なんの変哲も無い金曜日の夜。
 三雲修は学校帰りに一度家に寄ってから玉狛支部へと足を運んだ。一度家に戻ったのは、明日明後日と学校が休みなので母親に支部に泊まり込む許可を得るためだ。家から支部まで通うのは難しいことでは無いのだけれど、どうしても移動に時間が取られてしまうし、ボーダーの情報を家に持ち出す事は出来ない。
 そうなると、寝るまで作業の出来る支部への泊まりの日数が増えてしまうのは仕方のない事である。それに関しては母親は難しい顔をしたものの、支部長に家族への挨拶をして貰ったり、先輩方を紹介したりして納得してもらった。いや、納得したと言うより諦めてもらったと言った方が語弊がないかも知れない。この議題に対する母親の最後の台詞は「あなたは言い出したか聞かないから。……後悔しないようにやりなさい」だったから。
 キッチンからリビングにかけてある時計を見ると時刻は九時半を過ぎた所だった。ランク戦のログを確認するだけでもあっという間に時間が過ぎて行ってしまう。飲み物を用意したら一度メモをまとめ直そう。
「なあ、オサム。シンレーゲンショーって知ってるか?」
「え?」
 突然の空閑の質問に顔を上げると、マグカップに注いでいたお湯がキッチンの台へと逸れてはねた。
「うわっ」
「わあ、修くん大丈夫?」
「すみません。少し溢れただけなので大丈夫です」
「火傷してないなら良かった〜。遊真くんもコーヒーでいい?」
「ん〜〜」
 同じくキッチンにいた宇佐美先輩は、インスタントコーヒーを二つ作るとカップを持ったまま空閑の隣に座った。
「こら、先輩にやらせるなよ。宇佐美先輩は作業中だったんじゃないんですか?」
 視線をテレビに固定したまま無言で先輩からカップを受け取る空閑に、お礼も言わないなんておかしいなと思いつつ注意を促す。普段とは違う様子に首を捻りつつも、こちらへ来たばっかりの時は陽太郎と一緒に熱心にテレビを観ていたなと懐かしくなった。
「休憩すると作業効率が上がるんだよね」
 空閑に話し掛けていたものの飲み物を取りに来ただけだったので部屋に戻るつもりだったのだが、宇佐美先輩が空閑と反対側の空いている場所をぽんぽんと叩いてにっこりと笑った。休憩していけ、と言う事らしい。言われるがままソファーに体を預けると、思ったより疲労が溜まっていたらしくドット疲れが襲ってきた。
「なるほど。遊真くんはこれを見ていたんだね」
 宇佐美先輩は頷きならがテーブルの上にあるチョコレート味のクッキーの包装を解いた。差し出されたそれを一枚掴んで齧るとじんわりと甘さが口の中に広がった。糖分が直接脳へ運ばれていく気がする。眼鏡を外して眉間の間を揉むとため息が漏れた。今日は早めに寝た方がいいかも知れない。
 再び眼鏡をかけてテレビに視線を移すと「実録」と銘打った怪談の特集が放送されている。ふたりに倣って画面を見ているとおどろおどろしい音声で物語の導入が始まった。「あるマンションの一室では毎日午前零時から二時の間に、ぱこんと郵便受けが鳴るらしい」「Aさん一家は他の住人によるいたずらだろうと思って特段気にしていなかった」「しかしある日、自宅が曰く付きであると噂されているのを聞いてしまう」……と不安を煽ったタイミングでCMが挟まる。
「おまえがこう言うのに興味があるとは思わなかったな」
「確かに。遊真くんのいた場所にも幽霊っていたの?」
「ユウレイ?」
「ああ、そっか!えーっと、信じている宗教にも寄ると思うんだけどね。生きている人間には体があるでしょ?それだけじゃなくて、肉体とは別に魂っていう普段は目に見えない物が宿っているとされているのね。それで、亡くなった人の肉体から魂が離れてしまったのが霊。幽かな気配として残っているのが幽霊かな?……ごめん、アタシの解釈だから間違ってるかも」
 紙ナプキンに水滴で書かれた人形と小さな炎の様な形をした魂を険しい表情で空閑は眺めている。
「それって誰にでも見えるのか?」
「いや、ぼくは見たことないな」
 真剣な表情に思わずたじろぐ。見た事はない、はずだ。それならば幽霊はいないと思うかと聞かれると困る。幽霊を見たことがないし、心霊現象と名のつくものは何かしら説明が出来るものだとは思っているが、それと信じるか信じないかは別の問題な気がする。見えないからって居ないとは限らない、と言うのがぼくの意見である。
「アタシもないなあ。怖い話は好きだけど、信じてるのとはちょっと違うかな?でも、いるって思っている方がその分世界を作っているものに近づける気がするんだよね」
宇佐美先輩が悪戯っ子のように笑う。
「あ、こなみにはこの手の話はタブーだよ!前に[[rb:支部長> ボス]]が海に釣りに行って、水面からおいでおいでする白い小さいな手を見たって話をしたのね。それを聞いたこなみが……いや、遊真くんの先輩を勝手に貶めたらダメだね。でも大変だったんだよ〜。まぁ、支部長の話が嘘なのか本当なのか、はたまた波を見間違えただけなのか、分かんないんだけどね。……でも、小さい子どもの手だったって言ってたの、アタシは本当だと思うな」
 青ざめて宇佐美先輩に引っ付く小南先輩が鮮やかに思い浮かんで思わず苦笑した。きっと「全然怖くなんかないんだから!」と言うのだろう。
「それってその『手』は何しようとしてたんだ?」
空閑はいまいち話が掴みきれてないのかキョトンとしている。海から手が出ているのはビジュアルだけで結構怖い気がするのだが。
「多分、生きている人間を呼んでたんだよ思うんだよね」
「どこに?」
「自分がいる所、つまり死後の世界かな?」
これも死後の世界があると思うかにもよるのかなぁと宇佐美先輩は言った。
「それじゃあ、ついて行ったら死ぬって事?ユウレイって悪いやつ?」
「んん、難しい事を聞いてくるね。修くんはどう思う?」
 そう聞かれて、返事に窮する。幽霊に人間の善悪が通用するのかを考えないといけない。と言うか善悪なんて人それぞれなのではないだろうか。そう思っているうちに、青ざめた千佳が何もない場所を見て「なんでもないの」と言った時の事を思い出した。誰が見てもなんでもないとは思えない表情だった。千佳には悪いものや怖いものが見えていたのだろうか。
「なにか訴えたいことがある時に出てくるって言うから、一概に悪いとは言えないんじゃないか?」
「ふうん、じゃあいっか」
「なになに?まさか遊真くん幽霊見たの?」
宇佐美先輩が眼鏡を、いや目を輝かせながら上半身を乗り出して「こなみが聞いたら泣いちゃうから三人の秘密だね」と楽しそうに言った。
「ユウレイかは分かんないけど、雨も降ってないのにレインコート着てる女の人は見たことある」
「どこで見たんだ?」
 その時雨が降っていなくても備えとして着るのはそれ程おかしい事ではない、と思う。でも、空閑が異変を感じるくらいなのだから、余程目立ったんだろう。それなのに、ぼく自身はその人物に心当たりがなかった。もちろん空閑は本部所属の先輩たちと出かける事もあるので、いつも一緒にいるわけではない。それでもそんな話は聞いた事もなければその人物に心当たりもないなんて事があるだろうか。
「んー、最初は橋のとこ?雨が降ってないのに黄色いレインコート着てる人がいて、なんか変だなって思ってた。でも、誰も何も言わないし別にそういう人も居るのかなって。でも何となく気になるから、いつも通り過ぎる時にちらっと見るんだけど、フードを深く被っているせいで顔は良く見えませんでしたな。でも髪がぞろっと濡れたまま垂れてて、白い骨の浮いた足が女の人かぁって」
 いつもの調子であっけらかんと話す空閑の声だけが部屋に響く。レインコート晴れの日に着てるからって別に幽霊になる訳じゃないさっき思ったみたいに前日の雨のせいで備えているだけかも知れないし、ただレインコートを上着にしているだけかも知れない。そう思っているのに、ずっ、と部屋の空気が重くなった気がした。
「で、その人橋とか川とかその辺りによくいるよ。でも、絶対雨の日にはいない。それでやっぱりおかしいって思っててさ。でも雨の日じゃなくて雨が降った翌日にいるんだって気がついたんだ。そりゃそうだ。だからいつもレインコートの泥が生乾きなんだって」
 空閑の言葉はどこかズレていた。何がおかしいのかはわからないのに、彼の話を止めなければと頭の中で危険信号が鳴る。これ以上聞いてはいけない。それなのに喉が張りついたように乾いて声が出なかった。
 黙っていると、普段は気にならない川の流れる音が耳につくなと思った。ザァザァと流れる水はその気配を濃くしている。この下に大量の水が流れている事が急に恐ろしいと思った。
「昨日って雨じゃなかったけ……」
 宇佐美先輩が自身の言葉に驚くような素振りを見せて手で口を覆った。確かに昨日は日付が変わる前に雨が上がって、今日は朝から晴れていた。でも、そんな事関係がある訳ない。
「最初はもうちょっと遠かったんだけど、だんだん近づいて来てるな」
空閑はこの場の空気の重さに気がつかないのか、普段通りに話し続けた。
「えっと、待って。その人が支部にって意味じゃないよね?——今、どこにいるの?」
そう言う先輩の声は少し震えていた。先輩の指がぼくの二の腕に痛いほど食い込んでいるけれど、痛みなんか気にならないほど寒気がする。冷や汗が背中を伝って落ちた。
 異様な雰囲気が満ちている部屋の中でただひとり普段と変わらない空閑が、すっと人差し指を窓の方へ向けてあっさりと告げた。

 「そこだよ」

黄色いレインコートの女/了