絵馬ユズルが影浦隊の作戦室に着いたのは午後の五時半ごろだった。
 廊下を歩きながら携帯を操作して雨取さん宛てにメッセージを作成して送信する。結局、合同練習に雨取さんは来なかった。夏目の話を聞いてから湧いた嫌な予感が、胸の中でぼこぼこと泡のように現れて増幅する。返信を待つ間そわそわと落ち着かない気持ちになって、直ぐに安否を確認できる電話にすれば良かっただろうかと後悔していると、ぽこんと間抜けな音がして通知が鳴った。すぐに画面を操作すると雨取さんから返信が来ていた。ドキドキしながらメッセージをタップすると、彼女の身に何かあった訳ではなく、どうやら玉狛で起きたトラブルのせいで合同訓練に参加出来なかったらしい。ほっと胸を撫で下して、何故自分がこんなにも不安になっていたのだろうと思う。
 メッセージの最後に「ユズルくん達に会えなくて残念」と書いてあるのを読んで、胸の奥がむずむずとした。その一言に他意はないのはわかっているのだけれど。
 作戦室に扉のロックを外して中へ入ると、他の三人はまだ来ていないようだった。薄暗い室内をザッと見渡して、電気のスイッチを入れる。みんなが来るまで宿題でもして待ってよう。
 他に誰もいないならと、炬燵に入れた足を思いっきり伸ばした。そうすると足の先が、ぐに、と柔らかいものにぶつかる。驚いて反対側を覗くと、炬燵布団が盛り上がっているところがある。……なんだヒカリの足か。作戦室に猫などいないが、何故か猫を踏んでしまったのかと錯覚した。
「ヒカリそこで寝てると風邪ひくよ」
 冬ほど寒くないので炬燵のスイッチは入っていない。一応声を掛けたものの、炬燵の中で丸まった物体は身じろぎもしなかった。元より起こすつもりもあまりなかったので、カゲさん達が来るまでは寝かせておいてあげようと放って置くことにした。
 コチ、コチ、と時計の秒針の音だけが聞こえる。一定のリズムを刻んでいる筈なのに、音がどんどんゆっくりになっている気がする。開いた教科書の文章が段々とぼやけて、意味を成さないぐにゃぐにゃとした線になってしまう。
 なんで炬燵って眠くなるんだろう。そう思いながら、オレは睡魔に抗うのを諦めた。


◇◇◇


 「あれ?ごめん、ユズル寝てた?」
 急に眩しくなって目を開けるとゾエさんがドアの側に立っていた。うつ伏せで寝ていたせいか胸が妙に息苦しい。それに全力疾走した後みたいに心臓がばくばくしてる。嫌な汗が背中を伝うのを感じて炬燵の電源を確認するも、電源はオフのままだった。暑くもないのに、どうしてオレはこんなに汗をかいているのだろう。
「ううん、大丈夫。カゲさんは?」
「カゲも、もうすぐ来ると思うよ。ヒカリちゃんは三輪くん捕まえてなんかしてたから、ちょっと遅れるかも……」
 ゾエさんが困ったように笑った。ヒカリは炬燵で寝ていたのに、いつの間に外に出たのか。さっき足がぶつかった時の感触を思い出す。弾力のある柔らかいものだったし、布団からはみ出た頭も見たはずだ。寝ていたヒカリが出て行くのも気が付かない位深く眠っていたようには思えないのに。
「ゾエさん。いま何時?」
「ん?五時半を過ぎたところだよ」
 五時半……?オレはまだ夢を見ているのだろうか。ぼうっとしていると、ゾエさんの心配そうな眼差しと視線がぶつかった。

「セーフ!!」
 ヒカリが大きな声を出しながら、勢い良く部屋に入ってきた。後ろにはカゲさんもいるのも見えた。いつもと変わらない三人に会えたのが泣きたいほど嬉しい。この部屋でヒカリを見たのは夢だったのだ。
「二人とも遅刻だよ〜」
 北添が全然怒ってない声で二人をやんわり窘める。
「文句はコイツに言え」
それに対して影浦はガリガリと乱暴に後頭部を掻き毟った。一方の仁礼は特段気にした様子もなく、荷物を床に放り投げると炬燵へ滑り込んだ。
「うわあ!?なんだこれ!!びしょびしょじゃねーか!!」
 ヒカリが炬燵に入ろうと布団を捲ると、下に敷いたカーペットが濡れていた。濡れているのはヒカリが定位置にしている———さっき誰かが寝ていると思った辺りだ。そうだ。だからヒカリが寝ていると思い込んだのだ。
 カーペットは濡れた所が変色して濃い灰色になっている。それはちょうど全身ずぶ濡れの人がそこで横になっていたように見えなくもない。
 じっとりと湿ったその染みは、澱んだ水の臭いがした。


◇◇◇


 あの日の出来事は影浦隊の中で有耶無耶にしたきり、もう誰も口にしない。濡れたカーペットを掃除する際に、炬燵をしまおうという話になったのだが、結局は翌日からまた寒い日が続いたので結局出しっ放しになっている。それでも、ひとりの時に炬燵に入るものは居ない。あの事件後「ひとりで居る時には炬燵に入らない」と言うのが影浦隊の暗黙の了解になっている。
 昨日雨が降ったせいで、今日もパッとしない天気だった。どんよりとした空が体感温度を下げる。影浦隊の四人は全員で炬燵に入り、ランク戦のログを見たり勉強をしたり漫画を読んだり……つまり各々好き勝手していた。
「うお、わりぃ誰か蹴飛ばしちまった!」
起き上がったヒカリが慌てて謝るが、対面にいるオレの足には何も触れていない。首を横に振って自分じゃないと意思表示した。
「あ?俺でもねぇよ」
「ゾエさんの足でもないよ?」
二人の返答にヒカリの表情は曇った。恐らくあの日の事を思い出したんだろう。オレはヒカリを安心させたくて(実際にそう思ったのもあるけれど)ぶつかったのが足だと思ったのは気の所為なんじゃないかと返した。
「飲みかけのペットボトルとか入ってるんじゃない?」
「ゴミはちゃんと捨てておけよ〜」
 ヒカリは納得したようではなかったけれど、そう思うことにしたようだ。無理矢理明るく言うヒカリに、男三人もワザとらしく軽口を叩く。炬燵の周りにはあるのはほとんどが彼女の私物だからだ。

 一瞬全員が黙る間があった。

 部屋の空気がぐにゃっと歪んだような気がしたがそれこそ気の所為だろう。沈黙が続く中、ヒカリが脈絡もなく炬燵布団を勢いよく捲った。何も言わずにじぃっと中を凝視している。彼女が何も言わないので、残った三人も自分の前にある炬燵布団を捲って中を覗き込む。

 薄暗い炬燵の中に、誰のでもない足が一本混じっていた。

ひとりおおい/了