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それは、甘い
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私は今、非常に困っています。
なぜならば…
「ねえ、お姉ちゃんってば〜。」
…私はあなたのお姉さんではないし、そもそも知り合いでもないでしょ!?
週末、持ち分の仕事が終わって帰り支度をしていると。
先輩がものすごく迷惑そうな顔をしていたから、どうしたんですかと声をかけてみた。
すると、その時間になって仕事が一件飛び込みで入ってきたらしい。
しかも急用の案件。
いつもの先輩なら『無理だ』の一言で期限を伸ばすんだけど、どうもこれはそうもいかないみたいで。
だけど、先輩はこれから用事があるとかで。
「それなら、私が草案を作ってみます。」
なんて、いつもお世話になっている先輩の役に立ちたくて言ってみた。
ところが案外ややこしい内容だったものだから、どうにか終わらせたものの帰りがかなり遅くなってしまった。
週末の終電近くともなると、車内は疲れ果てた人や赤ら顔でフラフラしている人が多く。
私の隣に座った人もお酒のにおいをプンプンさせて、相当飲んできたのだろう。
自分の世界に入っていますよってイヤホンでアピールしている私に、事もあろうか絡んできたのだ。
ひたすら聞こえない振りをしてその人が降りるのを望んでいたのだが、いつまで経っても降りやしない。
まさかこのまま終点まで一緒ってことはないよね…?
そういう嫌な予感は大概当たるもので。
まばらになった車内の中、不自然に私とその男だけが隣り合って座っていた。
いや、乗客が少なくなってきたら私も席を移動したんだよ。
でも…その酔っ払いもなんでかついてきて。
「お姉ちゃん!俺、今日いい事あったんだよね〜!一緒に飲まない?」
と、しつこく、しつこぉく誘ってきた。
こういう人ってどんな答えでも絡んでくるのが分かり切っているから。
もうホント、ガン無視。
音量を大きくして、音漏れさせて。
耳が痛いってくらい大きくさせたのに。
何で諦めないかなぁ!?
周りにいる人達も、みんな見て見ぬ振り。
そりゃそうだよね。
私もこういう現場に出くわしたら関わりたくないもん。
酔っ払いのしつこさとお酒のにおいで毎日乗っているはずの電車に悪酔いしてきた頃、ようやく終点に着いた。
さっさと離れようとすっと立ち上がった私の横で、酔っ払いと思えない機敏な動きでその人も立ち上がる。
…そこは、立ち上がれずに足をもつれさすのがテンプレじゃないの?
なんて心の中で悪態をつきながら改札を目指す。
鉄道業界最大手路線を使っているから、どんなに都会から離れていても改札は自動。
ピッとICカードをかざしてすり抜ける。
後ろについてきている酔っ払いの手にある彼のICカードを奪いたい。
遠くに投げてしまえばこんな面倒な事ともサヨナラでしょ?
と思うくらいに気分は悪かった。
続けて通り抜けられるかと思ったら、たまに聞く音と音声案内。
…あの人、この駅を使っているわけじゃないんだ。
え、それならこれからどうするつもり?
電車の本数、もうそんなにないよ?
自分の家に帰れるの?
他人事ながらそんな心配をしてしまう。
だけど、ようやく離れられた事に一安心して小さく息が漏れる。
さっさと家に帰ろう。
そして飲むんだ!
そう思った時だった。
「お姉ちゃん、見〜っけ!」
ポンと肩に置かれた手に、背中がゾクリとした。
鼻はさっきまでの不快を嗅ぎつけていて。
「…離してください。」
思わずパシリとその手を撥ね退けてしまった。
振り返ればへらへらした酔っ払いがすぐ後ろに立っている。
思い切り顔を顰めてその男を見た。
あんたなんかお呼びでない、離れてくれませんかねぇ。
そんな気持ちを込めてわざとらしく一瞥した後で、冷たく言う。
「しつこいです。」
「そんなこと言わずにさ〜。」
「お断りします。ついてこないでください。」
「一軒!一軒だけ!一杯だけ!!」
「迷惑です。」
「ちょっと〜!!」
…何だろう、このポジティブさ。
そんなの見ず知らずの女に使うことないのに。
呆れて溜息をついていた私に、酔っ払いは肩を組んできた。
「ちょっ!?いい加減にしてくださいっ!」
「お姉ちゃんこそ、いい加減俺に付き合ってよ〜!」
「付き合う義理も義務もないでしょ!迷惑だって言ってるんです!離してっ!!」
「そんなツレなくしないでおくれよ〜!」
「いいから離して!警察呼びますよ!?」
らちが明かない。
とにかく離してほしい一心で体を捩じるが、なかなか思い通りにいかずに息が乱れてくる。
「…ちょっと、そこのお兄さん。彼女に何してんの?」
その時、暗がりから低い声が聞こえてきた。
他にはトラブルを起こしているような人達はいないから、おそらくこの酔っ払いを咎める内容の攻撃的な声。
「分からない?そこのお兄さんだよ。彼女、嫌がってるでしょ。離しなよ。」
「…っ!」
声と共に姿を見せたのは猿飛さんで、あっという間に距離をつめて男の手をねじり上げる。
「まりちゃん、おかえりなさい。」
「あ…ただいま、です。」
「念のため確認するけど、こいつ知り合い?」
「いえ、全く…」
「だよね。ねえ、お兄さん。この子、俺様の大事な子なんだけど。何の用?勝手に触らないでくれる?」
「…おまえに関係ないだろ…」
さっきまでの勢いはどこへ行ったのか、酔っ払いの顔は真顔になっていた。
酔った時とは別の赤い顔をして腕を引っ込めようとしているけど、猿飛さんが握ったまま。
猿飛さん、あまり力を入れてないように見えるんだけど…。
何はともあれ、助かった。
「お兄さん。この人、怒らせると怖いから素直に言う事を聞いた方がいいですよ?」
「もう怒ってるけどね。まりちゃん、嫌なことされなかった?俺様、どうすればいい?」
猿飛さんの言葉に、男がビクリと私を見る。
「…嫌なことは、まあ。でも、もう会う事もないから大丈夫ですよ。ね、お兄さん?」
「あ、ああ…」
「猿飛さん、どうしてここに?」
「明日の食材の買い足し。まりちゃんがなかなか帰ってこないから、駅まで様子を見に来るついでに。」
「私、明日のおみそ汁は油揚げとお豆腐と長ねぎがいいです。」
「油揚げはないかな〜。」
「油揚げは絶対です!もう一回、スーパーに行きましょう!」
するりと男から離れ、見せつけるように猿飛さんが持っているビニル袋を覗きながら甘えた声を出す。
一緒に暮らしている事が分かる会話をしたから、たぶん恋人同士だって勘違いしてくれるでしょ。
猿飛さんもすぐに状況を把握してくれたのか、仕方ないな〜なんて言いながら私の手を握ってきた。
…何で恋人繋ぎなんて知ってるの。
「分かったよ。行こうか。」
「はい。」
茫然と突っ立っている酔っ払いをそのままに歩き出す。
小気味いい、なんて感じてしまったのは内緒。
2018.10.08. UP
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夢幻泡沫