唐沢克己は現ボーダーの設立に関わっているものの、ボーダー本部の施設や軍事的な側面については詳しくない。もちろん営業部長として外部に説明する程度の知識は持っているが、それとこれとは別である。職務が外務・営業であるからなのだが、最近ボーダーに組織以上の、仕事を越えた興味が出てきたので時間があれば本部内を歩き回っている。とは言っても営業活動で遠方に出張している日数も多いので、本部に顔を出すのは殆どが会議に参加する為なのだが。
 両側には同じような扉が等間隔で延々と続く代わり映えのしない廊下を歩いていると、ふと前方に人影が見えたので自然と速度を落とす。後ろめたい事がある訳ではないがつい物音を立てないような足の運びになった。
 ゆっくり近づいて行くと、どうやら人影は、本部長補佐の沢村響子とB級の東隊の隊長である東春秋が立ち話をしているらしいのが分かった。この二人は年齢が近いからかよく話しているところを見る。それなら仲間に入れてもらおうと、二人に声を掛けようと思ったその時、唐沢は廊下で妙に気になる物を見つけた。
 数メートル先にいる二人はこちらに気が付いていないのか、背を向けたままである。ふうむ。唐沢はある部屋の前で立ち止まると、躊躇なくその部屋のドアノブを掴んだ。鍵が掛かったそこはガチャガチャと音さえなれど、扉が開く気配はない。唐沢も施錠されているのは想定内だったので、鍵穴のついた丸いドアノブから手を離すと、一歩下がって部屋の大体の大きさを推し測った。隣の部屋の面積を考えれば、そう広くはなさそうだ。それにしてもシリンダーキーの扉だなんて、カードキーや生体認識が主流のボーダーの設備では珍しい。
 この部屋は何の為に作られたものだろうか。
「この部屋って使えないんですか?」
ドアを片手でコンコンとノックしながら二人に話し掛ける。二人は一瞬顔を合わせた後、早足でこちらにやって来た。
「唐沢さんはご存知ないんですね?」
ここにいる三人以外に人間の気配はないものの彼女は声をひそめた。
「何か曰く付きで?」
沢村の対応に何かあるのは理解したものの、傍目からは特に目立った違いは見えない扉の並びに唐沢は首を傾げた。
「元々特別な部屋ではないんです。普段使わない資料や古いデータの保管室だったんですけど……」
不思議そうな唐沢の様子に、沢村は難しい表情をした。
「丁度ボーダーの人数が増えた頃だったのですが、誰かが鍵を紛失してしまったんです」
「でもそれならドアを付け替えればいいだけでは?」
さも当然だとばかりに、ばっさりと言い切った唐沢に彼女は曖昧に頷いた。
「そうなんです。というか、最初は滅多に使わない部屋なので鍵が無くなったのも気がつかなかったんです。それで気がついた後も、本部の増築に合わせて修繕してついでに不要な資料を片付けよう、という話になっていたんです。……だったのですが」
そこでまた彼女は言い淀んだ。彼女の表情を窺うと、この先を話すのは憚られるというよりは、どう説明していいか分からないみたいだった。それで東が代わりに後の説明を引き受けた。
「最初は開かないはずのその部屋の扉が少し空いていたのを見たと言った隊員が複数名出ました。そしてその内に扉が開いているのを見た人間が、部屋の中へ入ったのは良いものの一向に出てこない。なんて、噂されるようになったんですよ」
東は苦笑しながら言った。小学生の時に学校にこういう怪談があったようなと記憶を探り、ボーダーにも七不思議があるのかも知れないなと思った。例えば訓練室に現役のボーダー隊員ではない見知らぬ人間が混じる事があるとか、と現役を引退して幾分見た目が変化した彼の事を思い出して笑った。
「んん?でも事実ではないのでしょう?」
「もちろんです。本部の建物の中での行方不明者なんて出ていません」
「ただの噂でしたが、その時の本部はあんまり良くない雰囲気でしたね。それで鬼怒田さんがさっさと壊して部屋を潰してしまえって言ってたんですが、城戸司令がわざわざここまで扉を見に来て『この部屋はこのまま封鎖する』って言ったんです」
なるほど。それでこの扉だけ周りの部屋と違うのか、と唐沢は納得した。
「一般の隊員はここまで来ないのでいつしか噂も聞かなくなりました」
安堵のため息を漏らす沢村が、この話は内緒ですよと唇に指を当てて言う。
「二人は開いているのを見た事が?」
「いや、ないですね。そもそも何か異変が起きる為の『曰く』が無いですから」

 そこで会話が途切れたので、歩き出す二人の数歩後をついて行く。数メートル歩いた所で、三人分の足音とは別に「コンコンコン」とドアを叩くような音がしたので、思わず振り返った。
 先程まで話題になっていた、開かずの部屋の扉が数センチ開いているのが見える。唐沢は声を出さずに眉を上げた。
「唐沢さん、どうかしました?」
 急に立ち止まったせいか、沢村がこちらを心配そうに見ている。二人の位置からも扉が見えるはずだが、彼らが異変に気が付いた様子はない。唐沢は黙って扉の隙間にある漆黒の闇をジッと見つめた。しんと静まり返る廊下でカリ、カリ、と何かを引っ掻くような小さい音が耳の中で直接鳴る。
「いえ、なんでも」
 ドアの隙間から白い指が緩慢な動作で床を引っ掻いているのが見えた。あれはドアを開ける事は出来ても、部屋から出る事が出来ないらしい。換装体の東にも生身の沢村にも見えないそれは、近界民などでは無さそうだ。
 再び歩き出した唐沢に、前の二人も雑談を再開する。玉狛支部にすごい新人が入隊したと言う噂だ。唐沢もそちらの話に興味を覚えて意識をそちらに移した。
 唐沢は開くはずのない扉が「ガチャン」と、音を立てて閉じたを背中で聞いた。

出られない部屋/了