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それは、甘い
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かたかたと小気味よく音を鳴らしているのはぱそこんと言うらしい。
布団の中から見上げるまりは、随分と真剣な表情でそれと向かい合っていた。
めがねをかけており、いつもと違う。
それは何だと問えば、ぱそこんなるものは長時間使っていると目を酷使するらしい。
なんでも、見えないけれども目に悪い光が出ているとかで。
それを軽減するためにかけるのだとか。
そのような体に悪いものなど、使わねばよいだろうに。
だが、ぱそこんを使う事で執務の効率が格段に速くなるらしい。
やはり、こちらの世は我がいた世より進んでおるようだ。
ぱらぱらと紙をめくりつつ、ぱそこんと見比べつつ、まりは同じ作業をずっと繰り返していた。
「…ん、まぁ…これでいいかな。」
「終わったのか?」
「取りあえずは、ね。ずっと電気つけててごめん。今日はもう私も寝る。下で寝る支度してくるから、松寿は寝ちゃっててもいいよ。」
ふぅ…と息を吐き出したまりは、ぐっと両腕を上げて伸びをした。
その時に漏れた『うっ』と言う情けない声には、聞こえぬ振りをしてやろう。
「なれば、早うせい。我を寝かすのであろう?」
「そうそう、寝てくださいな。ホント、無理はしないで。」
「無理も何も、病ではないのだから問題あらぬわ。」
「まあね。支度してくる。」
ぽん、と撫でられた頭が面映ゆい。
顔を背けてまりの温かな手から逃れれば、くすりと小さな笑みが聞こえてきた。
ぱたんと閉じた扉に、何とはなしに心が寒くなる。
何故であろう?
まりはすぐに戻ってくるであろうに。
それから我はまりと共に寝に就くのであろうに。
何故、心が寒いと感じるのだ…。
茫とそんな事を考えているとまりが戻ってきた。
「あ、起きてた?」
「ああ。」
「それなら、水分補給して。」
我の側に膝をついたまりが盆の上のこっぷを渡してくる。
言われるままに飲み干せば、少しだけさっぱりとした心持ちになった。
「さ、寝ようか。ホントにベッドに来なくていいの?」
「よい。」
「一緒に寝たかったのになぁ。」
「慎みを持たぬか。」
「はいはい、失礼しました。」
…貴様、我を小馬鹿にしておるな。
軽い口調に眉尻がひくりと動いたが、まりはそれに気づかずに部屋の電気を消した。
「いっぱい寝たら、明日にはきっと熱も下がってるよ。」
「…そうだな。」
「でも心配だから、明日のお日様の参拝はお休みね。」
「そのような戯言は聞けぬな。」
「冗談じゃなく!それでまた体調を崩しちゃってもイヤでしょ?」
「日輪の加護がある故、問題ない。」
「何でそんなにお日様を崇拝してるのよ…。」
小さく息を吐き出し、まりが零すように聞いてきた。
そのようなもの…。
「家臣の屋敷にて、大方(おおかた)様と共に聖上人から念仏の大事を教わったのだ。」
「大方様って…杉の大方のこと?松寿のお義母さんだよね?」
「そうだ。大方様がおらねば、我は今ごろ生きておらぬだろうて。その大方様が拝しておられるのだ、我がせぬ道理などない。」
「なるほどねぇ。」
「…まりは大方様の事も知っておったのだな。」
「まぁ…この世界の杉の大方のことを少しだけど。」
「そうか。」
「松寿にもいたんだね、そういう人が。」
「そういう?」
「うん、無償の愛って言うの?見返りを求めずに接してくれる人。こっちの松寿丸は、あなたぐらいの時には両親が病没しているって伝わっていてね。杉の大方が毛利家に留まって、幼い松寿丸を育て上げたって。」
「…ふん。」
「松寿がどんな生き方をしているか分からないけど、支えてくれる人が松寿にもいて良かったなぁって。さっき聞いてて思った。」
「…」
「ここにいる間は、私は代わりだと思ってね。杉の大方みたいに立派じゃないけど。」
ごそりと音がした。
まりが体をこちらに向けて、我を見る。
暗がりに光っている瞳が優しく細まり、まりはふっと笑いながら言った。
「…貴様に大方様の代わりなど務まらぬわ。」
「…厳しいお言葉で…」
「貴様は貴様であろう。無理に大方様を真似ようとしなくとも、それこそ『まりらしゅう』しておればよいのではないのか?」
「松寿…」
驚いたのか、まりの瞳が大きくなる。
何故だ?
我は間違った事など言っておらぬ。
「松寿がデレた…っ!松寿が優しいっ!きゃあっ!!」
「喧しいわっ!!」
枕に顔を埋めきゃあきゃあ騒いでおるまりに、思い切り眉が寄る。
貴様、寝るのではなかったのか!?
我の心配をしているのではなかったのか!?
大声を出すでないっ!
「もうよいっ!我は寝るっ!!静かにしろっ!!」
「…はぁい。おやすみ、松寿。」
堪え切れない笑いと共に、まりが『おやすみ』と声をかけてきた。
それを合図に目を閉じれば、暫くして聞こえてきたのは微かな寝息。
寝つきがいいものだ。
疲れておるのだろうか…。
薄く目を開けまりを見ると、こちらを向いたままでいた。
女が何の警戒も抱かずに眠るのは、親兄弟の前ぐらいではないのか?
一体、我を何だと心得ておるのだ。
無防備な寝顔に腹が立ったが、なぜか同時に安心する己もいた。
…まりと大方様は違う。
まりに大方様の代わりなど求めていない。
まりはまりであればよい。
そのまりが望むのであれば、我は応える事にしよう。
梵天丸や弁丸のように、あそこまで己を曝すことはできぬが。
取り繕うことなく、我は我のままで…。
そう心を決めれば、口の端が自然と上を向いた。
我は我のまま。
言うたのはまりぞ。
我は応えるのみ。
この『大方様と共に聖上人から念仏の大事を教わった』のは、史実では11歳らしいです。
…まあ、そのような瑣末なことは気にするでないと松寿丸様が仰っております。
2018.10.01. UP
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夢幻泡沫