「陽介」
 名前を呼ばれて振り返ると、仁礼を背中に引っ付けた秀次がいた。おっ?面白い事になってんじゃんと思ったのだが、目が合っただけで苦々しいため息を吐かれたのでコメントは控えておく。
「この後二宮さんに呼ばれている」
それだけ伝えると三輪はくるりと踵を返して歩き出した。もちろんその背中には仁礼がくっついている。
「おー、りょーかい」
引き摺られる様に歩く仁礼を見ながら何かに似てるんだよなあと思った。なんだっけ、腕にくっつく風船みたいなやつ。

 米屋が作戦室へ戻ると、奈良坂と章平は和室に向かい合う様にして座っていた。二人に秀次からの伝言を伝えると、一度作戦室に寄っていたらしく、二人ともすでに知っていた。なんだ、じゃあ急いでここに来る必要もなかったか。ここへ来れば三輪の不在は分かったはずなのに、わざわざ呼び止めるなんて相変わらず真面目だなあと思う。
 ほとんど何も入ってない鞄を隅に放って、個人ランク戦でもやりに行こうとトリガーを握る。いつもなら何も言われないのに、今日は章平に引き止められた。
「最近、先輩来るの遅いですね」
「ん?あー、栞が黄色いカッパがどうとかで……。支部まで送り迎えしてるから?」
 途中で説明するのが面倒になって、適当にまとめる。それに対する奈良坂と章平の返事が重なった。
「「黄色の河童?」」
「河童は緑じゃないのか?」
「昔話だと赤い場合もあるらしいですよ」
 奈良坂の突っ込みに章平が補足をした。はじめて聞いた話だが、章平が言うならそうなんだろう。
「へ〜、さすが章平」
「あんまり嬉しくないです、それ。ごほん。それで、宇佐美先輩は大丈夫なんですか?もしかして、この前雨取さんが狙撃手の合同訓練をお休みしたのと関係があったりするんですか?」
「チビ子の事はわかんねーけど、栞は元気そう。川が嫌だとか叫んでるし」
「(宇佐美先輩が叫んでるのは想像出来ないな……)
 そんな事言ったって、玉狛支部って川の上に建ってるじゃないですか」
「だからひとりで行きたくないんだと」

 プルルるるるるるるるるるルるるるるる

 室内にけたたましく響く電子音に何事かと三人とも身構える。音の出どころは、と探すと隅に置いた米屋の鞄からだった。普段マナーモードにしているから、着信を知らせる音だとはすぐには気がつかなかった。
「ん?秀次から電話だ。もしも〜し」
 電話をとった米屋は、端末を耳につけたまま難しい顔をした。何度か三輪の名前を呼んでから、ジッと黙った。相手の話を聞いているにしては相槌のひとつもない。
「先輩どうしたんですか?」
 米屋はスピーカーにすると、端末を古寺と奈良坂に差し出した。
「なんも聞こえねーの。や、雑音?はすんだけど」

 ザァァ、ザァァ、ザァァ。

 机に置かれた端末からは、途切れなくノイズの音がしている。米屋と古寺は、彼ならばどうにかしてくれるんじゃないかと、根拠のない期待をして奈良坂を見た。
「壊れてるんじゃないか?」
 奈良坂が一度切って掛け直した方がいいと忠告した。だが、電源ボタンを押したのに、通話中の表示が消えなかった。相手は『非通知』となっている。
 部屋の温度がすぅっと下がった。ジメジメとした空気が、肌に纏わりついて気持ちが悪い。
 飽和水蒸気量が下がっているのを見て、湿度が上がったのだと気が付いた。その証拠に、グラスの表面から水滴がつたってテーブルに染みを作った。
 章平が覚悟を決めたように、ごくりと喉を鳴らしてから口を開く。
「これ、ノイズじゃなくて、雨の降る音に聞こえませんか?」

 古寺の指摘になるほど、確かに雨が地面にぶつかる音だと思う。
 ザァァ、ザァァ、と途切れ途切れに聞こえる雨音に奈良坂は、自然音を聞くだけでストレスの軽減になることや集中力が上がると何かで読んだなと思い出したが、後輩の青ざめた表情にそれを口に出すのはやめた。
「あら?どうしたの?」
作戦室に入ってきた月見は、テーブルに置いた端末を囲むようにして座る三人が神妙な面持ちなので不審に思って声を掛ける。
「っ通話が、切れなくて」
 俯いていた古寺がバッと顔を上げると裏返りそうな声で月見に伝える。青白い顔色の三人を見て、月見はその美しい首を斜めに傾けて僅かに思案した。巫山戯ている雰囲気は一切なく三人は真剣そのものだった。
 真っ暗な画面のそれと三人の後輩たちの顔を見比べた。電源ボタンをどんなに押しても、落ちてくれないらしい。
「それはいけないわ」
 月見は肩に掛けていた細長いケースのジッパーをおもむろにあけた。そのスポーティな黒いケースから出て来たのは、淑やかな月見には不釣り合いの赤い金属バットだった。
「ちょうど持ってて良かったわ。これを切断すれば良いのよね?」
切断という単語に違和感を覚えたものの古寺はこくこくと無言で頷く。携帯の持ち主は相変わらず黙って画面を見つめたままだ。
 月見はバットにマジックペンで斬鉄剣と達筆な字で書くと、そのままバット大きく振りかぶった。
 ———あ。
 パキャ、とおもちゃみたいな音を立てて画面のガラスが割れる。バットは机をすり抜けて、携帯だけを真っ二つにした。電話も中々に異様だったが、蓮さんの行動にも圧倒される。
「ごめんなさい。ちょっと失敗しちゃった。でもこれで縁も切れたはずよ」
 成功がどんな状態を示すものか分からなかったが、月見先輩の言う通りとにかくあの不可解な電話は切れたようだった。それならば目的自体は達成出来たのだと思う。携帯自体が使えなくなると言う被害が出てしまったけれど、米屋先輩のだし、そもそもあのままでも使えないんだから良いだろう……と思う事にした。
「月見先輩はなんで野球のバットを持ってたんですか?」
後ろで「オレの携帯〜〜」と嘆く先輩を放って置いて、疑問だったことを尋ねる。
「羽矢ちゃんに資料として貸してたの」
 羽矢ちゃんとは、王子隊のオペレーターの橘高さんの事だ。月見先輩とバットの組み合わせと同じく彼女とバットもあまり結びつかないので、新しいトリガーを模索しているのかも知れない。
 ……王子隊のアタッカーが孤月の代わりにバットを振り回しているのは想像に難い。白い手袋をしてバットを振るう姿は刀を振るうより恐ろしい気がするのは何故だろうか。
「本当は通話だけスパッと切りたかったんだけれど、いきなり上手くは行かないわね」
 形の良い眉が顰められ、胸がどきりとした。普段から整った顔立ちの先輩と一緒にいるもののいつまで経っても慣れることはない。美人が三日で飽きるなんて、昔の人はよくもそんな事が言えたものだ。
「外って雨降ってたりします?」
完全に沈黙した携帯の切断面から伸びるコードを摘みながら米屋が月見に訊ねた。
「いいえ。外から掛かってきた電話だったの?」
「通知は秀次からだったんだけど、あいつ二宮さんとこ呼ばれてて」
 米屋はさっき電話が掛かってくる前の話を簡単に説明しようとした。その瞬間に画面が粉々に割れて中の基盤が見えている端末が、押し殺した唸り声みたいな音を立てて震える。
「わぁ!」
 米屋は持っていた携帯の半分を放り投げた。落ちてさらに粉々になった携帯の液晶が着信を告げる。古寺は悲鳴を上げてしまったばつの悪さに眼鏡を触った。けれど、古寺だけではなく普段感情表現が乏しい奈良坂でさえ驚愕した顔で机の上にある残り半分のガラクタを見た。
「三輪くんもどこからか貰って来ちゃったのかしら。穢れは感染るものだし、本部は人がたくさん集まっているから……防ぎようがないわね」
 忘れ物しちゃった、くらいの軽い口ぶりで彼女は言ったが古寺は冷や汗がこめかみを伝うのを感じた。
「ええと、穢れって事は祓ったり清めたりすれば良いんじゃないですか?」
机の上で震える端末を指差しながら問うた。
「日常の澱は祓えても、死や不浄に触れた時の穢れは移さないように隔離して、時間をかけて薄まって行くのを待つしかないわ。そうね、特効薬のないインフルエンザみたいなものかしら?」
こてんと首を傾げる月見先輩の黒い髪がサラサラと音を立てた。
「それって治らないとどうなるんですか?」
 年間のインフルエンザの死亡者数を思い出しながら古寺は口にして、言い終わってからとても後悔した。恐らく聞いてはいけなかったのだ。
 月見は紅い唇に人差し指を当てて、幽かに微笑んだ。

触穢/了