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問答無用の魔法

18



「おはようございます、汐音さん。」
「おはようございます、右京さん。今日も寒いですね。」
「そうですね。だから、今朝は温野菜のサラダにしようと思います。こちらの準備を手伝ってもらえますか?」
「はい。」

2月のある朝、汐音は冷える体を動かしながら右京の手伝いをしていた。
他愛もない会話をしながら朝食の準備をしていると、体を支えるように壁に手をつきながら梓がリビングに現れた。

「…おはよう。」
「おはようございます、梓。…どうしました?顔色があまりよくないですね。」
「…うん。ちょっと、頭が痛くて…。京兄、頭痛薬ってどこにあったかな…。」
「薬箱の中にあると思いますが…。」
「梓さん…大丈夫ですか?」

辛そうに挨拶をしてきた梓に、右京と汐音の手が止まる。

「うん…。なんだか、ここ3日間ぐらい調子が悪くて…。風邪だと思うんだけど…。」
「一度、病院へ行った方がいいんじゃありませんか?」
「うん…でも仕事が結構、詰まっていて…。休めな…い…」

苦しそうに笑っていた梓の顔が歪む。
汐音達がハッとして動き出した時には、梓は崩れるようにして床に倒れていた。

「梓さんっ!?」
「梓?梓!!大丈夫ですか!?」
「あた…ま…いた…。くっ…」
「あ、梓さん…っ!」
「梓。今、雅臣兄さんを呼びますから。しっかりしてください。」
「…」

返事もままならない梓のそばでオロオロとしている汐音とは正反対に、右京は冷静かつ素早い動きで雅臣に連絡を淹れる。
苦しそうに頭を押さえる梓に汐音は何もできないでいた。

…こういう時、どうすれば…
あ、椿さん!
椿さんに知らせないと…!
そう思うのにどうしてなのだろう。
体が動かない。

パニックになっている状態で梓に声をかけても碌なことは言えなかった。

「し…っかりしてください、梓さん。今、右京さんが…。私、椿さんに…」
「…汐音…」

椿さん、早く来て!

他には何も思いつかなかった。
汐音は強く願う。
その時、後ろから少し眠たそうな明るい声がかかった。

「おはよー。」
「あ…つ、椿さん…っ!」
「わっ、なんで泣きそうなんだよ!汐音!?」
「あ、梓さん…が…今、倒れて…っ。」
「っ!?」

只事ではないと感じ取ったのか、汐音をどけるようにして椿は梓のもとに駆け寄る。
そして躊躇なく片割れを抱き上げた。

「梓…?あ、梓っ!?どうしたんだよ、梓!」
「つ、ばき…」
「なんで倒れてんだよ、梓っ!!」
「椿!不用意に梓を動かしたらいけません。」
「あ…?なん、で…」
「梓が倒れた原因がわからないからです。医師の診断があるまでは、素人は触れない方がいい。」
「でも…っ!」
「すぐに雅臣兄さんが来ますから。」
「…っ。…梓。」

椿の肩が震えている。
けれど、汐音は何も声をかけることができなかった。
右京の連絡を受けて、すぐに雅臣が的確に対処していく。
即座に判断した雅臣は救急車を要請し、梓は雅臣が勤務する病院へと運ばれた。



「椿さん…」
「…」

リビングに残されたのは椿と汐音。
悄然と座り込む椿に、汐音は躊躇いがちに声をかけた。

「梓さんが運ばれた病院…私達も向かいませんか?」
「…」
「椿さん…」
「…うん。」
「…椿さん、大丈夫です。梓さんはきっと…大丈夫ですよ。」
「汐音…。」

縋るような目を向けてくる椿にぎこちない笑みを浮かべながら汐音ははっきりと言った。
椿が動揺しているのだ。
その分、自分がしっかりしなくては…。
いつか椿が言っていた。
『声優の声には魔法が掛かってんの。聴く人の心を問答無用で元気にする魔法。』と。

まだ魔法が使えるのなら…。
私の声にまだ魔法が残っているのなら。
今、使わなくてどうするというのだ。

汐音は一度ゆっくりと目を閉じると、気持ちを切り替えるようにしてパチっと目を開けた。

「椿さん、大丈夫です。」
「…」
「梓さんは大丈夫です。椿さんが信じてあげなくちゃ。お2人の間には、誰にも入れない絆があるのでしょう?誰にも仲は引き裂けないのでしょう?それなら原因のわからない何かに引き裂かれるような、脆いものではないですよね?…信じましょう、梓さんを。」
「…汐音…」

椿がたどたどしく近づいてくる。
けれど、いつものように勢いでギューとされはしなかった。
揺れる光彩でじっと見つめられ、それから力なく抱きしめられた。

「汐音…お前も震えてんじゃん…」
「…えっ…あ…」
「…俺、自分のことばっかだな…。そうだよな…汐音だって、不安だよな…。なのに、俺1人不幸だって顔しちゃって…。…本当に、ごめん。」
「…」
「…少しだけ、こうしてても…いい?」
「は…い。」
「落ち着いたら、病院いこう…。」
「はい、もちろんです。」
「…ありがと。」
「…私の方こそ、ありがとうございます。」

不安を隠しきれなかった。
けれど、体を預け合うことで心が落ち着いていく。
椿が言った『ありがと』の言葉が嬉しくて、すぐに周りの人間の心境を察することのできる年長らしさが頼もしくて。
互いが落ち着いてから2人は病院へと急いだ。



結局、梓はしばらく入院することになった。
2日ほどすれば容体は安定するらしく、汐音は少し安心した。
椿は梓の顔が見られないことに不安が募ったが、絶対安静…すなわち面会禁止と言う雅臣の言葉に従うしかなかった。
面会できるようになったら一番に椿に会わせるから、という雅臣の言葉を信じて。


2015.09.24. UP




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夢幻泡沫