「私はこんなに暗い場所に放り出されたら、消えてなくなってしまうかもしれません。」
「大丈夫だよ。きみが消えてしまう前に、俺が助けるから。」
「え…?」
「きみが今日、行方のわからなくなった弥を必死で探してくれたように…。きみに何かがあれば、俺が助けにいくよ。」
「要さん…」
「今日はどうもありがとう。きみみたいなコが妹で、本当によかったと思う。」

いつもは冗談ばかり言う要が、穏やかな顔で優しい声で話す。
それが嫌と言うほど分かってしまって、絵梨の胸がトクンと波打つみたいに鳴った。



「んー!じゃあ俺は、もうちょっと夜の海を満喫しようかな!」
「要さん?暗いのに、そんなに海の中へ入っていくと危ないですよ。」
「だいじょーぶ!」

一転して笑った要は子供のように無邪気で…。
知らない表情に、また一つ波音がする。
そんな自分にドキドキしている絵梨の耳に悲鳴が聞こえた。

「うわあ!?」
「えっ…!要さん、どうしたんですか!?」
「…ぷは!な、なんだあ…?何これ、海草?これに引っかかって転んだの、俺?」
「ふっ…ふふっ!要さん、ずぶ濡れ。」
「なんだよ、もう…。イケてねーな、俺…。」
「ふふっ、大丈夫ですか?掴まってください。」
「ありがと。でもさ、絵梨ちゃん。今、俺のこと笑ったよね?」
「え…っ、きゃあっ!?」

要が意地悪い笑みを浮かべる。
咄嗟に警戒した絵梨だったが、時すでに遅し。
要に差し出した彼女の手が思いっきり引っ張られた。
当然のようにバランスを崩した絵梨に冷たい洗礼が振りかかる。

「…ぷは!」
「ははっ!笑った仕返し。」
「ヒドイっ!私までずぶ濡れじゃないですか…っ!」
「ははっ、そうだねー!でもさ…今日も1日暑かったから、キモチイイ…でしょ?」
「…っ!…あ…」

顔を上げた絵梨の目の前に、要の顔と胸があった。
彼の艶っぽい声音に、昼間に抱きしめられたことを思い出す。
収まったはずの心臓がうるさく鳴り出し、呼応するように頬に熱が灯った。
どう誤魔化そうかと思って視線を泳がせていると、ふと目の端に何かが入る。

「…要さん、それ…右の鎖骨辺りに、何かが…」
「ん?ああ、これ?タトゥだよ。」
「初めて間近で見ました。これ…十字架、ですか?」
「え…。ああ、いや。これはね、短剣だよ。」
「そうですよね。お坊さんなのに…すみません。」
「…」
「…要さん?」
「ねえ、絵梨ちゃん。今日はきみのために、一つ話をしてもいい?」
「なんですか?」
「剣にまつわる話、だよ。昔、イギリスで作られた戯曲の中でね。『ペンは剣より強し』って言葉があったんだ。」
「…リシュリューですか?」
「そう。言論は、武器を超えるって言う意味でね。でもね、この世には剣よりもペンよりも、もっと強いものがあるんだ。」

そう言う端正な顔が近づいてくる。

「それはね…愛、だよ。」

唇が微かに触れる。

「…ん。」

触れた唇が重なる。

「…さっき、心の中を空っぽにしたけど。今は、きみのことで満たしたい…。」

要の手が絵梨の腰と肩に回り、重なりが深くなる。

「いい…?絵梨…。」

ゾクリとした背中に、絵梨は思わず要を突き飛ばした。
遠く…後ろの波音に紛れて、要が彼女を呼ぶ声が聞こえる。
けれど、絵梨は振り返れなかった。
ひたすらコテージへと走るので精一杯だった。


2014.10.30. UP




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夢幻泡沫