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con amore
39
星奏学院に入学してから、最後の試験で弾く曲はずっとこれだと決めていた。
それを最後に私は音楽から離れなくてはいけない。
だから、しっかりとけじめをつけたかった。
試験本番では、自分でも思った以上の結果を出せた。
弾いていて感情が溢れそうになった。
入学した時のドキドキやワクワク感。
けれど期限付きの音楽科生活に、初めからあった諦めの気持ち。
不定期のために伝説的存在だった学内コンクールの突然の開催。
そこで聴いたレベルの高い曲の数々。
ピアノだけではない、色々な楽器の音色に包まれた幸せな時間。
土浦先輩との出会い。
思いが通じ、共に過ごし、すれ違い、避けて…
3年間の思い出を最後の1音にまでのせれば、弾き終わった時には鼻の奥が痛かった。
鍵盤から指を下ろし閉じていた目を開けると、視界は滲んでいる。
でも、耳に入ってきたのはたくさんの拍手と『bravo』の歓声。
本当に終わりなのだという苦しさと、自分でも満足できる演奏に緩む頬。
悔いはなかった。
卒業試験の演奏は、集大成とも言えるべき演奏だと自負できる。
学院で弾くつもりはもうなかった。
だが…もう一度、公演のチャンスに恵まれた。
静香は目の前にある楽譜をパラリと捲りながら思いに耽る。
今日は学院生のためのオープンキャンパスが付属大学である。
ほぼ3年生全員がそちらに行っているため、行く必要のない静香は一日中練習室に籠ることができる。
在校生達も今は授業中だ。
静香は心おきなく練習室を独占していた。
「お前の演奏、苦しいな。」
好きな曲を思うように弾いていれば、ガチャリと開いたドアと久し振りに聞く声にビクリと肩が揺れる。
そして、覚えのある言葉にも…。
「…なにかご用でしょうか、土浦先輩。」
「いや、急に悪い。すげぇいい音なのにそんな演奏する奴の顔を見たくなったんだ。」
「…そんな演奏、ですみません。ここは今日一日、私が練習用に抑えている場所ですが?」
グラリと頭が揺れ、思わず眉が寄ってしまう。
動いたらダメだと直感的に思った。
「悪かったって。もう出ていくから。…よかったらまた聴かせてくれないか?お前の音、嫌いじゃないぜ。」
ピアノ越しに辛そうな眼差しが見えた。
それは懐かしいとさえ思ってしまうもので…。
「…お久し振りです、土浦先輩。」
「ああ。」
「何かご用でしょうか?」
「…冬海から聞いた。大学、合格したんだって?」
「はい。」
「おめでとう。」
「ありがとうございます。」
「受かった時に連絡ぐらい欲しかったぞ。」
「…すみません。私から控えたいと勝手なことを言ったので、連絡を取りにくかったんです。おかげ様で、第一志望に受かりました。」
「…」
「土浦先輩。ご用がなければ、練習を再開したいんですけど。」
「用、か…」
「…」
「…なあ、静香。俺はお前と別れたつもりはないぜ。」
土浦の言葉に、静香がピクリと瞼を動かす。
「受験、終わったんだろ?第一志望にも合格した。なら、元のようにまた過ごさないか?俺は…」
「…我が儘を言ったのは私です。愛想を尽かれてもおかしくないのに…なんで…?」
「静香のことが好きだからだ。言ってるだろう?ずっとお前が好きだって、ずっとお前の音を聴いてやるって…惚れてるんだよ、静香に。」
「っ…でも、私…」
「…俺のこと、呆れたか?女々しいか?嫌いに…なったか?」
「…」
「大事にする。本当に静香だけを…愛してるんだ。」
「…嫌いに、なんて…」
近づいてくる土浦に、椅子から腰を上げた静香の足が後ずさる。
体が小刻みに震えてうまく立てているのかさえ分からない。
「私、は…わ、たし…」
「…嫌なら拒絶してくれ。俺なんか見たくもないときっぱりと言ってくれないか?でないと、俺…」
包まれた温かさに眩暈がする。
懐かしい匂いに胸が震える。
「静香が好きだ。静香とずっといたい。こんな風に思えるのは静香だけなんだ…」
「…」
「頼む、俺の隣に…」
「…つまらない嫉妬して…土浦先輩のこと、困らせたのに…」
「不安にさせたのは俺だ。もうそんなことしないと約束する。」
「ごめん…なさい…ごめんなさい…」
「…」
「…まだ先輩が…好、き…なんです…」
「静香…?」
「お勉強だって分かっていても…先輩が都築さんと毎日会っているのがイヤで…でも言えなくて…」
「ああ、俺が悪かった。」
「自分ではどうしようもなくて…先輩を遠ざけて…でも、まだ先輩が…好き、なの…」
「静香…サンキュ。」
「…我が儘でごめんなさい…」
「こんなの我が儘のうちに入らないだろ?俺が悪かった、もっと静香のこと考えるから…俺の隣にいてくれ。」
「…はい。」
手で顔を覆い涙声になっている愛しい人を精一杯抱きしめる。
もう離さない。
もう逃さない。
どんなことがあっても静香だけは俺のものだ。
決意をしっかりと腕に込める。
泣き崩れそうになる彼女を支え、土浦は優しい口付けを何度も落とした。
2016.08.29. UP
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夢幻泡沫