三門市にある界境防衛機関ボーダーの本部は山と川の間にある。市街地だったそこが現在の警戒区域になるまでどんな風だったか山育ちのあたしは知らない。
 そんな事を取り留めもなく考えながら本部に向かって歩いていると、ふと呼び止めたれた気がしてその場に立ち止まった。辺りを見回してみるも人影はない。女の子の声が確かに自分を呼んだ気がしたのにと首を傾げていると、強い風が吹き付けて制服のスカートがあおられてバタバタと音を立てた。
(誰もいないし気の所為だったのかな。それか風の音かも……)
 ぶ厚い雲が空を覆っていて、もう六月だと言うのに長袖でも寒いくらいだった。だから今日は人通りが少ないのかも知れない。なんだか急にひとりでいるのが心細く感じる。中学生にもなってひとりが怖いなんて、と思うのに早歩きはいつの間にか全力疾走に変わっていた。
「あれ?戻ってきたんだ?」
 作戦室へ向かうためロビーを足早に横切って進むと、紙コップを持った幼馴染に声を掛けられた。戻ってきたも何も今さっきボーダー本部に着いたばかりである。一体何の事か分からずに黒江は眉を顰めた。
「はいこれ。落としてたから拾っといた〜。んじゃ、オレ遊真先輩と個人ランク線だから」
「駿!」
 ひらひらと後ろ手で手を振る緑川を慌てて呼び止めるが、その後ろ姿はあっという間にラウンジの喧騒に飲まれてしまった。強引に手渡された淡いピンク色のハンカチに身に覚えはない。蝶々の模様が可愛らしいけれど、所々汚れてしまっていた。
(これどうしよう)
 その場で逡巡したあと、帰りにボーダーの受付の人に忘れ物として届ける事にする。そう決めてハンカチを制服のポケットにしまった。今いる場所からは作戦室より受付の方が近いのだけれど、いまは早く隊の先輩たちに会いたかった。
 来る途中に誰かに名前を呼ばれたのも、駿が見たと言う自分に似た人間が本部にいるのも怖かったから。

 作戦室の扉を開けると、ヒールのついたパンプスが一足綺麗に揃えてあった。どうやら真衣さんたちはまだ来ていないらしい。今日は集合する日じゃなかったから、もしかすると会えないのかも知れない。
(でも、加古さんがいる)
 ガチャン、と後ろ手で扉を閉めて靴を脱ぎかけた時に作戦室に違和感を感じた。それなのに、見回しても違和感の原因は見当たらなかった。それはそうだろう、昨日もここへ来たのだからそう大きな変化があるはずもない。そう思いながらも違和感が消えないのは何故だろう。
 なんとなく、居心地の悪さを感じる。これは自分の知っている作戦室ではない。そんな突拍子もない考えが黒江の頭に浮かんだ。ただ見た目に変わりはないので、別の部屋に加古隊にあるものをそっくりそのまま移動させた様な———もしくは、場所は同じでも家具や雑貨を全部新品に買い換えたみたいな———そんな違和感だ。
 入り口で立ち止まっていると、加古さんの凜とした声が部屋の奥から聞こえた。
「双葉が戻って来るから鍵は開けておいてね」
 ひゅっと吸い込んだ呼吸が止まる。だって黒江双葉はあたしだ。あたしはもう作戦室にいるのに、加古さんはこれから双葉がここに来ると言った。
 それじゃあ、あたしは誰なんだろう。駿が見たと言うあたしと似た何者かが黒江双葉の本物なのか。いや、そんな事ある訳が無い。それを一番よく知っているのはあたしじゃないか。
 現実的に考えると他人の空似か見間違いが妥当な線だが、ボーダーに中学生は多くない。嬉しくない特徴だが、自身の背が低いのは承知している。人違いとは考えにくいのだ。それ以前に加古さんがあたしを見間違えたり、冗談でもこんな事を言うとは思えなかった。
 ガチャ、とドアノブが回る音を背中で聞く。
 振り返ってしまえば良いのに、足がすくんで動けない。もし本当にあたしが入って来たら———そう思うとぞわぞわと悪寒が足元から駆け上ってくる。
 キィ、と扉が開く気配がしてヒヤリとした空気がサァァと通り抜けていった。
「随分と早かったわね」
 トタトタトタと足音がして、加古さんが目の前に現れる。いつもと変わらないあたしの尊敬する先輩。
 加古さんはにっこりと笑うとその美しい髪を耳にかけた。
「おかえりなさい」
 いつもと同じ光景なのに、あたしは怖くて怖くて背後を振り向けない。加古さんは身動ぎすらしないあたしではなく、もう少し後ろの方を見て困った様に眉を下げた。
 あたしの左肩の位置から知らない女の子の声がする。喚く様な唸る様なその間伸びした声が日本語を話したのかどうかあたしにはわからなかった。それでも加古さんには通じたようで、満足した様に頷いて作戦室の奥へと歩いて向かう。二人分の足音が部屋の中へ消えていった。

 あたしは泣き出したいのを堪えて「ただいま戻りました」と一言だけ口にした。
                                                                                                                               ひとまちがい/了