スナイパーはアタッカーと違ってB級に昇格する為に個人ポイントを集める必要はないが、マスタークラスになる為にはアタッカーと同様に個人ポイントが八千点以上獲得しなければならない。
夏目出穂は合同訓練の前にスナイパーの昇格についての注意事項に目を通していた。個人ポイント八千点なんて果てしなく遠い目標にため息が出る。特に桁違いのトリオンを持つ少女を知っていると尚更だ。彼女のトリオン量について知らない同期はいない。隣にいると才能がもたらす結果を間近に見ていて平気な人間はいない。チカ子の努力や目標に加えてさらに境遇を知っているので妬む気持ちはないし、むしろ彼女を心配する気持ちの方が大きいのだが、それとこれとは別の話である。昇格について考えていたはずなのに、いつの間にか彼女の事で頭がいっぱいになっていた。
頭の中ではチカ子の事を考えながら訓練場で空席を探していると、アタッカーを含む中学生のうちトップの個人ポイントを持つ絵馬ユズルを見つけた。ユズルは入隊時期も違うのだが、彼もまた才能の持ち主だったなと先輩たちが褒めていたのを思い出す。精密な射撃をするのに、的に図形を描く柔軟な思考も持っている。出穂は的を狙うだけで精一杯で息を吐く余裕さえないというのに。彼女も彼も師匠がいるので自分も誰かに師事した方がいいのかも知れない。
「よっ、ユズルじゃん」
「今日は早いんだ。雨取さんは?」
「玉狛寄ってから来るって。ねえ、チカ子からなんか聞いてる?」
「なんかって、何?」
ユズルは夏目から荷物を受け取ると自身の隣のレンジの中へと置いた。それから記憶を辿り、雨取さんには前回の合同訓練以来会っていないのを確認した。本部所属だったらもう少し会えるのにな、と頭に浮かんだ妄想を振り払う。彼は彼で雨取さんと学校が一緒の夏目が羨ましいと思った。
「この前さ、自然公園で美術の授業があったんだけど」
「どういうこと」
まさか学校の話をされるとは思わなかったので、心の声が漏れていたのかと顔には出さず驚く。
「ユズルのとこはないの?風景の絵描くヤツ」
「写生?」
「そうそう」
夏目はユズルの変化に変化に気が付く事もなく話を続けた。それで自身の早合点だと気がついた。
「あるけど、学校の敷地内からは出ないよ」
「ふうん、学校によって違うんだ」
「で?」
まだ集合時間までに時間があるからか、射撃場には人がまばらだ。時折自主練を始めた人の弾が的に当たる音がする。
「みかどの森公園って行ったことある?」
「いや、名前だけは聞いた事あるけど。山の方にあるやつでしょ?」
「たぶんそれ。アタシも小さい頃家族で行ったきりだったんだけどさ」
そうやって夏目は、その日の出来事を話し始めた。
◇◇◇
絵を描くのはあまり得意じゃない。出穂は目の前に広げた画用紙の、どこかアンバランスな鉛筆書きの風景画のスケッチを見てため息を吐いた。さっきやって来た見回りの先生にアドバイスを求めたけれど、「よく観察する事だな」と返されてしまった。多分ちょっと手を加えた所では軌道修正が出来ないのだろう。思い出してまたため息がでた。午後の授業は二時間続けて美術になったので今日はこれで終わりだ。早く本部に行って練習がしたい。決まった師匠は居ないが、スナイパーの先輩たちがアドバイスをしてくれるのが嬉しくてやる気が出たし、昨日の感覚を忘れないうちに復習がしたかった。
ひゅう、と風が音を立てて通り過ぎる。公園に着いた頃はぽかぽかして暖かかったのに、陽が傾いた今は風が吹くと寒いくらいだ。そろそろ集合時間になるのに、チカ子がお手洗いに行くと席を立ってからまだ戻って来ない。彼女が戻ってくるまでにこの絵をどうにかするのを諦めて、迎えに行くことにする。広げた荷物を纏めながら、チカ子が向かった方へ視線を向けた。ここから見える背の高い木々から突き出た屋根の方へ歩けば駐車場とトイレがあると言っていたはずだ。
木々を抜けると、広場から少し離れたせいかさっきまで賑やかだったクラスメイトのお喋りや笑い声が聞こえず、自分だけがこの公園に置いてかれた気分になる。人の気配がなく、夕暮れに近付いたオレンジ色の光があたりを照らすので、自然豊かな公園がうら寂しい場所へと変わった。
出穂は心細くなって、前方にある建物に向かって足を早めた。その建物に近付くと管理棟だと思っていた背の高い建物は、どうやら展望台らしかった。鉄が網目状に張り巡らされてタワーを形作りその上に円形の展望室がついている。
こんなのもあったんだなと、上ばかり見ながら歩いていると、展望台の足元に探していたチカ子の背中が見えた。会えた事に安堵したが、こんな所で油を売っている彼女を不審に思う。そんなに展望台が気になるのだろうか?ガラス張りの展望室を見上げたまま彼女は、石像のようにじっとしている。
「チカ子?」
名前を呼んで近づく小さな背中がびくり、と跳ねた。
「ここ展望台なんてあったんだね。もしかして登りたい?あ、でも券売機があるから有料か」
展望台の建物は、一階部分もガラス張りになっていて受付の様子が外からでも分かった。カウンターの上にはパンフレットと思わしき冊子が置いてあり、中央にエレベーター、左に階段、右にトイレがあった。壁になっているガラスの足元には何だか分からない植物の鉢植えがいくつも並んでいる。目に力を入れて細めてみても、カウンターの中に人が居るかどうかはわからなかった。
「出穂ちゃん早く戻ろう」
ぎゅっと握られた手のひらはとても冷たかった。身体が冷えるまでずっとここに立っていたのだ。チカ子を迎えに来たのはアタシなのに、何故かアタシは展望台が気になって仕方がない。どうにか中に入る事は出来ないのか、と入り口をさがしている自分に驚いた。だって、もう学校に帰らなければならないのに。
ぐいぐいと力強いチカ子の腕に引っ張られて思わず二、三歩よろける。どうしてもここを去りがたくて足が展望台の方を向く。その時どこからか見られているような視線を感じた。
「見ちゃダメ!」
悲鳴にハッとして視線を戻すと、いまにも泣き出しそうな声でチカ子は再び戻ろう、と言った。
「そだね。先生怒ってるかも」
チカ子に痛いほど強く手を握られたまま広場に向かうと、やはり私たち以外の生徒は既に集合して待っていた。それなのに、遅れた私達は怒られることなく、何事もなかったかのように学校へと戻ることになった……。
◇◇◇
「……んだけど、それで何が言いたかったんだっけ?まあいいや、今度みんなで遊びに行かない?」
最後の方はもにゃもにゃと言っていた夏目だったが、ひとまず話し終えてスッキリしたようだ。勿論、防衛任務やランク戦がなければ休日に出掛けるのは構わない、と思う。
「展望台?おもしろそうな話やね〜」
「わ、隠岐先輩!」
背後から聞こえた関西弁に夏目がびっくりして振り返ると、隠岐が背後に立っていた。
「それってどこにあるん?」
「本部から結構遠いっすよ」
二人は公園への行き方の話から公園の施設の話———子供用のアスレチックがあるとかバーベキュー場があるとかに移っていった。夏目の話を聞いて伝えたい事があったはずなのに、それが喉に引っかかって出てこない。
ゾワゾワっと急に寒気がして背後を振り返る。もちろん誰もいなくて、そこにあるのはひとつだけ空いたレンジと壁だけだ。それなのに誰かに見られている気がした。誰かの良くない視線じゃないといいが、ボーダーは強さに順位がつくから妬みや嫉妬による隊員同士の諍いもある。カゲさんだったらこの視線の感情もどこから向けられているのかも分かるのに。
なんだか落ち着かない気持ちで夏目と隠岐先輩を眺めていると、気怠そうな足音と共に当真さんがやって来た。頭に乗っていた猫がひらり飛び降りると、空いていたレンジから壁へ向かってにゃあ、と一声鳴いた。こいつも壁が気になるらしい。
「当真さん、みかどの森って知ってる?」
「あ?あー、あそこってまだやってんの?」
「みたいだよ。夏目と雨取さんが学校の授業で使ったって」
「ふーん、アレだろ。直す金がなくて木道とかなんとかタワーとか立ち入り禁止になってるとこだろ?」
「タワーって展望室のこと?」
その返事を聞く前に夏目が焦った様に口を挟んだ。
「えっ?!あそこ入れないんすか!?でも外から覗いた時、券売機とか植木とか普通にありましたよ」
「壊す金もないんじゃね。あ、東さーん。三門自然公園の展望室?ってまだやってるっけ?」
「ん?ああ、去年か一昨年に閉めたんじゃなかったか」
他のスナイパーと話をしていたのにも関わらず、東さんからはすぐに返答があった。
「なんや、残念やわ」
隠岐先輩が当真さんの頭に乗っていた猫を抱きながらにこにこと全然残念じゃなさそうな顔をで言う。
「確か市のHPにも書いてあったはずだぞ」
東はそれだけつけ加えると、そろそろ訓練を始めるぞと訓練場の中央へ戻って行った。
「ええ〜、じゃあ、チカ子なんであんなに見てたんだろう?」
「残念がってたんじゃないの」
「う〜ん、そうだったっけなあ」
また後頭部に刺さる視線を感じたと同時に隣にいた夏目が勢いよく後ろを振り返った。そのまま無言で背後の壁をじぃっと凝視している。ぎゅっと掴まれた腕が痛かったが、茫然自失したような夏目の姿にその手を振り解くのは憚られた。
いつもの彼女とは違う異様さに恐る恐る夏目の目に映っているものを探すが、視線の先には壁がある他には何もない。何があったのかと問う暇もなく、彼女は取り憑かれたかのように早口で捲し立てた。
「でも、チカ子は一階の受付部分じゃなくて、展望室を見てたんだよね。それで声をかけたらこっちを向いて、そのあとは絶対に振り返らなかった。アタシがいなくなったチカ子を探してたのに、逆にこっち嗜めるように「みんな集まってるから早く帰ろう」って言ったんだよ、あの子。……そうだ思い出した。あの時チカ子は何かに怯えていた。必死にあそこから逃げようとしていたんだ。
———アタシはあの時のチカ子の表情が忘れられない」
と、夏目は血の気の失せた顔で呟いた。
閉鎖された展望室で待つ/了