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con amore
40
今日でこの制服を着るのも最後。
静香は噛みしめるように袖を通す。
真っ白いブレザーに青のリボンを結わく。
カバンに楽譜を入れて玄関を出れば、表札のところに土浦が寄りかかっていた。
「よう。」
「おはようございます、土浦先輩。どうかしたんですか?」
「いや、お前のその姿も最後だと思って。一緒に登校しようかと思ったんだ。懐かしいな、去年までやってたことなのにな。」
「そうですね。でも先輩、学院まで行ってどうするんですか?」
「は!?静香の演奏を聴くに決まってんだろ?」
「えっ…でも、基本的に在校生しか入れないですよね?」
「そこは金やんに頼む。てか、コンクールメンバーはきっと通してもらえるぜ?火原先輩達も聴きにいくようなこと言ってたし。」
「そんなものですか?まあ、志水君も笙子ちゃんも出ますからね。私の学年ではやっぱり志水君が大トリかな。」
「あいつの音楽は天性のものだからな。冬海も音に自信が出て聴き映えする音になったし楽しみだ。だが…やっぱり静香の演奏が一番楽しみだな。」
「土浦先輩…」
「志水と冬海が絶賛していたんだ。期待しているぜ?」
ニヤリと笑い静香のカバンを持つと、土浦は空いている手を差し出した。
その手を静香が握れば、違うだろと指を絡められる。
「指、少し冷たいな。学院に着くまで俺のポケットの中でいいだろ?」
「でも…」
「いいから。ほら、行こうぜ。」
少し乱暴にポケットへねじ込んだ土浦の顔を見れば、ほんのりと頬が色づいている。
静香も気恥ずかしくなって、俯き加減に歩いた。
こうやって学院に登校するのも、もう最後なんだ…と思いながら。
「素敵だね、吉隠ちゃんの演奏…」
シンと静まる講堂に広がっているのは静香の世界。
3年間の全てを注いだ最後の演奏に、あちらこちらから息をのむ音が聞こえてくる。
「切なくて、苦しくて、忍び泣きたくなる。でも…とても甘い。『メランコリック・クイーン』は彼女の永久欠番になりそうだね。」
「うん、こんなに甘い音を出すようになったのって…土浦のおかげだろ?」
「…だといいんですけど。」
「ショパンはこの曲に故国への愛を込めたって言われているけど、吉隠さんの演奏はピアノに対する愛…いや、土浦君に対するものかもしれないね。」
「…」
「土浦、愛されてるじゃん!」
「…もうやめてください。」
「土浦が照れてるー!」
肘でつついてくる火原を押し返しながら、客席の片隅で土浦は静香の音をじっくりと堪能する。
ショパンが、『一生のうち二度とこんなに美しい旋律を見つけることはできないだろう』と言った遅いカンタービレ。
甘い旋律ばかりだけでなく中間部にショパンならではの激情的な部分を併せ持つ、叙情的で美しい曲。
音楽を恋い、親しみ、続けるために抗い、最後には自分で幕を引いた静香にぴったりだと思う。
彼女のこれまでの人生が凝縮しているようで、聴いていて苦しくなる。
辛い時に側にいてやれなかったどころか、自分がその辛さを膨らませてしまったことが悔やまれる。
けれど火原や柚木が言ったように、泣きたくなる中にも極上の甘さが含まれていて…。
それが音楽に対しての彼女の愛なのか…自分に対してなのか。
自分に対してならどれだけ嬉しいことか…。
口元に緩弧を描きながら慈しむようにピアノを奏でる静香の目元は、ほんのりと揺れているように見える。
大切にする。
絶対に、これからずっと大切にする。
静香も、静香が作る音も、世界も。
土浦は心中でしっかりと決意すると、彼女の最後の演奏と共に刻み込む。
…この日、静香は音楽と離れた。
2016.09.05. UP
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夢幻泡沫